偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

後藤新平

後藤新平(ごとう・しんぺい)略歴
1857年~1929年(安政4年~昭和4年)都市計画の先駆者。南満州鉄道総裁、外務大臣、東京市長歴任。陸中国胆沢郡塩釜村(現岩手県水沢市)生まれ。1874 年福島県須賀川医学校に入学。1881年愛知県医学校長兼病院長。1890年ドイツに留学。1892年帰国。内務省衛生局長に就任。1898年台湾総督府民政局長、後に民政長官に就任。1906年南満州鉄道初代総裁に就任。1908年逓信大臣に就任。初代の鉄道院総裁を兼務。1916年内務大臣兼鉄道院総裁。1918年外務大臣就任。1920年東京市長就任。1923年内務大臣兼帝都復興院総裁に就任。関東大震災から帝都をいち早く復興させてその名を歴史に残す。71歳で没。

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後藤新平語録 http://bit.ly/wDs74n
後藤新平の知られざる逸話他
■最大の経済対策は人を育てることである http://bit.ly/y0elfq
■ベンチャー企業を支援した政治家後藤新平 http://bit.ly/ACJzyp





後藤新平の知られざる逸話

平成23年7月1日
題名:「関東大震災から帝都を復興させた政治家」全7話



第1話

「人は日本の歴史に50ページ書いてもらうより、世界の歴史に1ページ書いてもらうことを心掛けねばならぬ」後藤新平(政治家)

今から100年ほど前に東京を世界に通用する偉大な都市に改造しようと見果てぬ夢を追いかけた政治家がいた。その男の名は後藤新平(ごとうしんぺい)である。

後藤新平は台湾総督府民政長官、南満州鉄道初代総裁、内務大臣、外務大臣、東京市長等を歴任し一般的には行革と都市政策の先駆者として知られる政治家であるが、打ち出す構想があまりにも大きいので「大風呂敷」と綽名されたことでも知られる。

関東大震災の時に内務大臣(帝都復興院総裁を兼務)に就任して帝都復興を指揮したのも後藤であるが、この時に打ち出した帝都復興計画もあまりにもスケールが大きいので、また「後藤の大風呂敷」が始まったと言われたが、結果的には帝都はいち早く復興させることが出来、後藤でなければあれだけ早い復興は出来なかったといわれる。この時の功績が後藤新平という政治家を後世に名を残したといってもいいかもしれない。

では何故、後藤は迅速に帝都復興が出来たのか、それは「下準備」があったからに他ならない。政治家は総理や大臣になることが目的であってはいけないと思う。要職に就く前に何を為すべきか明確な目的やビジョンを持ち、実行するための手段を考えておくべきである。こういった下準備がなくポストについた政治家でろくなやつはいない。

このことは何も政治家だけにいえることではなく、世の中に大きく貢献しようと思えば若いうちに下準備をしておくことが必要なのは古今東西、どの時代、国でも同じであろう。

「わが人生の成功のことごとくは、いかなる場合にもかならず15分前に到着したおかげである」ネルソン(英国海軍の英雄)

「私は機会の到来に備えて学び、いつでも仕事にかかれる態勢を整えている」エイブラハム・リンカーン(アメリカ合衆国第16代大統領)

「魚は招いて来るものではなく、来るときに向こうから勝手にやって来るものである。だから、魚を獲ろうと思えば、常日頃からちゃんと網の用意をしておかねばならない。人生すべての機会を補足するにも同じことがいえる」岩崎弥太郎(三菱財閥創始者)

古今東西の3人の偉人の名言を並べてみたが、下準備をしていなければチャンスが来ても通り過ぎていく。また下準備をした人のところにチャンスもやって来るということが伺いしることができるだろう。

後藤は徹底的な調査に基づいて積み上げた大胆な計画を持ちそれを実行する人材も確保していた。ところが東京市長時代に東京の大改革を行おうとしたが、この計画は帝国議会や大蔵省(現財務省)の反対で実現しなかった。しかし関東大震災の時に計画を実行(予算はかなり削られたが)する機会がやってきた。このことは国民にとっても幸福なことであったが、実現できたのは後藤に下準備があったからに他ならない。チャンスというものは思ってもみなかった時にやってくるものである。


第2話

後藤新平は1857年(安西5年)6月4日に陸中国胆沢郡塩釜村(現岩手県水沢市) で生まれた。父親は水沢城主の留守家(るすけ)の家臣であったが、水沢城主は独立の大名ではなく伊達家の家臣である。大叔父は江戸後期の医者、蘭学者で有名な高野長英(たかのちょうえい)であったが、新平は決して恵まれた環境で育ったわけではない。

高野長英は蘭学を修めた医者であったが、幕府の異国船打ち払い政策を批判して捕えられ、脱獄して逃亡し、結局は自殺している。そのことから新平は幼いときから近所の子に「謀叛人(むほんにん)の子」と罵られた。

