偉人のエピソード逸話集

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早川徳次

早川徳次(はやかわ・とくじ)略歴(プロフィール)
1893年~1980年(明治26年~昭和55年)シャープ創業者。東京・日本橋生まれ。二歳の時に養子に出され貧困の中で育った。丁稚奉公ののち、かざり職人として独立。大正4年、繰り出し鉛筆シャープペンシルを発明。関東大震災で全てを失い、大正13年大阪で早川金属工業研究所を設立して社長。昭和17年、早川電機工業に社名変更。昭和45年シャープに社名変更し会長。昭和51年、勲二等瑞宝章。86歳で没。著書に「私と事業」

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早川徳次(シャープ創業者)語録 http://bit.ly/w1iAEv




平成23年6月9日

早川徳次の知られざる秘話

題名:震災で全てを失いそこから世界的な大企業をつくり上げた男
 


「戦災でも焼けなかった資本がある。それはグリコという看板である。過去30年間営々として築き上げてきたわれわれ最大の資本である。」
グリコ 創業者 江崎利一(えざきりいち)

3月11日の東日本大震災は多くの人命を奪い、押し寄せた津波は一瞬のうちに東北の海岸沿いの街を幾つも呑み込んだ。家族を亡くした人、家を失くした人、職場を失くした人、工場を失くした人、中には命以外のあらゆる物を失くした人も少なくないであろう。どんなに立派な豪邸や美術品を持っていても地震や津波や火事などの天災がくれば一瞬のうちに失う。しかしどんな大災害に遭遇しようとも失わないものがある。それは「信用」である。それまでその人が培ってきた信用があるならば一早く立ちあがることが出来るであろう。どんな大災害もその人の「信用」まで奪うことが出来ない。

その象徴的の人物がシャープの創業者、早川徳次(はやかわとくじ、明治26年~昭和55年)である。何故なら彼は関東大震災で家族も工場も全てを失ったが自分を信用してくれる部下とともに一早く立ち上がり、世界的な大企業をつくり上げたからだ。

1950年(昭和25年)、前年のドッチライン(日本経済再建のための具体案)によってインフレ抑止策が実施され、不況が進行した。そのため商品が売れなくなり倒産する企業が後をたたなかった。シャープも売上高が前期に比べて45%減となりいよいよ資金繰りにも行き詰まった。創業者の早川徳次は遊休施設や不動産、個人の土地まで手放し対処して、いよいよ大詰めの銀行交渉となった。銀行は経営の合理化を図って再建するというのならば、もう一度融資をしてもいいという。588名の人員がいたがさらにその中から何人かの人員を整理しろというのだ。

早川はその時の気持ちを「私の履歴書」の中でこう語っている「しかし私に整理などできる話ではなかった。私は人員の整理をやるくらいなら、むしろ会社が閉ざされる方を選ぶであろう。会社がつぶれても従業員諸君と一連託生ならばもって瞑すべきではないか」

この早川の従業員を思いやる気持ちが伝わったのか社内の空気が変わり、「会社をつぶしてはいけない」という声が従業員から起こり「われわれ従業員側で自主的に希望退職者を募って、人員削減に役立てよう」、この痛切な社員の声は組合代表から会社に正式に申し出された。結局、退職者は210名になったが銀行の融資の道は開けシャープは再び発展することが出来た。

早川の人柄が現れるエピソードであるが、この男はとにかく人望の厚い男であった。技術力があったからシャープは世界的な家電メーカーになったといえるだろうが、それだけではない。早川がどの経営者よりも部下に慕われ信頼があったからこそここまで発展したといえる。そのことはシャープの創業のルーツをひも解けば見えてくるだろう。

早川徳次は1893年(明治26年)、日清戦争の起こる前年に東京の日本橋で生まれた。生家は枡屋(ますや)という袋物問屋であった。働きものの両親であったが過労がたたり父親も母親も相次いで病床の人となってしまった。

この時から早川は不遇の少年時代を過ごすことになる。3歳で養子に出されることになった。養子先は極貧だったうえ間もなく養母がいなくなる、そしてニ人目の継母が酷く早川を虐待した。新しい弟たちが生まれると食事をさせてもらえないことさえあったという。学校は小学校2年に上がったが退学させられる。そして内職にマッチはりを夜更けまでやらされることになった。こんな時に実家の両親が相次いで亡くなるがもちろん早川には何も知らされなかった。

