偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

岩波茂雄(岩波書店創業者)

岩波茂雄(いわなみ・しげお)略歴
1881年~1946年(明治14年~昭和21年)岩波書店創業者。長野県(現・諏訪市)で農家の子として生まれた。帝国大学(現・東京大学)哲学科を卒業すると神田高等女学校の教師になる。教師を辞めて古本屋を開業。その後出版事業に乗り出す。処女出版が文豪・夏目漱石の「こころ」であった。関東大震災で商売上の財産を全て失うが、その後、わが国の文庫文化を創り出す先駆となる「岩波文庫」を創刊する。66歳で没。

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xLH35E
岩波茂雄(岩波書店創業者)語録 http://bit.ly/pxRYoh





岩波茂雄の知られざる秘話

平成23年5月23日
題名「意欲が危機を脱する」




「困難が来るたびにぼくは元気になるよ」岩波茂雄(岩波書店創業者)

逆境はその人に与えられた尊い試練であり、この境涯に鍛えられたひとはまことに強靭であると思う。古来、偉大なる人は、逆境にもまれながらも、不屈の精神で生き抜いた経験を持つ人が多いが、その一人が岩波茂雄(いわなみしげお)ではないかと思う。

岩波は1881年(明治14年)に長野県(現・諏訪市)で農家の子として生まれた。岩波は地元の小学校を終えると、旧制の諏訪中学から日本中学を経て第一高等学校さらに帝国大学(現・東京大学)哲学科を卒業する。こう記すと順風満帆であったように見えるが決してそうではなかった。紆余曲折したため大学を卒業したのが27歳であった。岩波は少年時代、吉田松陰や西郷隆盛といった人物、すなわち英雄崇拝に取りつかれていた。

そのため、諏訪中学から国粋主義者の杉浦重剛(すぎうらしげたか)が校長を勤める日本中学に転校。また、高等学校も二度目にしてようやく合格したものの、二年続きの落第の挙句退学処分となった。そんな回り道をしてからの帝国大学哲学科への入学であった。

しかし人間なにが幸いするか分からない。回り道した分、沢山の学友を持つことができ、このなかから後に社会で名を残す秀才が多く出た。岩波文化という言葉は岩波人脈と同義語といわれたが、学生時代の友人、先輩、後輩との人脈が将来大きく役に立った。
 
帝国大学哲学科を卒業すると岩波は、当時日本の女子教育が非常に遅れていたことを痛感していたため、少しでも役に立てればと思い神田高等女学校の教師になった。教育熱心でその授業も献身的であったため教頭にまでなるが、経営方針でぶつかったのか辞めてしまう。

教職を辞めてから岩波は、以前から憧れていた晴耕雨読の生活を富士山の麓で送ろうと一旦は考え場所まで決めていた。しかし田園生活は何時でも出来るのでその前に一度市民の生活をしてみようという気になり、封建時代以来、士農工商といわれ商人は一番下に見られているが、商人も社会的任務を尽くすものであれば必ずしも卑しいものではないはず。人のために必要な品物をなるべく廉価に提供すれば人々は満足しまた自分の生活も成り立つはずだ。そう思えば商売も必ずしも卑賤ではない。官吏や教育と異なって自由独立の境地も得られる。また人の子を賊う恐れもないから安心である。岩波はこういう考えに至り商売をはじめることにした。

そして始めたのが神田神保町での古本屋であった。名前も「岩波書店」とした。岩波書店のスタートは古本屋であった。この時、大正2年岩波33歳のときである

商売の家系でもなく経験もなかった岩波がなぜ商売で成功できたのか、私は大きな要素が2つあると思う。
一つは何処までも誠実であったこと。
一つは困難に立ち向かう精神力があったこと

である。
古本屋を開業する前に岩波は郷里の長野県出身で、これまた商売には全くの素人であったが既に成功しつつあった新宿中村屋を経営している相馬夫妻に相談をしている。商売のことを色々と教えてもらったが、相馬愛蔵自身も誠実の塊のような人であった。