そして1869年(明治2年)に鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いから始まった茂辰戦争(ぼしんせんそう)で仙台藩は薩長連合に敗れて降伏した。その家臣たる後藤家は北海道に移住して士籍を保つか、水沢に残って帰農するかの選択に迫られたがこの土地に留まって平民となる道を選んだ。

新平は被占領地域の没落層という肩身の狭い思いで少年期を過ごした。しかし不遇な境遇で育ったことで逆に 「今に見返してやる」という反骨精神が宿り、勤勉努力することで太刀打ちすることを覚えたのかもしれない。

新平は満12歳になると、水沢に胆沢県庁(いさわ)が置かれたので、とりあえずそこで給仕として働くことにした。給仕といっても役所の中でお茶汲みをするのではなく役人の自宅に勤務して玄関番や雑用をする仕事である。新平が給仕として最初に使えた人が安場保和(やすばやすかず)という肥後熊本藩出身の人であったが、この男が口癖に言っていたことを新平は生涯、難題にぶつかった時の判断基準としたと思われる節がある。安場が口癖にしていたのが同郷の横井小楠の教えである。横井小楠は幕末維新期の政治家で維新の10傑の一人に数えられるが、坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作が師と仰ぐほどの人物。勝海舟(かつかいしゅう)に至っては「氷川清和(ひかわせいわ)」の中で「おれは、今まで天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南州(隆盛)とだ」と語っているほどである。安場はこの横井の弟子であったのだ。

安場が新平に口癖にしていた横井の教えとは「政治は、万民のためを判断基準とする王道を歩むべきで、権謀術数による覇道を排すべきだ」つまり、つねに公の心をもって考えていれば判断は誤らないということである。実際にこの教えは新平の心に通って身にしみたと思われる。新平は生涯、藩閥、政党には属さなかったので公の心を持って判断が出来たといえる。しかし反面、藩閥、政党の後盾がないので政治基盤が軟弱であった。そのため、予算を削られたり、人事面で口出しされたりの横槍が入り、思うように政策が実行出来なかったのも事実である。

新平は3年ほど給仕として働いて、その仕事ぶりが認められたのか東京で太政官少吏の家で書生兼玄関番として住みこむことになった。この時はまだ政治家になることを志していたわけではないが、新平は若い頃に普通では会えない3人の大物政治家に接触する。人は大物の謦咳(けいがい)に接することで器が大きくなるものである。新平はこれらの大物に接することで政治家を意識するきっかけになったのではないかと思う。その大物政治家の一人にこの東京で出くわすことになる。

太政官少吏ともなれば色んな大物と接するので玄関番をしている新平も自然と見聞きすることになるが、そのうちの一人に他の人とは次元の違う風格を感じ、人間が大きいとはああいう人のことをゆうのかと思わせる人物を身近に見る機会があった。その人物は維新の豪傑「西郷隆盛」であった。西郷が「お暑うごわすな」の一言を発するのを、すれ違う時に聞いただけであったが新平には生涯忘れない思い出となった。

ここで少し話しはそれるが、私(筆者)は学生時代に衆議院宿舎で守衛のアルバイトをしていた。そこである代議士に秘書にならないかと声をかけられ、守衛のアルバイトから国会議員の秘書として国会で働くことになった。特に政治家を志望していたわけではないが、新平が西郷に接した時に「この人は凄い」と思ったような、そういう出会いがあることを期待したことは確かである。一瞬でもそう思える機会に恵まれたならば生涯の宝になると思ったからだ。守衛、秘書の仕事を通じて、管総理、鳩山前総理、小泉元首相、森元首相、羽田元首相などとも接する機会はあった。しかし凄い人達だなと思うところはあったが、心の底から「この人は凄い」と心酔するような人物にはついぞ出会うことがなかった。出会わなかったというよりも、そもそも維新の豪傑のような政治家などいないといった方が正しいかもしれない。

また国会で何十年と働いてきた大先輩が異口同音にいう言葉が「昔の政治家はもっと立派な人が多かった」であった。政界も財界も人物が小さくなったと嘆く。私は緒先輩方から昔の人はどう立派だったか散々聞かされた。

そこで、では昔の人はどう立派だったか自分が現代の人達に伝えていこうと思い書き始めたのがこの偉人ブログである。ただ一つだけ補足すると今政治は国民の期待に必ずしも応えられているとはいえないだろうが、真面目に頑張っている政治家も少なからずいる。自分が今の政治や政治家を変えていこうと真剣に取り組んでいる人がいることも事実である。こういう人達には頭が下がる思いで心から敬意を表したい。

