偉人のエピソード逸話集

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伊庭貞剛(住友総理事)

伊庭貞剛(いば・ていごう)略歴
1847年~1926年(弘化4年~大正15年)住友合資第二総理事。1月5日近江(滋賀県)生まれ。明治12年司法省から住友入りし、大阪本店支配人。1890年、滋賀県選出初の衆議院議員。別子鉱業所支配人を経て、明治33年に住友総理事。鉄剛への進出をはじめ、産業勃興期に住友財閥の基礎を築いた。明治37年、57歳で隠退。79歳で没。

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伊庭貞剛の知られざる逸話

平成23年2月3日
題名:「幹部社員育成の要諦」



どの経営者も頭を悩ませることの一つは次に会社を背負っていく人材をどう育成していくかということであろう。どうすれば人は育つのか、私はまず経営者が社員に信用されることではないかと思う。このことなくしてどんな社員教育も無意味であろう。

不祥事が起きると社長が「私は何も知らなかった」「社員が勝手にやったこと」とテレビの前で平気で語るシーンを見ることがあるが、こういう会社で人材は絶対に育たない。たとえ優秀な社員がいたとしても、とっとと見切りをつけて他の会社に移ってしまうだろう。

住友グループの礎を築いた第2代総理事の伊庭貞鋼(いばていごう)(天保8年~大正15年)は部下が持ってきた書類に目を通さずに判を押すことで有名であった。しかし判を押すが責任はとらないというのではない。ことごとく判を押すが一度押した書類については絶対に責任をとったといわれる。

この書類を見ないで判を押したことで何が起きたかといえば、住友グループの礎を築く人材が次々と育ったのである。部下は何を書いても判を押してもらえる。しかし、不備な書類のために問題が起きれば全て伊庭(いば)さんが責任をとらなければいけなくなる。これでは申し訳ないということから、どうせ判を押してもらえると分かっていても、部下たちは一生懸命調査や準備をし、絶対に間違いのないよう書類を書いた。そういうことから、おのれ自身が最高意思決定者のような立場で、仕事をする習慣ができ人材が育っていったのである。

愛媛県の別子銅山の運営だけを長年生業としていた住友であったが、伊庭が総理事に就任すると住友銀行(現三井住友銀行)を創設した他、現在の住友金属工業、住友軽金属工業、住友電気工業、住友林業の前身となる事業や住友倉庫を設立するなど、育てた人材とともに現在の住友グループの土台を築いた。

日本商工会議所の会頭、新日本製鐵会長を務めた財界の大御所、永野重雄(ながのしげお)(明治33年~昭和59年)の秘書を務めた武田豊(たけだゆたか)(大正3年~平成16年)は永野に富士製鉄時代(後に八幡製鉄と合併し新日本製鐵)、秘書課長に抜擢された時にこう言われたという。「武田君、秘書という仕事はうまくいったって誰からも褒められない。失敗したって誰も助けてくれない。社員たちは妬みを込めていうだろう。「秘書の奴め・・・」。「重役の奴め!」とはいわないんだ。重役は最終目標のシンボルだから、その権威を傷つけようとは考えない。しかし、秘書は役員ではない。重役への反抗心が往々にして秘書に向けられやすい。だから、君は四面楚歌(しめんそか)に陥って袋叩きにされるかもしれない。だが、どんな場合でも、俺だけは君の味方であることを心に刻みつけておいてくれ」

武田は永野のこの言葉に感激したという。「兵を営んで死地へ飛び込ませるのは、名将の一つの資格だといわれるが、私はこの時、永野の馬前に討死する覚悟を決めた」と述懐する。武田はその後、永野の名秘書として使え死ぬまで二人の師弟関係は続いた。そして武田も新日本製鐵の社長となり会社を背負っていく立場となった。


文責 田宮 卓

参孝文献
小島直記 「伝記に学ぶ人間学」竹井出版
伊藤 肇 「社長の決断」 徳間文庫
日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人Ⅱ」 日経ビジネス文庫



 
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  1. 2011/02/03(木) 22:58:40|
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