9歳になると早川は錺屋(かざりや)店に丁稚奉公に出されるのだが、これが早川にとっての転機となった。錺屋とは、金属の簪(かんざし)などの細工物をつくる職人で、早川は金属加工の見習工として働くが、生まれつき手先が器用だったので仕事を覚えるのも早く機転も利いたので親方にもとても可愛がられた。その間、学校に通っていなかったがために字を読めなかったが、夜書物を開いて一晩一字ずつ覚えていった。これが評判になり本を読む夜店小僧といわれる程であった。

10年ほど働き一人前の錺職人となった早川は独立を考えはじめるようになる。当時ベルトは穴あき式だったが、穴あきでないベルトがあれば便利と思い、試行錯誤のすえバックルを考案。特許を取得して独立した。

早川20歳の時である。早川は後にシャープを創業してから日本初、世界初となる家電製品を次々につくり出したが、何か新しいものを生み出す才能は錺屋で技術を身につけることで芽生えたといえる。

錺屋で奉公したことが何よりも幸運であったといえるが、それに加えて早川にとっては人格形成をするうえでこの錺屋の親方との出会いは大きな影響を受けたようだ。

早川はこの親方との出会いを「私の履歴書」でこう語っている「主人の坂田芳松さんは昔気質のきっすいの江戸っ子で、人情にも厚い人であった。私は社会の第一歩で、こういう人にあったことは実に幸せなことで、ここで私は技術屋としての腕を磨くとともに、人の世の情けというものを授かったのだが、何物にもかえがたい収穫だった。逆境にあった私が、万一ここでも冷たいしうちをされていたら、はたしてどうであったろう。私は終生この主人から受けた情誼を忘れることはできない」

そして早川は独立する時、何よりもこの親方と別れるのが辛かったという。酒好きだった親方は早川のために杯を上げて独立を喜んでくれ酒がまわると「めでてえ、めでてえ」と何度も言いながら、鼻をつまらせた。親方夫婦には子供がいなかったのである。

早川は特許をとったバックルに「徳尾錠」(とくおじょう)という名をつけたが、便利さや新鮮さが受けて、やがて4千個まとまって注文が入ってきた。それからも早川は新しいものを次々と考案していく。水道自在器(水道のねじ)の新製品、万年筆のクリップや金輪など様々なものをつくり出した。そして早川徳次の名を世界に知らしめたのが「シャープ・ペンシル」の発明であった。鉛筆全盛の時代に世界に先駆けての発明であった。早川が23歳の時である。

当時のネーミングは早川式金属繰出鉛筆である。その合理性、新しさが人気を呼びまず評判になったのは外国においてで、横浜の貿易商館の一人が目をつけ輸出したところバカ受けした。国内でも売れはじめ人気が一層高まった。皇族、華族まで買ってくれるようになり前途羊々であった。利益金は全て設備投資にまわし工場も3つになり従業員も200名までになっていた。早川のシャープ・ペンシル事業は時代の波に乗って順調に発展しいく。

ところが1923年(大正12)年9月1日、午前11時58分、あの関東大震災がおこり一転全てを失うことになる。早川31歳の時であった。外へ出ていたが突然爆風にあったような激しい振動に襲われ、大波のゆれるような振動が起こった。早川は夢中で工場まで走り戻ったが、外はもう地獄のようなありさまである。倒壊した建物が道という道を塞ぎやがてあちらこちらから火の手があがった。3つの工場は全壊、妻と2人の息子も死に家族も亡くした。

関東大震災に出くわし全てを失った早川はそれまでいい気になって強がっていた鼻っ柱がいっぺんにどこかへ吹き飛んだ感じがしたという。見渡す限りあたりは廃墟である。文明は一瞬のうちに没落したように見えた。自分の事業復興の見通しはとうてい立ちそうもなく茫然自失するしかなかった。

悲劇はそれだけでは終わらない。無情にも取引先の大阪の日本文具製造が、シャープ・ペンシルが生産不能になったのだから特別契約金の一万円と融資していた事業拡張資金の一万円の合計二万円を「耳を揃えて即刻返済しろ」と矢の催促をしてきたのである。

