偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

小平浪平(日立創業者)

小平浪平(おだいら・なみへい)略歴
1874年~1951年(明治7年~昭和26年)日立製作所創業者。栃木県下都賀郡中村生まれ。東京帝大工科大学電気科卒。藤田組小坂鉱山、広島水力電気、東京電燈を経て、明治39年1月、久原鉱業所日立鉱山工作課長。明治43年、国産第一号の電動機試作に成功。大正9年、株式会社日立製作所設立で専務に就任し、昭和4年同社社長。77歳で没。

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xLH35E
小平浪平(日立創業者)語録 http://bit.ly/As5ZOH




小平浪平の知られざる秘話

平成22年11月11日
題名:「国産技術を確立した男」




「日本の工業を発展させるためには、それを用いる機械も外国から輸入するだけでなく、自主技術、国産技術によって製作するようにしなければならない。それこそ日本が発展していく道だ」
 
黒船が江戸湾に出現し、それを沿岸から望見しただけで、その船を3年後に造りあげてしまった日本人。また明治に入り洋傘を輸入するようになった。1876年(明治6年)の輸入統計を見ると、洋傘が輸入のベストテンに入っている。ところが驚くべき事にそれから数年もたたないうちに洋傘は輸入品リストから姿を消し、輸出品となる。日本人は短期間に製品構造を呑み込み、作り方を習得し、西洋諸国より一段と安い価格でアジア諸国向きに輸出を始めたのだ。マッチもそうであったらしい。

日本人ほど物真似が得意な国民もいないといわれる。それも立派な能力であろうが独自性に欠けると揶揄される。しかし明治時代に国産技術に挑戦し続けた偉大な日本人もいた。
 
1908年(明治41年)、日本は重工業が芽生えかけている時代であった。一人の青年技師が当時まったくの寒村だった茨城県の人里離れた鉱山の草深い谷間に粗末な丸太小屋をつくった。久原鉱業の作業所である。小屋は40坪足らずで、杉皮葺(すぎかわぶき)の屋根に壁なし。ガラスのない窓には、カーテン代わりにキャラコ布がつるされたものであった。冬の寒さは身にしみた。しかし、工作課長でありこの小屋の主であるこの青年技師は意気盛んで、5人の職工たちの陣頭指揮に立ち、奮迅の働きを続けた。それもそのはず、発電機を国産技術で製作するという日本初の事業に挑戦し自分の成功を確信していたからだ。

この青年技師は1900年(明治33年)、東京帝国大学電気工学科を卒業し幾つかの水力発
電の会社に勤めた後、東京電灯(現東京電力)に入社。富士山を水源とする駒橋発電所の建設に取り組んだ、東洋一の出力を持つ発電所を建設することで東京に電力を安定供給しようという国の一大計画であった。ところがこの青年技師がそこで見た光景は強い失望感を覚えさせるものであった。発電機はドイツのシーメンス製、変圧器は米国のゼネラル・エレクトロニック(GE)製、水車はスイスのエッシャウイス製・・・現場でも外国人技術者が要所を取り仕切っており日本人はこき使われていた。この衝撃が青年技師に「自主技術、国産技術によって製作するものでなければ日本の発展する道はない」という強い信念を持たせる。

その後、この青年技師は久原鉱業を運営する久原房之助(くはらふさのすけ)から鉱山への誘いを受けた。仕事は新たに鉱山の動力源を確保するため、新たに発電所を建設することであった。外国製の発電機を使わない発電所など、当時荒唐無稽な話であったが青年技師は久原の支援を受けて願ってもないチャンスと思い果敢に挑戦した。電気修理のかたわら、丸太小屋で発電機の製作が始まった。「最初モーターはなかなか回らなかった。何度も失敗し、やっと回るとモーターの周りを皆で手をつないで嬉し泣きした」この苦闘を経て、わずか5馬力ながらも国産初のモーター3台の完成にようやくこぎ着けた。

この青年技師は小平浪平(おだいらなみへい)といい、日立製作所の創業者となる男である。世界の日立製作所は鉱山の作業所であるなんと丸太小屋がスタートであった。

そして、国産技術をさらに実現するため作業所を電気機器の製作工場に転換する計画を練って、久原を口説く。こうして1910年(明治43年)11月、4千坪の土地を入手し、日立製作所として本格的に製造工場を建設することになった。さらに1912年には、久原鉱業からの分離独立を果たす。 

しかし全てが順調ではなく1918年(大正7年)、思わぬ火災で日立工場が全焼したことがあった。この時に東京進出論が浮上した。だが小平は一人猛然と反対する。「この地を離れて会社はない。だいいち営々と培ってきた日立精神はどうなるのだ。行きたい者は東京に行け。私は一人になってもこの地で工場を再建してみせる」気魄に充ちた小平の言葉に東京進出論は泡と消えた。小平は何故田舎に拘ったか後年理由をこう語っている。「田舎におれば、たしかにいろんな面でマイナス要素がある。東京を本拠にすれば経営効率は確かに上がるだろう。が、私はそれよりも肝心要の日立精神(小平精神ともいう)が薄れることが怖かった。財閥系ではなく、これといった資本の背景がない。となれば、そのハンディを補うのは、なんとしても国産技術を確立するのだという初心―これが日立精神であり、これを忘れて日立はありえない」  


文責 田宮 卓

参考文献
司馬遼太郎「この国のかたち」文春文庫 (四)
高坂正堯 「不思議の日米関係史」PHP
青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社
池田政次郎 「経営者の器 あの人あの言葉」東洋経済
日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人」 日経ビジネス文庫
スポンサーサイト
  1. 2010/11/11(木) 01:20:00|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<東郷平八郎 | ホーム | 奥村綱雄(野村證券元社長)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://tamiyataku2.blog.fc2.com/tb.php/19-d4468e8f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)