そんな相馬のことを後に岩波がこう語っている「私が畏敬する大先輩であり、敬服する
のは商売気質に堕せず志業を大成したこと。氏の如く独立独歩自由誠実の大道を闊歩して所信を貫くことは至難である」
しかしながら岩波も相馬に負けず、およそ誠実以外に生き方を知らない男であった。

岩波が古本屋を始めたのは自由人でいられて、とりあえず生活が出来ればいいといった
消極的な理由で、後に志す「日本文化への貢献」という大それた気持ちが最初からあった
わけではなかったようだ。

しかし頑固たる道徳信念だけは持っていた。それが古本の正価販売である。当時の古着
屋や古本屋は正礼など明示していない。その場での顧客との交渉で値段が決まり売買をし
ていた。にもかかわらず岩波の店の古本には正礼をつけたのである。

なんだそんなことと思うかもしれないが、これは当時としては東京中の商習慣に全面的
に反逆する行為であって確固たる信念がないとできることではなかった。

正直では商売ができないというのが世の常識であったが、岩波は「書物が文化財であるからには、その取引も公正明大にすべきである」という信念があり何よりも掛け引きや虚偽が嫌いだった。 

最初は客とのトラブルもたえなかったようだ「なぜ古本なのに正礼などがつくんだ」と客は怒る。説明してもなかなか理解されない。一銭二銭を引かせようと10分、20分粘られても絶対に引かない。なかには2日にわたり2銭引かせるために3回も4回も足を運んでくるが結局正礼で買ってもらうこともあったという。それだけ本を盗む人以外は値引きをして買うのがあたりまえだったのである。

また岩波のもう一つの信念は「他より幾分でも高く買い入れ、また幾分でもこれを他より安く売る」であった。晩年も商売の秘訣を聞かれれば、これ以外に答えようがないと言っていたという。これで本当に商売が成り立つのかと思えるが、徐々に岩波の考えは理解され受け入れられていく。

一般に古本屋は信用できないと思われていたのか「あなたの所なら幾らでもよいから買ってくれ」といって全国各地から古本を送りつけてくるようになった。やがて正価販売も定着していく。

そして古本屋を開業した翌年には出版事業に乗り出すが、新本の処女出版となったのが文豪・夏目漱石の「こころ」であった。漱石といえば国民的人気作家である。まだ海のものとも山のものとも分からない、岩波を何処か見所があると思い信用したのか、漱石は快く出版を承諾したという。しかも漱石が店の看板の字まで書いてくれたというから驚きである。

漱石の「こころ」を皮切りに、出版業界へ進出した岩波はまもなく、古本屋から撤退。その後は「哲学叢書」を刊行。続いて漱石の遺作「明暗」を出版。さらに「漱石全集」を刊行し出版界にその地歩を固めていく。

そして読者に対しての忠実な奉仕というは岩波の一貫した精神は変わることはなかった。新本の小売販売が定価の一割または二割引きであった商習慣を廃して、定価販売を断行した。「割引きのできるものなら、初めから引いて定価で売ればいいではないか」という正直主義によるものであるが、これもまた他が岩波を追随するかたちで定着していく。しかし出版事業が軌道に乗り出したやさきに関東大震災に遭遇する。

大正12年9月1日午前11時58分、関東大震災が直撃する。岩波書店の店員たちは重要書類だけ持ち出して避難する。しばらくして店の様子を見にいこうとするが神田は火の海で近づくことができない。神保町も今川小路も焼けてしまった。結局、岩波書店は神田神保町にあった書店2棟、今川小路の持家倉庫3棟、有楽町の印刷工場なども全て焼失した。岩波書店は再起不能と言われ、普通であれば落ち込むところであろうが岩波は違った。

