偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

市村清と館林三喜男

市村清(いちむら・きよし)略歴
1900年~1968年(明治33~昭和43年)リコー創業者。佐賀県生まれ。中央大学法学部卒。銀行員、保険代理店経営を経て、昭和8年理化学興業入社。昭和11年理研光学(現・リコーの前身)社長。戦後、三愛石油、三愛計器、三愛商事等を設立してリコー・三愛グループを形成した。他方、市村学校と称して若手経営者の指導にあたった。68歳で没。著書に「欧米見聞記」他。


関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xLH35E
市村清(リコー創業者)語録 http://bit.ly/n3lEI1
市村清の知られざる逸話他
■従業員は使用人ではない事業の協力者だ http://bit.ly/AklPaG
■諦めない人が道を開く http://bit.ly/wEOebi





市村清の知られざる逸話

平成21年7月3日
題名:「経営者の器量」


会社は経営者の器で決まる。経営者の器以上にはならないとよくいわれるが、では経営者の器、器量とは何であろうか。経営コンサルタントという仕事柄、何千人の経営者と膝を突き合わせて本音で語りあってきた船井総研の創業者、船井幸雄は経営の成果はトップ一人で99%以上が決まるように思えるが、ここでいうトップとはトップの人間性、その人柄がどれだけ世の中に受入れられ、認められ、慕わられるかだといいます。

確かに過去の例を見てみると人間性を第一に社長にすえて成功した例が結構あることが分かる。経営者を目指す、あるいは現に会社の経営をしていてさらに会社を大きくしていこうと思えば自身の人間性を磨いていくことが一番近道かもしれない。

リコーの創業者、市村清は専務であった実弟の市村茂人を後継者にはせず、アカの他人の館林三喜男を選んだ。館林は市村とは佐賀中学の同窓というだけの縁で血縁関係は全くなかった。館林は、東京大学を出て、戦前の内務省に入り、戦後は佐賀県の副知事を得て代議士となった。6回選挙をやり、3回当選し、3回落選している。その時も落選中で、金を出しやすいようにと三愛石油の副社長にしていた。信濃町の慶応病院に入院中でガンで余命いくばくもないことを知っていた市村は、この落第政治家の館林を後継者に指名したのだ。館林は数字の分からない、経営はズブの素人であった。

市村の側近が「あの館林さんで経営が出来るんですか。だって彼は経営には全くの素人ですよ。」と言うとベットから立上がった市村は「心配ない。彼は人間が確かだから」。人間が確かだから館林で十分、経営が出来ると市村は言い放ったという。誰もが後継者と思っていた実弟の茂人は三愛不動産の社長に出した。市村亡き後、リコーの社長に館林がなったが業績をみるみる伸ばしていったのだから、市村の眼に狂いはなかった。

昭和28年、松下幸之助は日本ビクターの経営を引受けることになった。日本ビクターは優れた技術を持ちながらも戦後の再建には遅れをとっていた。松下は再建にはかねてから清廉さと人物のスケールに強く敬意を抱いていた野村吉三郎に社長になることをお願いした。野村は海軍大将を務め、その後外務大臣、そして昭和15年には駐米大使を務めている。松下は野村の徳望の高い人格者に社長として中心に座ってもらい、精神的支柱となってもらえれば、再建は必ず成功すると考えたのだ。

ある重役会の席で、野村は「さっきから君たちはひばり、ひばりと、何の話をしているのだ」と聞いたという。なんと当時既に多くのファンを持っていた美空ひばりを知らなかったのだ。その話が外部に伝わり、批判もされた。しかし実際には、日本ビクターは急速に立直り、立派な業績を上げるようになった。それのみならず、野村の薫陶を受け、優れた人材が多く育っていったのである。

文責 田宮 卓
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  1. 2009/07/03(金) 01:43:36|
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