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道修町 雑記

道修町の雑記


■道修町の歴史は・安土・桃山時代に始まり、豊臣秀吉が商業政策として薬種問屋を集めたのが起源とされる

■享保7年(1722年)、徳川吉宗(8代将軍)が127軒の薬種屋の営業を公認し、問屋街発展の基礎を固めた

■町名の由来については、古くから道修寺(どしゅうじ)という寺があったとか、北山道修という医者が住んでいたから、などの説がある。他にも複数の説あり

■道修町の御三家と言われるのが、武田薬品、田辺製薬、塩野義製薬で、田辺製薬が一番古い。御三家に共通しているのが、幕末の頃に率先して、『洋薬』に目をつけた

■とくに田辺製薬は道修町で最初の洋薬製薬工場を、明治10年(1877年)に設立している

■大阪商法、または上方商法と呼ばれるものの根幹には、『始末』『才覚』『算用』の3つが江戸期以来の伝統のなかで磨かれ、今日にまで伝えられてきた

■始末は一般的には倹約や節約と思われるが、真の意味合いは始めと終わりをきちんとすることで、今風にいえば計画性があること

■才覚は頭の回転の早さのことだと思われがちだが、それは戦後になってからの解釈。物真似やずるく立ちまわって儲けることを、戦前の大阪商人は心底から軽蔑した。才覚は人真似をしないこと。独自のアイディア、人のやらぬことをする。独創こそが『才覚』であった。今ひとつ、『才覚』には商売のチャンスを的確につかむ、といった意味も従来からあった

■算用は採算性である

■『利は源(もと)にあり』とする大阪商法、上方商法の根強い伝統的思考ではなかったか

■仕入れ先にこそ利益の源泉があるとの道理。仕入れ先との共存共栄をはかってこそ、商いは成り立つ

■仕入れ先を大切にする考え方は、戦前の、上方商人の誰もがもっていた根本的な考え方であった。それが戦後、180度転換してしまった

■とにかく仕入れ先を叩いてコストの低下をはかるのが、あたかも商いであるかのごとき風習が、雪崩をうって日本人のなかに入ってきた

■田辺又左衛門という、大坂で屈指の豪商がいた

■大阪市北区土佐堀1丁目と中之島4丁目を結ぶ土佐堀川に架かる常安橋。この橋は、もともと田辺屋橋といった。寛永年間(1624年~1644年)に又左衛門が私財を投入して架橋したといわれる

■売薬の歴史は、古く朝廷の医官や神官・僧侶が、貴人への施薬のために調剤したことに端を発していた。それが中世に入ると神社仏閣が中心となり、薬剤をつくって売る仕組みができあがる

■江戸時代を通じての上方商人の真髄は、と問われれば、大坂町人であった井原西鶴の著した、『日本永代蔵』の巻之一、「初午は乗てくる仕合」の冒頭に尽きるのではあるまいか

■酒造業者は、明治末期にいたるまで、銀行の融資を受ける対象リストから外されていた

■江戸時代以来、大酒造家であった富豪が、一夜にして没落、破産したのは、大半がこの『火落ち』によるものであった

■明治の文豪・夏目漱石の代表作のひとつ『吾輩は猫である』に三共商店の薬が出てくる

■戦前の上方商法は、根本は仕入れ先(得意先も含め)との共存共栄を商いの主眼においていた


※参考文献『21世紀のサバイバル戦略』著書:加来耕三
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  1. 2019/05/18(土) 22:26:43|
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