返済できないと言うと先方は「それでは早川徳次の名義の特許48種を無償で使用させること。さらに当社の技術指導を6ヶ月間行うこと」という条件をつき出してきた。返済が出来ない早川はこの条件を呑むより他選択肢はなかった。失意のどん底で、単身で大阪に向かうことを決意すると、驚くことに若い14人の技術者たちがついてきた。「親方とどこまでも苦難をともにさせてください」と。全てを失い失意のドン底にあったが早川は感泣して再び力が湧いてきたという。この14人の信頼があれば再起出来る。再起して彼らに報いたいという気持が自身を奮いたたせた。

都落ちして日本文具製造の工場で、シャープ・ペンシルの企業秘密である製造秘密を伝授しながら6ヶ月間働き、1年後に大阪郊外の田辺で独立した。早川金属工業研究所(後に社名をシャープとする)の看板をかかげた。日本文具製造の契約期限がきたとき、早川は14名に向かって「きみたちは日本文具からは77円の月給をもらっている。早川金属工業にきても、その三分の二も支給してやれない。日本文具にとどまる方が賢明だよ」と言った。しかし14名は「苦難を共にします。親方がきっと素晴らしい発明をすると信じている」と言う。またしても早川は男泣きに泣いた。

シャープ・ペンシルの生産する特許権は奪われていたのだから文字通り無からのスタートであった。ペンシルはつくれない。そこで昔やった万年筆の付属金具やクリップの新型の物をつくって市内のメーカーの店に販売をして歩いた。
そうこうしているうちに間もなく早川にチャンスがやってくる。大阪の心斎橋にある時計店を訪ねた時だった。偶然にもそこに日本に初輸入された2台の米国製鉱石ラジオが到着した。飛びつくように財布をはたき1台を購入した。持ち帰って仲間と直ぐに分解に取り掛かる。

ラジオ放送が翌年開始することは決まっていたので電気器具商などがラジオの研究に乗り出したばかりであった。「事業を大きくするには新しい仕事を見つけ出すしかない、常に人より先を歩まねば」を信念にラジオ製造に没頭する。そして「国産ラジオ受信機第1号」が完成した。早川はこの鉱石式ラジオを「シャープ」と命名した。奪われたシャープ・ペンシルへの愛惜があったからにほかならない。

放送開始に合わせて市販すると飛ぶように売れた。事業が軌道にのっていく。しかし鉱石ラジオはさほど複雑ではなく、無線の知識があれば誰でもつくることが出来、つくれば売れる時代が続いた。そんななかで早川は真空管ラジオが登場するといち早く輸入品を手に入れて鉱石ラジオのときと同様に分解して研究を重ねた。

そして真空管ラジオを完成させ、売り出したのは1928年(昭和3年)であったが、その前年から起こった金融恐慌のため多くのラジオメーカーが倒産したが、早川はこの真空管ラジオを開発してたため危機を乗り越えることができた。

その後も早川は次々と新製品を開発していく。シャープは1951年( 昭和26年)他社にさきがけて国産初のテレビ第一号の試作に成功。NHKのテレビ放送がはじまる1ケ月前に、日本初のテレビ受信機を発売して成功を収めた。

その後、1960年(昭和35年)には初のカラーテレビを発売。さらに1962年(昭和37年)には日本初の電子レンジを発売した。続いて1964年(昭和39年)オールトランジスタ式の電卓を発売したがこれは世界初であった。

「初物の早川」と言われ「人に真似をされる商品づくり」をモットーに開拓者魂を発揮して早川はシャープを総合家電メーカーへと育てていった。

天災は忘れたころにやってくる。早川が関東大震災で全てを失ってもシャープという総合電気メーカーを築けたのは、それでも自分を信頼してついてきてくれた14名の部下がいたからこそであろう。

今後も日本にいるかぎり、いや地球上にいるかぎり天災を避けることは不可能である。しかし人からの「信頼」を培ってきた人は幾らでも復興が出来る。

以上

文責 田宮 卓

参考文献
青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社
小堺昭三 「人望 この人間的魅力を見よ!」三笠書房
日本経済新聞社 「私の履歴書 経済人6」日本経済新聞社
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  1. 2011/06/09(木) 01:53:03|
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