新平が西郷の謦咳に接することが出来たことは東京に来ての大きな収穫であったが太政官少吏との関係はうまくいっていなかった。ある時新平は来客があり何時ものようにお茶を出すと「この書生さんはどこから来たのか」と聞いてきた。太政官少吏が「奥州の山奥から出てきた朝敵の子ですよ」と言った。これには新平は怒って喰ってかかった「朝敵とは何ですか。今は、そういうことをなくして新しい世の中をみんなでつくって行こうという時ではないですか。あなたのような方が太政官にいるから、お上に楯突く者が出るんです」これにはすっかり座が白けてしまった。それ以降、太政官とは論争ばかりで一ヶ月後には新平は飛び出して郷里に帰ってしまった。


第3話

太政官と喧嘩して飛び出し、東京から郷里に帰った新平は、しばらくふらふらしていたが、「君は血気盛んで上の者の言うことを聞かない。そういう人間ははじめから官吏になったらとんでもないことになる。いったん医者になり、人に膝を屈することを覚え、それから先のことを考えてはどうか」とアドバイスしてくれた人物がおり、この人が学費も出してくれるということで、まずは福島洋学校に入り、医学を勉強するために必要な英語を勉強しその後、県立須賀川医学校に入った。ここで新平は物理学、化学、解剖学、生物学を死に物狂いで勉強する。試験もどんどんマスターし進級していく。19歳の時にはもう立派な医師として通用するようになっていた。そして愛知県の病院に赴任することになり24歳で正式に愛知医学校長兼県立病院長にまで出生していた。そんな頃にまたもや大物政治家に出くわす。

1882年(明治15年)4月、自由民権運動を進める自由党総裁板垣退助(いたがきたいすけ)が岐阜で演説中、暴漢に刃物で襲われた。板垣はもうだめかと思い「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだのは有名な話であるが、実はこの時に板垣の治療をしたのが新平であった。名古屋の新平のところに知人から「直ちに岐阜に来て診察していただきたい」と電報が届く。ところが管轄外の往診は県庁の許可が必要だが許可はおりなかった。板垣の自由党は過激な反政府的な言動で有名であったから県庁は政府の意向を気にしたのだろう。しかし新平は「そもそも命の問題だ。自由党がどうの、許可がどうのという問題ではない」と考え許可を受けないまま人力車で岐阜まで駆け付けた。新平の看護により板垣の傷は快方に向かった。その後、板垣は「あの男を医者にしておくのは勿体ない。大政治家になる面相をもっている」と語ったとされる。後藤新平という人間は所詮、普通の人間の物差しでは測れないが、やはり見る人が見れば分かったのだろう。その後は日本という国が新平の能力を必要としたかのように、行政マン、政治家への道がトントン拍子に開けていく。

この頃、治療技術をマスターした新平の関心は、医療から予防、すなわち衛生行政へと向かっていた。そして愛知県令(知事)となっていた安場保和(やすばやすかず)に対して近代衛生行政の基本を書いた建白書を提出した。するとこの建白書が内務省衛生局長の長与専斎(ながよせんさい)の目にとまる。長与といえば緒方洪庵(おがたこうあん)が開いた適塾の出身で、この適塾は福沢諭吉が塾頭をしていたこともあり、この福沢の後任で塾頭になったのが長与であった。長与は後に近代日本の医学、医療制度を確立していく男であり衛生という言葉を初めて医学に使用した人物としても知られる。建白書を読んだこの長与から新平は内務省に来ないかと誘われる。そして1883年(明治16年)1月名古屋から上京し少壮官僚として新たなスタートをきることになった。

内務省衛生局に勤務し始めて直ぐに3人目の大物政治家に出くわすことになる。長与衛生局長に呼ばれて用件を伝えられる。
「熱海で病気療養中の岩倉具視(いわくらともみ)公が、現地における結核療養所建設計画について相談があるということだが、私は他に公務があっていけないから君に代わりに行ってほしい」という出張命令であった。


でかけると熱海は雪が降っていた。岩倉が宿舎にしている相模屋につくと挨拶した。すると「宿はどこか?」と聞かれた。新平は宿をとらぬまま来ていたがそうともいえず、「鈴木屋です」と適当に答えた。岩倉は側近の者に「後藤は長与の名代で参ったのだ。鈴木屋では気毒だ。宿はこの相模屋で私の名で手配して上げなさい」と命じた。朝廷の人とは思えない気遣いである。それから本題に入る「熱海には多くの結核患者が療養している。それぞれが分散しているのは衛生上問題があるので一ヶ所に集めた療養所をつくりたい」すると新平は「療養所をつくるのであれば熱海における結核患者の衛生状態をきちんと調べて科学的に必要性を説く必要があります」と即座に返答した。「それは、もうベルツ博士がやった。立派な分析だ」「ベルツがどのような分析をしたか知りませんが、彼は日本人を手習草紙の如く心得ている不届きな人物です。彼の分析ではだめです」ベルツは天皇の指示で岩倉の主治医となっていたのだが、新平は知らなかった。しかし、岩倉は新平を咎めない「手習草紙か、ハハハ面白いことを言うな。分かった。再調査を許す。すぐにとりかかってくれ」

