偉人のエピソード逸話集

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奥田硯(トヨタ自動車元社長)

奥田硯(おくだ・ひろし)略歴)
1932年~(昭和7年~)トヨタ自動車元社長。日本経団連初代会長。三重県津市出身。一橋大学商学部卒業後、昭和30年にトヨタ自動車販売入社。マニラ駐在、経理部長などを経て昭和57年にトヨタ自動車取締役。平成7年に社長。工販合併後、初の豊田家以外からの社長。グローバル戦略や国内シェア回復に尽力した。平成11年、日経連会長。平成14年、日本経団連初代会長。

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奥田硯の知られざる逸話

平成22年12月15日
題名:「左遷は飛躍のチャンス」


 
久原(くはら)鉱業を創業し鉱山王の異名をとり、政界にも進出し逓信大臣、立憲政友会の総裁を歴任した久原房之助(くはらふさのすけ)(明治2年~昭和40年)は波乱万丈な人生を振り返り「人間は、一度へこたれたら、それでもうおしまいだ。ただ、へこたれるということは自分の心が決めることで、他人の決めるところではない。人が何と言おうが、自分の心がへこたれなければ、へこたれたことにはならない」

どんな状況でもへこたれたと思わなければへこたれたことにはならない。ごもっともである。明治の人は何と逞しい精神力であろうか。
 
サラリーマンにとって左遷は生き地獄であるかもしれないが、久原のようにそう思わなければ地獄ではなくなり飛躍のチャンスとなる。全ては自分の心がけ次第ということであろう。

一橋大学を卒業し豊田自販(現在はトヨタ自動車工業と合併しトヨタ自動車)に入社して経理マンとなった奥田碩(おくだひろし)(トヨタ元社長、経団連元会長)は個性が強く約束は必ず守り仕事はきちんとするが、上司に臆せずはっきり物を言うのでうとまれる存在でもあった。

1972年(昭和47年)、奥田はマニラに赴任することになった。経理部での上司との折り合いが悪く、事実上マニラに島流しにされたのだ。普通であればここでサラリーマンの人生は終わりであろう。よほどの奇跡でもなければ、本社勤務に戻され、さらに昇進することは不可能だ。

しかし奥田は落ち込むのではなくこのピンチをチャンスに変えようと必死に仕事に取り組んだ。奥田の仕事は、当時トヨタ車組立工場を経営していた地元デルタ・モーター社の未回収になっている代金の回収で、これまで前任者が誰もが成功しなかった仕事である。デルタ・モーター社のオーナーは当時のマルコス政権にも通じるリカルド・C・ルベリオ。広大な農園を所有するフィリピンきっての政商としても知られていた。ルベリオはその影響力をバックになかなかトヨタ側の支払い要求に応じなかった。奥田は考えた。「それならルベリオのバックにいるマルコス大統領と仲良くなればいい」

こうして奥田は、正面からマルコス政権との人脈を築き上げ、デルタ・モーター社に圧力をかけ、同社に湧水のように経費が流れ込んでいた経理システムを撤廃することに成功。さらに当初の計画から大幅に遅れて完成したデルタ社製エンジンの契約に対し、奥田の交渉力によって、なんとフィリピン政府から巨額の賠償金を支払わせることにも成功したのである。この話が日本にいる豊田章一郎(当時トヨタ自動車工業副社長)の耳に入った。豊田章一郎は当時、アジア開発銀行に出向してマニラに駐在していた藤本進・厚子という娘婿夫婦と初孫を訪ねて、しばしばマニラを訪ねていた。藤本夫妻から自宅に招かれていた奥田と初めて話をした豊田章一郎は、奥田のマルコス政権への人脈や仕事ぶりに驚かされる。「こんな逸材がマニラにくすぶっているのか。本社の人事は何をしているのか!」やがて奥田に帰国命令が届いた。6年半の左遷であったが本社勤務に復帰するだけでなく、豪亜部長への栄転であった。その豪亜部長を足がかりに、奥田はトヨタ社内で出世街道をひた走ることになった。
 
文責 田宮 卓

参考文献
水島愛一朗 「豊田家と松下家」 グラフ社
奥田碩/安藤忠雄共著「日本再生への道」NHK出版

 
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  1. 2010/12/15(水) 09:00:42|
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