偉人のエピソード逸話集

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後藤新平「人材育成」

後藤新平(ごとう・しんぺい)略歴
1857年~1929年(安政4年~昭和4年)都市計画の先駆者。南満州鉄道総裁、外務大臣、東京市長歴任。陸中国胆沢郡塩釜村(現岩手県水沢市)生まれ。1874 年福島県須賀川医学校に入学。1881年愛知県医学校長兼病院長。1890年ドイツに留学。1892年帰国。内務省衛生局長に就任。1898年台湾総督府民政局長、後に民政長官に就任。1906年南満州鉄道初代総裁に就任。1908年逓信大臣に就任。初代の鉄道院総裁を兼務。1916年内務大臣兼鉄道院総裁。1918年外務大臣就任。1920年東京市長就任。1923年内務大臣兼帝都復興院総裁に就任。関東大震災から帝都をいち早く復興させてその名を歴史に残す。71歳で没。

関連サイト
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後藤新平語録 http://bit.ly/wDs74n
後藤新平の知られざる逸話他
■ベンチャー企業を支援した政治家後藤新平 http://bit.ly/ACJzyp
■関東大震災から帝都を復興させた政治家(全7話)http://bit.ly/wnpLA4





後藤新平の知られざる逸話

平成23年2月11日
題名:「最大の経済対策は人を育てることである」



「人は無限大に能力を発揮する可能性を秘めている。だからこそ最大の経済対策は人を育てることである。」

後藤新平(ごとうしんぺい)(安政4年~昭和4年)という政治家は実に多くの実業家を育てたがその功績が語られることがあまりない。単純に研究者や作家で実業家を育てたという視点で後藤新平を捉えた人がいなかったからであろう。

後藤は内務大臣、外務大臣、東京市長等を歴任し行革と都市政策の先駆者としての功績で名を残しているが、ある時、後藤は「金を残して死ぬのは下だ。事業を残して死ぬのは中だ。人を残して死ぬのが上だ」と語ったとされる。この言葉通り後藤は多くの実業家を後世に残した。

後藤の関与を受けた実業家を上げればきりがないが、西武王国を築くルーツとなる軽井沢の沓掛(くつかけ)地区の開発を「今は経営者にしても気宇広大な奴がおらん。この軽井沢あたりも君のような若い者が50年ぐらいの計画で開発したらいい」と、堤康次郎(つつみやすじろう)(西武グループ創業者)に勧めたのは後藤であった。堤がまだ30歳にも満たない時である。

読売新聞の再建を頼まれた正力松太郎(しょうりきまつたろう)を支援したのも後藤であった。正力に「10万円(今なら数億円)貸してほしい」とお願いされた後藤は「新聞経営は難しいと聞いている。失敗しても未練を残すなよ。金は返す必要はない」と言い10万円をポンと貸したという。当時、正力は政治家のことだから、どこかから都合したのだろうと思った。しかし、後藤の死後、実は後藤が自宅を抵当に入れ、無理して借金をした金であることを遺族から聞かされて知ることになり、正力は号泣したという。

後藤は元々医者であったことから医薬産業に携わる実業家も育てた。星一(はじめ)が星製薬株式会社を設立するのを支援し、漢方薬の津村順天堂(現ツムラ)の創業者、津村重舎(つむらじゅうしゃ)を可愛がった。

また神戸のベンチャー企業、鈴木商店の番頭、金子直吉(かねこなおきち)の支援もした。後藤が台湾総督府民政長官の時、台湾の樟脳油65%の販売権を与え、鈴木商店大飛躍のきっかけをつくった。鈴木商店は三井、三菱と肩を並べるほどの大商社に発展する。 

しかし鈴木商店は昭和2年の金融恐慌の煽りを受けて倒産してしまう。だが鈴木商店が関係した会社は今も健在しているものが多く、神戸製鋼所、帝人、日商岩井(現双日)、豊年製油(現J-オイルミルズ)、石川島播磨(現IHI)、クロード式窒素工業(現三井化学)、帝国麦酒(現サッポロビール)等、全て金子が種を蒔いた事業である。

そして金子はまさに後藤の言葉通り「人を残して死んだ」実業家であった。金子の薫陶を受けた人は、高畑誠一(旧日商岩井の創業者)、大屋普三(帝人社長、吉田茂内閣の商工大臣、運輸大臣歴任)、杉山金太郎(豊年製油【現J-オイルミルズ】)社長、田宮嘉右衛門(神戸製鋼所の実質的創業者)、北村徳太郎(播磨造船所【現IHI】支配人、芦田均内閣の運輸大臣、大蔵大臣歴任)等、実に多くの人を育てた。

後藤が育てた人からまた人が育ち、今日に至るまで経済や雇用や税金の面で貢献する会社が数多く残った。

1938年(昭和13年)、総力戦遂行のため国家のすべての人的、物的資源を政府が統制運用できる旨を規定した「国家総動員法」が制定された。それと同じくして限られた資本と、少ない資源で出来るだけ多くのモノを作ろうと考え規格大量生産体制が確立される。官僚主導であらゆる生産が規格化された。これらの体制は国の資源や労働力のすべてを戦争目的のために仕向けるために作られたものであった。

さらに教育で規格大量生産体制に適した人材をつくることが行われた。学校制度を拡げ、規格大量生産の現場に適した「協調性と辛抱強さに富み、個性と独創性の乏しい」人材の養成を行なったのだ。

そして戦後は敗戦の原因の一つに物量戦で負けたという考えがあり、規格大量生産体制に適した人材育成により力を入れられた。試験勉強で同じ知識を詰め込み、「協調性があり、個性や独創性が乏しい」人材を育てた。こうした人材が大手企業に集まり、官僚主導のもと、規格大量生産体制が実現し日本の経済は見事に復興を果たすことが出来た。

規格大量生産体制のもと、大量生産、大量販売を原理に生産コストを下げ売値を下げ大量に販売をしていく。このことを「規模の経済」というが、これが発揮されるのが自動車業界、鉄鋼業界、電機業界になり、これらの業界が戦後の日本の経済発展に大きく貢献したことは誰もが認めるところであろう。日本人は世界で最も規格大量生産体制に向いた国民であったといえる。

しかし地球の資源は有限である。環境破壊を土台に成立する規模の経済化は限界に来た。21世紀は規模の経済を追求しなくても利益を出せる体制を確立する必要が出てきた。そのためには今度は「個性や独創性」があり自ら仕事を創り出せる人材が必要になってきたといえよう。

ところがここ最近ずっと政治や政府が行ってきたことは無駄な公共事業や天下り先となる特殊法人や外郭団体を作ることであって人を作ることを怠ってしまった。その付けが今一気に来てしまったといえる。

菅総理は6月までに財政、社会保障、税制の議論をして纏めたいと言っているが、同時に人を育てることの議論も行ってほしいものである。本当の意味での経済対策をこれ以上ほったらかしにしてはいけない。 

 文責 田宮 卓

参考文献
堺屋太一 「次はこうなる」 講談社
小島直記 「伝記に学ぶ人間学」竹井出版
郷 仙太郎 「小説 後藤新平」 人物文庫 学陽書房
桂 芳男 「幻の総合商社鈴木商店」 現代教養文庫
野口悠紀雄 「1940年体制」 東洋経済
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  1. 2011/02/11(金) 21:03:10|
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