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日本人が失いかけている大切な

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平成24年2月26日
題名「日本人が失いかけている大切な心」



ここ最近、昔の日本の政治家や実業家が遺した語録を調べているが、調べていて一つ気付いたことがある。現代の人達の語録にはあまりないが、昔の人達の語録にやたらに多い言葉が一つある。それは「誠」という言葉である。

誠実さ誠意、正直、嘘をつかないということを総称して「誠」という言葉に集約したが、こういった心掛けは、本来、日本人がもっていた良き精神であったのに、現代の人達が失いかけている心ではなかろうか。

江戸から明治になる時に、日本は同じ国でありながら全く別の国家が出来たのかと思えるほど国のシステムが変わっている。この時の為政者はドサクサに紛れて何でも遣りたい放題出来たのではないかと思う。ましてや、今のように新聞やTVやインターネットといったメディア媒体は存在しない。都合の悪い事があれば幾らでも隠すことができたはずである。実際に国民に知らせない方が良いと政治判断したものにはフタをしてしまったことはあるのではないかと思う。

しかし、基本精神にはどこまでも「誠」という心が根底にあったのではないかと思う。そのことを昔の人達が遺した語録から推察することが出来ると思う。

まず明治維新の立役者の一人、勝海舟(かつかいしゅう)に「誠」を政治信条にしていたことが分かる語録がある。「政治家の秘訣は、何もない。ただただ正心誠意(せいしんせいい)の4文字ばかりだ。この4文字によりてやりさえすれば、たとえいかなる人民もこれに心服しないものはないはずだ」

そして明治時代を切り開く人材を育てた吉田松陰(よしだしょういん)も勝海舟と似たような言葉を遺している。「至誠(しせい)にして動かざる者は未だこれあらざるなり」

明治20年、西南戦争をきっかけとするインフレーションの進行を食い止めるために、大蔵卿に任ぜられた松方正義(後の総理大臣)は紙幣整理、増税、日本銀行の設立など様々な諸策を強行したが、後にこのインフレを鎮静化した当時を振り返ってこのように述べている。
「我に奇策あるに非ず、我は 寧ろ奇策を忌む。唯正直あるのみ、正直に之を行へは人民必ず之を信せん」、松方といえば明治天皇に「子供は何人いるのか」と聞かれて、「その件につきましては、きちっと調べて後日ご報告します」と答えたほど、沢山の愛人やその子供がいた。私生活は賑やかであったが、政治となると誠意を持って事にあたっていたことが伺える。

実業家にしても同じである。私はもし「日本の商人道」というものを確立するとするならば「嘘をつかない」ということが土台になるのではないかと思う。それだけこのことを商売道徳の柱としていた実業家は多い。

「商売は正直でなければ栄えません」森永太一郎(森永製菓創業者)

「正直は最善の商道である」服部金太郎(セイコー創業者)

「長い間に自分が得た商売人としての小さな哲学は、商人はいかなるときでも嘘をいわぬこと、というものである。数字なるものは非常に正直な生きものであるから、一度、嘘をつくと何倍かになって暴れ出す」伊藤忠兵衛(伊藤忠商事、丸紅の創業者)

「商売人は、ときとすると、駆け引きをし、嘘をつくことを商売の常道と考えがちであるがこれはとんでもないあやまちだ。世の中に立っていく以上は、士魂商才の精神を持って進まなくてはならない。」杉山金太郎(旧豊年製油・現J-オイルミルズ創業者)

昨年、発覚したオリンパスの損失隠し事件、また今年に入ってAIJ投資顧問の企業年金2千億円が消失していたことが明るみになった。経営者が「誠」という心を失うとこのような行為に走ってしまうのであろう。

そしてどうにも誠意を感じられない企業がもう一社ある。昨年、原発事故を起こした東電である。社長が「電気料金の値上げは事業者の権利」と発言し、取引先や世間を怒らせたが、この言葉からは誠意や謙虚さというものがまるで感じられない。事故から一年たってもその姿勢が何ら変わらないことに落胆させられる。

東電といえば、元々は木川田一隆(きかわだかずたか)、平岩外四(ひらいわがいし)といった経営者としても人間としても立派な人物が社長をしていた企業である。平岩は常に公明正大、どんな人にも誠心誠意接する人柄。平岩が目の前に現れると思わず袖を正さずにはおれなかったと幾人もの人が証言している。同じ企業の社長なのに何故こうも違うのかと思うが、東電に限らず「都合の悪いことは隠す」、「腐い物には蓋」、会社を守るためには当然の行為と、およそ誠意に欠ける企業風土というのが現代に蔓延しているのではなかろうか。

「誠」という心を何も経営者や政治家にだけ求めるのではなく、今一度、日本人皆が取り戻すことを考えていかなければいけないのではなかろうか。

文責 田宮 卓


参照

勝海舟(かつかいしゅう)経歴
1823年~1899年(文政6年~明治32年)幕人、明治初期の政治家。位階勲等は正二位勲一等伯爵。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。幼名は麒太郎(りんたろう)。海軍塾や神戸海軍繰練所の設立。第2次長州征伐の停戦交渉。駿府城会談と江戸城無血開城など、溢れる戦略と戦術の両面を活かして活躍した幕人の最重要人物。舌鋒も鋭く坂本竜馬や西郷隆盛などからも高評価を受ける一方、同僚である幕人からはひどく嫌われてもいた。名言多数。76歳没。

吉田 松陰(よしだしょういん)経歴(プロフィール)
1830年~1859年(文政13年~安政6年)長州藩士、思想家、教育者、兵学者。萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。1854年、ペリー2度目の来航の際、長州藩足軽・金子重之助とともに密航計画を企てるも失敗、萩の野山獄に幽囚される。1855年、生家で預かりの身となるが、1857年、叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作をはじめ久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる人材を教え育てる。1858年、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中・間部詮勝の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄。1859年、幕府の安政の大獄により長州藩に松陰の江戸送致を命令。松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される。29歳で没。
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  1. 2012/02/26(日) 14:15:03|
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