偉人のエピソード逸話集

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高橋是清(第20代内閣総理大臣)

高橋是清(たかはし・これきよ)略歴(プロフィール)
1854年~1936年(安政元年~昭和11年)日銀総裁、大蔵大臣、第20代内閣総理大臣歴任。江戸生まれ。1875年、東京英語学校教師となる。1881年、農商務省工務局に入る。1892年、日銀に入る。1911年、日銀総裁となる。1913年、大蔵大臣、1921年、第20代内閣総理大臣。総理大臣辞職後も農商務相、大蔵大臣を歴任。1936年、2・26事件。赤坂の私邸で反乱軍の襲撃を受け、青年将校に射殺される。83歳で没。

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高橋是清の知られざる秘話

平成23年9月24日
題名:「ポストに執着しない男」




菅第2次内閣がスタートしたが、閣僚人事には妬みややっかみがつきものであるといわれる。自民党政権の時もそうであったが、このことは何も政界だけに限ったことではなく、官僚の政界でも民間企業の世界でも同じであろう。

しかし昔は私欲がなくポストにどこまでも執着しない恬淡(てんたん)とした人物が多くいた。そのうちの一人が日本銀行の歴代の総裁で唯一その肖像がお札(昭和25年から昭和32年にかけて発行された50円札)として使用された高橋是清(たかはしこれきよ)であろう。高橋は第20代内閣総理大臣も務めた。

高橋は安政元年(1854年)に生まれ昭和11年(1936年)に亡くなるまでのその83年の生涯は実に波乱万丈であった。芸者の箱屋(三味線運び)、アメリカでの奴隷から総理大臣にいたるまで、最下層から最上層に及ぶまで経験し、転職はゆうに20数回を数えるがポストや地位に関しては一貫して無欲であった。

明治22年(1889年)高橋は、農商務次官の敬愛する先輩から南米ペルーで銀を掘ってはどうかと話を持ちこまれる。資源小国の日本にとって労働力の吸収も見込める銀山の開発は大いなる魅力があると思い、初代特許局長の座をさっさと捨ててペルーのカラワクラ銀山経営のために自らも全財産をなげうっての出資、資本金50万円で日秘工業(にちひこうぎょう)株式会社を設立、その社長に就任する。しかしこのペルー銀山開発はとんでもない結果を招く。まず、日秘鉱業株式会社をつくるにあたり、カラワクラ銀山への下見調査に東京帝国大学卒業の田島某という技師をやったが、この技師がとんだ食わせ者でニセの報告書をデッチ上げていた。迂闊にもこれを高橋は信用してしまった。この技師はのちに詐欺罪で有罪判決を受ける。当時そんな裏事情は知らずに社長であった高橋は技師や、鉱夫を引き連れ、成功を夢見て現地入りした。ところが、アンデス山中を登って現地に着いてみると、なんと銀山は廃鉱であった。高橋は騙されたのである。普通ならここで夜逃げをしたくなるところだが、高橋は違った。まずは自宅を売り払い現地へ連れていった技師や、鉱夫への賃金を清算、さらに負債を整理し、自ら売り払った家屋敷の直ぐ裏の家賃6円の長屋に引っ越してしまった。

女房と二人の息子をかかえ生活苦はくるところまで来てしまったが、捨てる神あれば拾う神ありで、高橋是清のような人物を、裏長屋で浪人させておくのはもったいないという声が起こる。北海道庁に勤めないか、群長はどうか、県知事はどうかと色んな話が持ち込まれてきたが、何とももったいないことに高橋はこれらの話を全部断ってしまう。その理由がこうだ「これまで私が官途についたのは、衣食のためにしたのではない。今日までは何時でも官を辞して差支えないだけの用意があったのである。従って、上官が間違っていて正しくないと思ったときは、敢然これと議論して憚るところがなかった。しかるにいまや、私は衣食のために苦慮せねばならぬ身分となっている。到底、以前のように精神的に国家に尽くすことができない」なんと私欲がないというか国家、公共のために尽くすという真摯な精神には頭が下がる。

そして今度は日本銀行の第3代総裁の川田小一郎(かわだこいちろう)が高橋の高潔な人物を評価し、ちょうど空席だった山陽鉄道の社長のポストを差し出す。当時の山陽鉄道の社長は今のJR西日本よりもはるかに大きい会社の社長といってもいいであろう。しかしこの話も高橋は断ってしまう。「ペルーの銀山で失敗し、ヤマ師とまで言われかねない経歴を持った人間を社長にして下さるお気持ちは大変うれしい。しかし、もし私が社長として失敗したら、天下の日銀総裁がその不明を恥じることにもなります。私は鉄道の社長など自信がありませんし、自信がないことは良心が許しません。私は自惚れを捨てたところから出発したいと思っています。どうか、丁稚小僧からやれる仕事を探していただきたい」川田総裁はますます高橋が気に入り、「ではワシのところで玄関番をやってみるか」とたたみかけるとようやく高橋は「喜んでやらせていただきます」と答えた。そこで「日本銀行建築所主任」という端役ポストが用意された。しかし一つだけ問題があった。その建築事務所の所長は辰野金吾と言い、以前高橋が英語学校で英語を教えていた時の教え子である。川田は「教え子の下では、ちと、まずいかな」と問うたが、高橋は「そんなことはありません。喜んで辰野さんの下で働きます」と答えた。どこまでも無欲、恬淡で私欲のない男である。

その後、高橋は清潔な人柄、人懐っこい性格、面倒みの良さ、仕事ぶり等が認められ日銀総裁まで登り詰める。山本内閣で大蔵大臣(現財務省)に就任したのをかわきりに蔵相を計7回務め、松方正義と並び日本財政史上の特筆すべき「二大財政家」と称される。7回とも大臣の要請があっても全て「ノー」、しかし国家のために尽くして欲しいと説得され結局引受ける。「御国のためだから」この言葉に高橋は弱い。7回目の蔵相は昭和9年(1934年)11月81歳の高齢であったが、折からの軍事費の増大に老体を張って反対、これが青年将校たちの怒りを招き、昭和11年(1936年)2月26日、いわゆる「二・二・六事件」により83年にわたる生涯を終えることになった。高橋は最後の蔵相を何故引き受けたか、その胸中を側近にこう語ったとされる「もっと歳が若くて、先へ行ってご奉公できるというのなら別だが、ワシはもうこの年齢だ。いま、ご奉公しなければする時がない。ワシは最後のご奉公と思って入閣した・・・」


文責 田宮 卓

参考文献
小林吉弥 「高橋是清と田中角栄 経済危機編」 光文社
小林吉弥 「高橋是清と田中角栄 不況脱出編」 光文社
小島直記 「スキな人キライな奴」 新潮文庫
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  1. 2010/09/24(金) 16:53:22|
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