話しが終わり新平は席に出されたカステラをむしゃむしゃと食べた。紙に包んで頂いて帰るという習わしをあとで知るが、これも岩倉は咎めない。それどころかカステラの折が新平の部屋に届いた。「後藤はカステラが好物のようだから届けてやってくれ」と岩倉が届けさせたのだ。岩倉も大した人物である。維新の元勲であり事実上政府を支配している人間である、息子ほどの年下の人間になかなか出来る対応ではない。またこの時、新平は25歳。最高権力者にも物怖じしない気質はすでにこの頃に顕れていたといえる。岩倉はこのとき既に食道癌にかかっており半年後にベルツに見守られながら亡くなった。

岩倉との面会が終わり東京に帰った新平の初仕事は、日本の各地方における衛生状況の把握であった。後に新平は台湾総督府民政長官、南満州鉄道初代総裁、東京市長と歴任し大胆な都市計画を構想していくが全て入念な調査に基づいたものである。新平ほど調査に力を入れた政治家はいないであろう。徳富蘇峰(とくとみそほう)が後藤を「まるでカバンのように、調査を身にまとって歩く」と評した程である。この岩倉からの指示が行政マンとしての初めての調査となった。


第4話

熱海での岩倉具視との面会を終えて東京に帰った新平の初仕事は、日本の各地方における衛生行政の把握であった。新平はこれを、事前に綿密な調査項目を用意して行うがそのやり方は徹底していた。

その地方に住む人の飲食物、嗜好、衣服、夜具、家屋、清潔、運動、身体の大小、気力、体力の強弱、長寿家の増減、老後の強弱、結婚の遅早、子供の生育の良否、伝染病の増減、緒病の増減、草木菌類の有毒状況、売薬需要など必要と思われる項目はすべてあげて入念に調べた。

しかし役所内で異を唱えるものもいた「多大の経費と時間をかけてそのような詳細な調査項目を行わないとわが国の衛生制度は確立できないのか。海外諸国にはすでに各種の優れた衛生制度があるのだから、これらを応用してわが国に導入するほうが効率的ではないか」というのだ。それに対して新平は「各地方では、衛生という形できちんと制度化されていなくとも、人々の本能として必ず衛生の慣習が存在している。その現実を無視して画一的に欧米の制度を各地方に押し付けても失敗する。まず地方ごとの事情と事実を調査し、これを理想に照らして分析し、それから現実に合った衛生制度を全国に普及することが成功の道だ」と主張した。

欧米列強に伍して近代国家としての体裁を実際に備えようと躍起になっていた政府はこの調査を高く評価し、その報告書を官報に記載したほどであった。

その後も新平は調査を武器に衛生試験所の創設と拡張、医師開業試験における西洋医と漢方医の調整、全国の上下水道の改修など、次々に面倒な仕事を処理していく。次第に長与衛生局長の懐刀(ふところがたな)となっていった

1890年(明治32年)、新平が満32歳の時にドイツに留学するが、新平の調査の精度がいかに高いかを示す話がある。ドイツで国勢調査が行われた時、新平はその調査、集計、作業などの実態について詳細に研究し様式なども日本に持ち帰るが、その後ドイツ統計局長を訪問した日本人に対して「わが局を訪問した日本人は多数いるが、真の統計の理解者は後藤新平一人だ」と語ったとされる。

また、当時すでに政権から追われていたビスマルク(統一ドイツの初代帝国宰相兼プロイセン首相)と面会することも出来た。日本語版ではあるが自分の著者「衛生制度論」を贈呈ししばらく観談した。するとビスマルクは「お見受けしたところ、あなたは医者というより、政治に携わるべき人物だ。日本に帰ったら医学上はもちろん、政治上でも十分活躍してください」といわれた。欧米列強の狭間で国家を統一したビスマルクの強力なリーダーシップに以前から感銘を受け尊敬していた新平は、この言葉に大いに励まされたようだ。留学期間は2年2ヶ月であった。帰国すると新平は長与の後任として衛生局長に就任する。満36歳の時であった。それから数年後、今度は台湾に行くことになる。

児玉源太郎(こだまげんたろう)が第4代台湾総督に就任が決まった。すると児玉は新平を台湾へ真っ先に連れていくことを決める。新平の行政手腕を買ってのことである。台湾総督は初代、樺山資紀(かばやまのりすけ)、二代、桂太郎、三代、乃木希典(のぎまれすけ)と代わったが原住民の反発があり統治はうまくいっていなかった。

児玉が台湾統治について新平に意見をもとめると「生物学の原理を無視してはいけません。ヒラメの目が頭の一方に付いているのには理由があります。鯛のように両側に付け変えるわけにはいきません。現地の慣習を重んじることです」と進言する。新平は前総督の乃木希典らが原住民に反発され、阿片とゲリラに手を焼いていたのは、一方的に禁止と征伐で押したからだということを見抜いていた。

