偉人のエピソード逸話集

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宮沢喜一

宮沢喜一(みやざわ・きいち)略歴
1919年~2007年(大正8年~平成19年)内閣総理大臣(第78代)、政治家、大蔵官僚。東京生まれ(本籍地は広島県福山市)。東京帝国大学法学部政治学科卒、大蔵省入省。昭和28年、大蔵省を退官し広島地方区より参議員選挙に出馬し当選。経済企画庁長官、昭和42年、衆議院議員選挙で初当選。通産大臣、外務大臣、内閣官房長官、大蔵大臣などを歴任し、平成3年、第78代内閣総理大臣に就任。内閣不信任案可決により衆議院を解散するも総選挙に敗れ内閣総辞職。その後、財務大臣(初代)などを歴任。87歳で没。

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平成22年11月8日

宮澤喜一元首相の知られざる逸話

題名:「宮澤喜一元首相の意外な一面」


 
人は頭が良すぎると、本人に意識がなくともそれを鼻にかけていると思われたり、何処か親しみにくいという損な面がある。その典型が故・宮澤喜一元首相であったと思う。

各国と交渉する時も通訳が必要のないぐらい語学堪能だった故・宮澤喜一(みやざわきいち)元首相。それでいて中国の古典にも通暁していた。頭脳明晰で教養も深く、財政、経済、国際情勢に明るい政治家であったことは誰もが認めるところであろう。

宮澤は東大法学部を1941年(昭和16年)に卒業すると大蔵省(現財務省)に入省。エリートコースを歩む。終戦で東久爾内閣(ひがしくにないかく)が出来ると島寿一蔵相(現財相)の秘書官に抜擢される。その後、渋沢敬三、石橋湛山(後に首相)、池田勇人(後に首相)と4代の蔵相秘書を務めるが、補佐官としての名秘書ぶりは際立っていたといわれる。歴代蔵相が宮澤を秘書官として重用したのは、抜群の政策理解能力と語学力であった。池田勇人にいたっては蔵相、通産相(現経産相)、首相とのぼりつめていく過程で、片時も宮澤を手放さなかった。講和条約、池田・ロバートソン会談、吉田茂・アイゼンハワー会談、池田・ケネディ会談など、戦後日米間の重要会議ではつねに宮澤がいて、むしろ主役以上の活躍をしていたといわれる。こうした宮澤の能力に対して池田は米政府の要人から「君は小さいけれどもよく光るダイヤモンドを持っていて幸せだ」と羨ましがられたほどであった。戦後の日米関係は宮澤の才能が構築させたともいえるかもしれない。

しかしあまりにも頭脳明晰で頭がいいゆえ、人のために汗を流さない、人情の機微に疎い政治家という印象を国民は受ける。実際、新聞記者と会ってもつまらぬ質問をすると人を小バカにするような表情になる。新聞記者の夜打ち朝駆けも一切受け付けなかったという。

ところがそれでは総理には成れないと思ったか、自宅を改造し立派な応接間をつくり、そこを新聞記者や鈴木派議員や政財官界の懇談の場として提供するようになる「皆さんどうぞ」といいながらお酌までするようになったというから凄い変わりようである。

またこんな意外な一面もあった。田中角栄元首相が倒れて入院した時、宮澤はそのことを自宅のテレビニュースで知った。すると直ぐに着替え、一人でタクシーをつかまえ東京逓信病院に駆けつけた。警護のSPも間に合わないくらい素早く、自民党大物のなかでは一番のりという快挙だったというから凄い。
やれば出来るではないか(笑)

文責 田宮 卓

参考文献
小林吉弥 「田中角栄の人を動かす」極意 光文社
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  1. 2010/11/08(月) 22:28:02|
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