偉人のエピソード逸話集

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山本為三郎

山本為三郎(やまもと・ためさぶろう)略歴
1893年~1966年(明治26年~昭和41年))実業家。ビール王、ホテル王と呼ばれた。大阪市中央区船場生まれ。明治42年、旧制北野中学校(現、北野高校)在学中、家業早期継承のため父が隠居、家業を継ぐ。昭和24年、朝日麦酒(現・アサヒビール)社長に就任。その後、新大阪ホテル、大阪ロイヤルホテルを設立。昭和30年、東京交響楽団理事長に就任。昭和41年、実業家として現役のまま、72歳で死去。

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山本為三郎の知られざる逸話

平成21年7月17日
題名:「今こそ共存共栄の精神を」


1963年(昭和38年)洋酒大手の寿屋(サントリー)社長の佐治敬三はビール事業進出を決断していたが、ビール市場は朝日麦酒(アサヒビール)、日本麦酒(サッポロビール)、麒麟麦酒(キリンビール)3社の寡占市場であった。

全国の卸屋(東京・横浜は除く)はすべて、キリン、サッポロ、アサヒ何れかのビールの特約卸売店に指定され、しかもそのほとんどが専売契約に縛られて一社の製品しか扱えなかった。蟻の這いいる隙間もない状況でした。実際に数年前、宝酒造が新規参入を試みましたが撤退を余儀なくされている。

佐治は意を決して、朝日麦酒社長の山本為三郎の門をたたきました。山本は佐治の父親の信治郎(寿屋の創業者)とは同じ大阪の船場の育ちで竹馬の友でした。佐治は無理を承知で頭を下げると、意外にも山本は「よし、わかった。うちの販売網を貸そう」と言ってくれた。「わが国のビール生産者は世界に類を見ないほど数少ない。業界の健全な発展のためには一つくらい新しい会社が育つようにしてやらなくてはならない」これが山本の門戸開放の弁であった。

山本の家は生粋の大阪町人である。大阪人を知りたければ山本の家にいけば一番正統な大阪が残っていると言われるぐらいであった。大阪商人の商人訓で「近所に同業ができたら誼みを厚くして相励め」というのがあります。同業は競争者ではないという精神である。 
「大阪の道修町の街は端から端まで薬屋が並んでいるが食うか食われるかの激しい競争ではなく共存共栄の精神で徹してきたのだと思う。これが本当の大阪商人である」と山本は生前語っていたという。

サントリーにビールの門戸開放を決断したのも山本が大阪商人の共存共栄の精神を受けついでいたからではないかと思います。

またパナソニックの創業者、松下幸之助は仕入先との共存共栄を常に考え自分のところだけ儲けることはしなかったと言われています。仕入先に値下げをお願いする時は、仕入先の工場を見せてもらい、この点を改善すればもっと安く出来るのでないかと先方と一緒に検討し、十分得心してもらってから値下げをしてもらっていたそうです。

しかし今はどうでしょうか。少しでもコストを削減したいがために一方的に発注者側が価格を叩くということが行われていると思います。発注先が損をしてもそんなことは気にもしないのでしょう。

この不景気でどこも苦しいのは同じです。私はこれから自分だけ生き残ればいいという発想の会社は行き詰り、苦しい時こそ共存共栄の精神で取組んでいける会社が生残るのではないかと思います。
 
文責 田宮 卓
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  1. 2009/07/17(金) 22:57:43|
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