岩波は20数人の店員および家族の何れも命に別条がなく負傷者もいなかったことを知ると、多大なる興奮を持って感謝し、再起の元気に燃え立ったという。
この状況で悲観も落胆もせず感謝とは驚きである。幸い原稿は持ち出していたので著者には感謝されたが、それ以外の店や倉庫や工場など商業用の財産は全て焼けているのだ。それだけ岩波が何よりも人を大事にしてきたことが伺える。
 
後に岩波は「負傷者がいなかったことと、罹災することで試練を与えられたこと、新生活を開拓する勇気と確信と喜悦を与えられたことに感謝した。実際に感謝という気持ちをあれ程味わったことはない」と告白している。

また、こういう危機の時にこそ、その人の本質が出るものである。魚河岸(うおがし)では焼けた倉庫から人々が魚を持ち出していた。それを見た店員が一匹持ってきましょうかというと、岩波は「よせ、焼けたって、人のものをとってはいけない」といった。側近の一人が著者の印税を引き下げて岩波の損失を幾分か救おうと考えるが、これまた岩波は一蹴する。
 
岩波は真っ先に復興の先頭に立ち上がる。地震の災厄で少しもへこたれることはなく、むしろ前より元気になり自転車でしきりに著者のところを訪ねてまわったという。

ほとんどの印刷所が焼け、焼けなかった印刷所に出版社が殺到するが、岩波は他の出版社よりも信頼されていたため、印刷や製本を依頼しても優先的に快く引き受けてもらえた。どんな天災も物質的な財産を奪ってもその人の信用まで奪うことはできない。信用がものをいい復興は順調に進む。とりあえず「哲学辞典」の改訂版、「カント著作集」の刊行をもって危機的状況の脱出に成功する。

関東大震災の危機は脱したが、その後も何度も危機は訪れる。しかし岩波という男は困難であればあるほど逆にファイトが湧き困難を逆に原動力とするようだ。

1926年(大正15年)は一般の景気が悪く、不況にあえいでいた改造社が「現代日本文学全集」の出版をはじめたので業界に激震が走った。いわゆる円本の出版で、毎月一円で明治以来の名作を全部揃えると新聞に大々的に広告をうった。日本ではじめて大量生産による出版が行われた。岩波はこれを最初、冷ややかな目でみていた。全集という名前がおかしい。まだ優れた作品が残っている。誰が責任をもって編集したのかも分からない。印刷も製本も粗雑である等、ケチをつける材料はいくらでもあった。

しかし岩波の思いとは裏腹に改造社の円本は世に受け入れられ成功していく。そしてこの成功に便乗する形で、新潮社は「世界文学全集」を計画する。第一書房は「近代劇全集」、講談社は「講談全集」を、平凡社は「大衆文学全集」、春陽堂は明治時代のすぐれた文学作品の版権を沢山持っていたので「明治大正文学全集」を計画した。各社広告を出し円本の嵐が激化していく。なかでも新潮社の「世界文学全集」は大成功する。

岩波書店にしてもこの年は経営が苦しく他社が円本で巻き返しているなか、完全に出遅れてしまった。しかし岩波はピンチになればなるほどファイトが湧いてくる男である。

円本に対抗する形で考えたのが「日本版レクラム」であった。レクラムはドイツの出版社で、文芸、哲学、自然科学、社会科学などの広範なジャンルを文庫で廉価で人々に提供していた。このレクラム文庫をモデルにした文庫本をつくろうと岩波は計画した。これがわが国の文庫文化を創り出す先駆となる「岩波文庫」である。

しかし社内では反対するものも多かった。文庫は薄利多売で採算が合わない。文庫本はまともな本ではないという意見があったが、岩波は自身の信念にもとづき強硬に推し進め創刊した。