現地の慣習を重んじることは新平が岩倉具視にもとめられ日本各地の衛生状況を調べて以来、日本で政策を推し進めるうえでずっと行ってきた手法であるが、この方法が台湾統治を成功させる。

児玉は新平を民政局長から民政長官にし、台湾の経営を全面的に任せ後ろ盾となった。新平は実態調査を徹底的に行い、現地の慣習を重んじる。綿密な調査に基づき大胆な計画を立てて実行していったが新平が残したものは大きい。今に残る台北市内の広い道路や上下水道は、当時の東京よりも進んでいたといわれる。縦貫鉄道の敷設、製糖産業の振興、港湾、病院の建設などまさに国造りそのものであった。日露戦争のころには台湾は財政的に独立できるまでになっていた。今でも台湾人は「後藤がインフラを残し、台湾の発展の礎をつくった」と感謝している人が少なくない。

そして新平の比類ないものが調査能力ともう一つあった。それはリクルーターの名人であったことである。藩閥、学閥、門閥にかかわらず能力のある人、優秀な人材をどんどんスカウトしていった。結局のところどんなに立派な計画があっても実行できる人材がいなければ絵に描いた餅である。台湾統治の成功も優秀な人材を結集できたことにあった。また新平は人材育成の名人でもあった。実はこのことで専門家がまだ誰もふれていないことがあるが次回に書いてみたい。このこと抜きにして後藤新平を語るのは片手落ちであるからだ。


第5話

台湾統治の成功も官界、学界、医学界から優秀な人材を結集できたことにあった。

土木では長尾半平(ながおはんぺい)、鉄道では長谷川謹介(はせがわきんすけ)、医学では高木友枝(たかぎともえ)、調査では京都帝国大学教授で民法学者の草分けであった岡松参太郎(おかまつさんたろう)を口説き招き入れた。そして農業と経済の両方が分かる逸材ということで新渡戸稲造(にとべいなぞう)を口説き落としたのも新平であった。

何故、新平は天下有為の人材を口説き落とし台湾に結集できたのか、理由は色々あるであろうが新平のこのプロジェクトにかける情熱と今まで入念な調査に基づき計画を進めてきたことに対する信頼ではないかと思う。

私は政治家の資質の第一条件は歴史家であることだと思う。ドイツ帝国初代帝国宰相のビスマルクは「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言ったが、政治家が国の方向性を決める事案を決断するのに、自分の体験からだけで判断されたのではたまらない。

政治家は日本や世界の歴史をよく学び、深い歴史観や哲学に裏打ちされた洞察力を持ち、大局的観点から判断すべきである。そうでなければ国民に対する説得力がない。いくら思いつきでないと声高く叫んだところで軽く見られるのが落ちである。昨今は、いわば目先の、臨床的な措置しか語らない政治家が多いように思える。

その点、新平は歴史や哲学ではないかもしれないが、米国の都市学の権威、ビーアド博士が「後藤は世界に例なき科学的政治家である」と言い切ったほど、入念な科学的な調査に基づいた計画を持っていた。このことが迫力、真実味があり優秀な人材に台湾のプロジェクトに参加してみようと思わせたのではないかと思う。

後藤新平というと官僚、学者、医者などの有為な人材を登用し育てたことが強調されるが、専門家は誰も指摘しないが新平の偉かったことがもう一つある。それは起業家を育てたことである。今も昔も大企業を優遇して見返りに政治資金を貰う政治家はいくらでもいるが、新平ほどベンチャー企業を育てた政治家はいないであろう。

新平が支援した起業家をあげればきりがない。軽井沢の沓掛(くつかけ)地区の開発を「今は経営者にしても気宇広大な奴がおらん。この軽井沢あたりも君のような若い者が50年ぐらいの計画で開発したらいい」と、30歳に満たない若者に勧めた。この若者が西武グループの創業者、堤康次郎(つつみやすじろう)である。西武王国を築くルーツとなる軽井沢地区の開発を入知恵したのは新平であった。

読売新聞の再建を頼まれた正力松太郎(しょうりきまつたろう)を支援したのも新平であった。正力に「10万円(今なら数億円)貸してほしい」とお願いされた新平は「新聞経営は難しいと聞いている。失敗しても未練を残すなよ。金は返す必要はない」と言い10万円をポンと貸したという。当時、正力は政治家のことだから、どこかから都合したのだろうと思った。しかし、新平の死後、実は新平が自宅を抵当に入れ、無理して借金をした金であることを遺族から聞かされて知ることになり、正力は号泣したという。後藤新平とはこういう政治家である。私腹を肥やそうと思えばいくらでも出来たであろうが亡くなった後、私有財産は一切残っていなかったという。

