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市村清(リコー創業者)「諦めない人が道を開く」

市村清(いちむら・きよし)略歴
1900年~1968年(明治33~昭和43年)リコー創業者。佐賀県生まれ。中央大学法学部卒。銀行員、保険代理店経営を経て、昭和8年理化学興業入社。昭和11年理研光学(現・リコーの前身)社長。戦後、三愛石油、三愛計器、三愛商事等を設立してリコー・三愛グループを形成した。他方、市村学校と称して若手経営者の指導にあたった。68歳で没。著書に「欧米見聞記」他。

関連サイト
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市村清(リコー創業者)語録 http://bit.ly/n3lEI1
市村清の知られざる逸話他
■従業員は使用人ではない事業の協力者だ http://bit.ly/AklPaG
■経営者の器量 http://bit.ly/wk97RQ





市村清の知られざる逸話

平成21年7月4日
題名:「諦めない人が道を開く」




「成功の要諦は成功するまで続けることにある」成功したければ成功するまで続けるコッチャ。これはパナソニック(旧松下電器)の創業者、故・松下幸之助が生前成功の秘訣を聞かれた時に良く言っていた言葉であるが、あとちょっと頑張れば成功していたのに、もう少し辛抱していたら道が開けていたかもしれないのに、直前で諦めて努力を辞めてしまうことが多いのではなかろうか。成功するまでの最後の1%を諦めるか諦めずに頑張るかの紙一重で人生大きく変わるようだ。

1970年1月号の「小学1年生」などで連載が開始された。最後の最後まで投げ出さずに、考え続け、辛抱して生まれたアイデアが故・藤子・F・不二雄の代表作、「ドラえもん」である。閃いたのがなんと締切りの朝だったという。ギリギリの時間で無我夢中でペンを走らせたアイデアが後に世界中に広まるとは夢にも思わなかったことだろう。
 
9月半ば、ようやく無罪釈放となって上海を引き上げて来たが無一文からの出発であった。おいそれと職はない。仕方がないから富国生命の外交員をやる肚を固める。「乞食と保険屋は入るべからず」という貼り紙の流行していた熊本で、経験もコネもない男が、保険の外交員が務まるはずがなかった。給料は一銭もなく、出来高払いの具合性であった。市内の学校の先生、医者、弁護士・・・とインテリ層ばかり狙って歩きまくるがみな断られた。12月になり師走も押し迫った23日、家には一銭もなくついに「おい夜逃げをしよう」と妻にうなだれた。すると妻はけなげに「どうせ夜逃げをする気なら、恥も外聞もないでしょう? 大晦日までがんばったらどうかしら」と夫を激励した。

妻の言葉に奮起して逆に度胸が据わり、7度訪ねて断られた高等女学校の校長先生のことが頭に浮かび、「もう一度断られに行くか!」と玄関のベルを押すと「あら、外交員さん、旦那様がお待ちですよ」と愛相よく女中さんが言い直ぐに校長は会ってくれた。「あなたの根気に驚いた」となんと契約をしてくれた。そればかりか知人の五校教授にも紹介状を書いてくれたのだ。これを機に夜逃げどころか大晦日まで面白いように契約が決まっていった。最初のお客さんになってくれたこの校長は「僕は保険は嫌いだけど、でもあなたから頂いた7枚のハガキを見て、この人は何か理由があって外交員となってやっていると思った」と言って契約してくれたのだった。この男は断られても皆にハガキを送り続けていたのである。 

この男が後にリコーの創業者となる市村清である。翌年は全国一の表彰を受け、その後理研感光紙(リコー)を扱い、三愛商事、三愛石油、日本リースを設立して行き道が開けていった。

市村は「わしがもし富国生命の外交員を諦めて夜逃げをしていたら、理研とのコネもつかなかっただろうし、あの理研の大河内正敏所長に目をかけられることもなかった。もちろんあの三愛だって誕生していない。」と述懐する。 

最後の最後で諦めるかやり通すかで大きく運命が開けるかどうかの鍵になるようだ。

文責 田宮 卓
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  1. 2009/07/04(土) 22:04:14|
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