第一回の発売は次のものであった。
○新訓万葉集上下巻 ○こころ ○プラトンソクラテスの弁明・クリトン ○カント実践理性批判 ○古事記 ○藤村詩抄 ○スミス国富論上巻 ○にごりえ・たけくらべ ○国性爺合戦・鑓の権三重帷子 ○戦争と平和第一巻 ○芭蕉七部集 ○五重塔 ○病牀六尺 ○父 ○出家とその弟子 ○桜の園 ○幸福者 ○号外(他六篇) ○科学の価値 ○認識の対象 ○おらが春・我春集 ○北村透谷集 ○賢者ナータン ○春の目ざめ ○令嬢ユリエ ○曽我会稽山・心中天の網島 ○闇の力 ○仰臥漫録 ○科学と方法 ○伯父ワーニヤ ○生ける屍 

古今の名著から、哲学、社会科学、自然科学、文芸、芸術まで網羅する岩波文庫の登場は人々を驚かせた。貧乏学生でも買える値段設定とポケットに入る手軽さから読者層を一気に増やした。

賛美、激励、希望等の書信が数千通に達した。「私の教養の一切を岩波文庫に托する」などという感激の文字もあったという。

岩波は一部のインテリ層だけに読まれていた書物を一般市民に普及させることに成功させたのだ。

そして岩波文庫発刊に際しての書き出しの言葉が名文である。全文はどの岩波文庫にも最後に掲載されている。 

「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめた学芸が最も狭き堂宇(どうう)に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭に隅なく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこす誇称する全集がその編集に万全な用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか・・・」

岩波は関東大震災で商売上の財産を全て失ったが、負傷者がいなかったことと、試練を与えられたことに感謝し、これが原動力となり岩波文化をつくりあげていった。

岩波は昭和20年多額納税議員として貴族院に列せられるまでになり、昭和21年には第5回文化勲章を受章する。文化勲章受章から2ヶ月後、熱海の別荘で没した。享年66歳であった。

文責 田宮 卓

参考文献
加来耕三 「成せば、成る」 一二三書房
小林 勇 「櫟荘主人」 岩波書店
安部能成 「岩波茂雄傳」岩波書店
岩波茂雄 「岩波遺文抄」株式会社日本図書センター
スポンサーサイト
  1. 2011/11/11(金) 23:42:43|
  2. トップページ(目次)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
<<井川意高前会長(大王製紙から学ぶ教訓) | ホーム | 野田佳彦首相の人柄>>

コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  1. 2013/08/06(火) 08:30:53 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集 ]

Re: 関東大震災に焼け残った岩波の編集資料は現存するか

山下様

小生のブログ記事を読んでいただきまして有難うございます。
お尋ねの件ですが、この記事は主に「岩波茂雄傳」岩波書店(著者:安部能成)、「岩波遺文抄」株式会社日本図書センター(著者:岩波茂雄)の2冊を参考に書きましたが、この本に書かれている以上の情報は残念ながら持ち合わせておりません。お役に立てず申し訳ありません。

田宮 卓

> 田宮 卓様
> 突然で失礼致します。私のとりあえずのブログ記事は、匿名で発表しておりますが、筆名は、sousekitokomiya。
> 関東大震災以降、大正13年から昭和10年までの現存する漱石全集の主要内部編集資料は、ほぼすべて私の手元にありまして、それを元に、現在、初期漱石全集の詳細な裏面史を執筆しはじめております。
> これまで、大震災以前に書店内にあったものは、すべて残念ならが灰燼に帰したと考えておりましたが、貴記事を拝読して、もしやそれ以前のものについて、何かの情報をお持ちではないかと思ひ、お伺いする次第です。岩波書店内にも、最近までご健在であった当時の店員の方々、いずれにも、そのような情報や資料をお持ちの方はいないようです。山下浩
  1. 2013/08/08(木) 22:36:23 |
  2. URL |
  3. 偉人エピソード逸話集 #-
  4. [ 編集 ]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://tamiyataku2.blog.fc2.com/tb.php/11-d812ae7a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)