そして新平は医師でもあることから医薬産業に携わる起業家も育てた。星一(はじめ)が星製薬株式会社を設立するのを支援し、漢方薬の津村順天堂(現ツムラ)の創業者、津村重舎(つむらじゅうしゃ)を可愛がった。

また神戸のベンチャー企業、鈴木商店の番頭、金子直吉(かねこなおきち)の支援もした。新平が台湾総督府民政長官の時、台湾の樟脳油65%の販売権を与え、鈴木商店大飛躍のきっかけをつくった。鈴木商店は三井、三菱と肩を並べるほどの大商社に発展する。 

しかし鈴木商店は昭和2年の金融恐慌の煽りを受けて倒産してしまう。だが鈴木商店が関係した会社は今も健在しているものが多く、神戸製鋼所、帝人、日商岩井(現双日)、豊年製油(現J-オイルミルズ)、石川島播磨(現IHI)、クロード式窒素工業(現三井化学)、帝国麦酒(現サッポロビール)等、全て金子が種を蒔いた事業である。

新平が直接、間接に支援して今も残っている企業をあげると、西武グループ、読売グループ、ツムラ、神戸製鋼所、帝人、双日、J-オイルミルズ、IHI、三井化学、サッポロビール等だが、今もって日本の経済、雇用に貢献している大企業がこれだけあるのは驚きである。

新平は台湾の民政長官を務めた後、児玉の要請で南満州鉄道株式会社の総裁に就任し、ここでは調査部を創設する。そして逓信大臣、内務大臣、外務大臣を歴任し、汚職事件で疲弊しきった東京市に大物市長として乗り込むのだが、市長に就任する経緯が興味深い。

かつて日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)の名頭取で財界鞍馬天狗(くらまてんぐ)と異名をとった中山素平(なかやまそへい)は「トップとして望ましいのは、なりたい人よりも逃げまわる人」と言ったが、中山は後任の頭取に副頭取の正宗猪早夫(まさむねいさお)に譲ろうとするが「私は頭取の器ではないので嫌です」と頑なに断られる。結局、逃げ回る正宗を数年がかりで口説き頭取になってもらったのだが、中山も中山で頭取を辞めようとしても「貴方にはまだやってもらわなければ困る」と周りがなかなか辞めさせてくれない。会長職にとどまるという約束でようやく頭取を辞めることができ、後任の正宗に引き継ぐことができた。こういう人達がトップにいる時は会社もうまくいく。政治のトップも同じことがいえるのではなかろうか。

新平が東京市長になる時がまさに逃げ回るのを周囲から説得されてなるのだが、この説得のされ方が凄かった。


第6話

東京市政は、相次いで汚職などが発覚し、行き詰まっていた。市会議員20数人が検事局に拘引され、すでに市長の田尻稲治郎と3人の助役、そして市会議長も辞職をした。こんな状態の東京市政を刷新できるのは腕力のある後藤新平しかいないと東京市会では一致していた。

しかし新平は、これからは本格的に国際的な経済戦争が始まる。日本がこれに打ち勝つためには欧米に対抗できるだけの近代的国家にしなければならない。そのためには国内、海外の調査を徹底的に行い科学的に政治、経済、技術、産業を調査研究して長期的な戦略を立て、そのうえで確固とした国策を樹立しなければならない。そのためには大調査機関を創設することが必要と考え、これを一生の事業にしようと思っていたので東京市長の就任を固辞していた。

3人の市議会議員がなんとか新平に市長就任を承諾してもらおうと説得に行き「東京都民と帝都の自治のため、ぜひ市長になってほしい」お願いする。「われわれは辞表を懐にしている。あなたが市長就任を承諾しないなら、議員を辞職する覚悟です」と迫るが、新平は大調査機関の創設の仕事は自分にしかできないという理由で就任を断る。

しかたがないので3人の市議は財界の大御所、渋沢栄一に新平の説得をお願いする。渋沢も東京市の窮状を打開するには新平に市長に就任してもらうほかないと思い説得にあたるが新平は頑なに固辞する。逃げ回る新平であったが、最後は原敬(はらたかし)首相に説得される。夜の10時頃から会談がはじまり明け方4時半頃になってようやく、大調査機関創設に協力することを条件に東京市長就任を承諾した。

1920年(大正9年)12月19日午前11時、新平は東京市役所に初登庁した。満63歳の時である。

新平の初仕事は人事であった。助役はすべて市役所の外からつれて来た。永田秀治郎(ながたひでじろう)、池田宏、前田多門(まえだたもん)の3人である。永田は内務省警保局を経て貴族院議員、池田は内務省社会局長、前田は内務省都市計画局長であった。前田は戦後の初代文部大臣も務めるが、この前田の娘の結婚相手がソニーの創業者、井深大(いぶかまさる)である。

新平は、市政の実務はすべてこの3人に任せたといわれる。汚職紛れであった市政を刷新し直ぐに打ち出したのが東京改造の8億円計画であった。当時の東京はぬかるみ、土ぼこり、断水、下水の悪臭、学校不足と惨憺たる状態であった。新平はそれを欧米に負けない首都に改造しようと意見書をまとめた。当時の市予算が1億3千万円であったが、計画期間が10年~15年であるから無理難題な計画ではなかった。しかし帝国議会や大蔵省(現財務省)が8億円は過大だと強く反対し結局、新平が東京市長の時に実現しなかったが、この8億円計画は関東大震災の帝都復興事業で生きることになった。このことは最後に述べることにする。

市長就任前から構想していた大調査機関の創設の方は安田善治郎(安田財閥創業者、現みずほ銀行の創業者)の寄付により「東京市政調査会」として発足することが出来た。この時の経緯をみるといかに新平が財界人から信頼された政治家であったかが分かる。新平は東京市長就任直前に工業倶楽部で講演をした。「首府たる東京は帝国の縮図なり。したがって東京市の行き詰まりは、すなわち帝国の行き詰まりである。東京を救済することは帝国を救済することになる」この講演を聞いていた安田は趣旨に賛同し「私で協力できることがあれば協力する」と申し出てきた。そこで新平は大調査機関創設の必要性を安田に話すと「資金は私が提供しましょう」と約束してくれた。

まもなく8億円計画を打ち出すと安田は「8億円は金額が小さくないか」と新平に申し出る。さすがの新平も計画が大きすぎるから削れと言われることはあっても小さいと言われたのは初めてであったので度肝を抜かれた。「協力してくださるのですか」安田は「私は意義のある仕事なら家産を傾けることはいとわない」と言い協力を約束した。しかし間もなく安田は大磯の別邸で寄付を強要した暴漢の凶刀に倒れ亡くなる。8億円計画は実現しなかったが、大調査機関創設は安田が凶刀に倒れた後、遺族が安田の約束を引き継いで寄付を行い、大調査機関は東京市政調査会と形を変えて説立され、調査会の入る市政会館と合築して日比谷公会堂も建設された。これらは全額安田の寄付によるものである。

安田は一代で安田財閥(現みずほ銀行の創業者)を築きあげ金融王と言われたが、事業の成否を聞かれると「一にも人物、二にも人物、その首脳となる人物如何によって決まる。経営にあたる人物が満腔(マンコウ)の熱心さと誠実さとを捧げて、その事業と共に倒れる覚悟でかかれる人か、否かだ」と語ったとされるが、後藤新平という政治家を支援することにしたのもしっかりした計画とそれと共に倒れるだけの気概を感じたからであろう。

今も数十億円、100億円を寄付する太っ腹な経営者はいる。しかし貴方にお金を渡すからその政策を実現してくれといえるような政治家はなかなかいないのではなかろうか。

次回はいよいよ新平が関東大震災から帝都をいかに迅速に復興させたか書いてみたい。



第7話

新平が東京市長を辞任して5ヶ月後に関東大震災が起こるが、その直前、山本権兵衛首相は組閣に難航していた。新平を内務大臣として入閣させたいが、新平は入閣の意義は、日露の国交回復実現にあるので外務大臣でなければ入閣を拒否する構えだった。そんな時に関東大震災が起きた。

1923年(大正12年)9月1日午前11時58分のことである。新平は麻布の自宅にいて大勢の関係者や新聞記者に囲まれていた。「これは大きいぞ」皆の足が浮足立った。時間が経つにつれ「大きいぞ」どころの話ではないことが徐々に分かってきた。東京や横浜に火の手が上がり夜を徹して燃え上がった。この惨状を目の当たりにし「外務大臣だろうが内務大臣であろうが入閣するほかない」と新平の考えは変わり「無条件で入閣する」と山本首相に告げ、内務大臣で入閣した。

内務大臣として入閣した新平は直ぐに帝都復興の指揮をとることになった。関東大震災による東京の焼失は当時、世界最大であった。有名なロンドン大火、サンフランシスコと比較しても最大の都市大火である。その復興を僅か6年半でやり遂げたのだが、阪神・淡路大震災の復興事業はこれより小さい面積であったのに10年かかかったことを考えると6年半がいかに早いかがお分かりいただけるだろう。これだけ早い復興は後藤新平がいなければ出来なかったといわれる。

新平は9月6日の閣議で早くも「帝都復興の議」を提出。帝都復興院総裁も兼務し、東京を、これを機会に欧米に負けない都市に復興させようと走り出す。
しかし新平は当初の復興予算を30億円と考えていたが、帝国議会でそんな予算はないと賛意が得られず、4億円代まで削減されてしまった。復興計画はかなり骨抜きにされたが、それでもかなりの成果があった。では東京は復興計画でどう変わったのか、具体的に大きく4つのことが変わったといえる。

1、 交通網が発達 2、防災面が強化 3、環境衛生が向上 4、美観都市になった

まず復興事業の大きな成果は、道幅は狭められたが、幹線道路や補線道路を徹底的につくったことである。焼失地の人達に区画整理の必要性を説明、説得し理解を得られたことで、次々と道路がつくられた。昭和通り、日比谷通り、晴海通り、三ツ目通り、蔵前通り、浅草通り、国際通り、永代通りなどが復興事業で出来たものであるが、道路幅は予算をカットされたため大幅に縮小させられた。例えば昭和通りは当初の計画は72 mであったが実際は44mにつくられた。他の道路も道幅を縮小することを余議なくされた。これは今考えると、都心の幹線道路を用地買収して拡げるのは不可能なことであるので計画通りいかなかったことは残念である。

また表通りだけ整備しても意味はなく、幹線道路の裏の道路もつくり直した。当時の東京は水道も排水溝も満足にない劣悪な貸家や長屋が多かった。徹底的に裏道路と同時に上水道、下水道も整備したので環境衛生が悪い長屋は一つもなくなり、東京の衛生状態は飛躍的に改善された。これだけでも大きな成果である。

そして墨田公園、錦糸公園、浜松公園はじめ全部で52もの大公園、小公園をつくった。これらの公園もやはり予算カットにより縮小させられた。今の墨田公園も当初の計画の3分の1の大きさである。

道路や公園をつくったのは防災の役割も考えてのことであった。焼けたところと焼けなかったところの境をみると道路や公園が延焼を防いでいることがみてとれたからだ。公園は「平時においては行楽の地となり、非常の時には避難所とする」ことを目的とした。今もって東京に緑の公園が多いのはこのためである。

また、関東大震災当時は耐震橋梁が一つもなかった。木造の橋は全て焼け落ちて川べりで多くの人が亡くなった。その教訓から徹底的に耐震構造の橋を架けた。墨田川の相生、永代、清州、蔵前をはじめ全部で400以上の橋が架けられた。道路をつくり、橋を架けることで東京の交通網と防災機能は飛躍的に発達した。

復興事業が完成した時、東京は緑豊かな美しい都市に生まれ変わっていた。しかし戦後はこの道路や公園の緑地を潰し運河を埋めて高速道路を建設し景観を損ねてしまったのは残念なことである。今の昭和通りは都市の道路としてはとても醜い姿になっているが、完成当時は緑豊かな、きれいな並木道があった。

新平の帝都復興計画は縮小されたもののかなりの成果があったといえようが、そのまま計画が実効されていたらと嘆く人は少なくない。そのうちのお一人が昭和天皇である。昭和58年の記者会見で陛下は「後藤新平の計画通りなら戦災(東京大空襲)の被害も非常に軽かったと思うと残念でなりません」という趣旨のことを述べられた。

新平が帝都復興計画を迅速に立て進められたのは東京市長時代には実現出来なかった「8億円計画」という下地があったからに他ならない。

また、関東大震災時の東京市長が、新平が市長の時に腹心の助役であった永田秀治郎(ながたひでじろう)であったことも大きい。国と東京市がスムーズに連携がとれたのもこのためであった。内務省と東京市の復興事業の事務所も一緒にし、所長も同じ人にしている。各部署には新平の信頼のおける人物を置き復興事業を進めることができたが、これも新平が今まで優秀な部下との信頼関係を築いていたからである。

3月11日の東日本大震災で最も不幸であったのは天災と人災の両方が重なったことだと思う。原発以外にも人災がある。関東大震災の時のような斬新な復興計画が国からも地方からも出てこないことである。またそれを実行できるリーダーがいない。これは人災である。

二度とこのような人災を招かないために政府や政治家は未来に起こる天災に今から備えなければならない。また国民一人一人も備える必要があると思う。後藤新平が残した最大の遺産は東京の道路や公園よりもこの教訓ではないかと思う。

最後に、前半にあげた古今東西の世界の偉人の名言をもう一度紹介して終わりたい。

「わが人生の成功のことごとくは、いかなる場合にもかならず15分前に到着したおかげである」ネルソン(英国海軍の英雄)

「私は機会の到来に備えて学び、いつでも仕事にかかれる態勢を整えている」
エイブラハム・リンカーン(アメリカ合衆国第16代大統領)

「魚は招いて来るものではなく、来るときに向こうから勝手にやって来るものである。だから、魚を獲ろうと思えば、常日頃からちゃんと網の用意をしておかねばならない。人生すべての機会を補足するにも同じことがいえる」岩崎弥太郎(三菱財閥創始者)

「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」ビスマルク(ドイツ帝国初代帝国宰相)


全7話(完)

文責 田宮 卓
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  1. 2011/07/01(金) 02:00:57|
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