偉人のエピソード逸話集

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平生釟三郎

平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)略歴
慶応2年~昭和20年(1866年~1945年)日本の実業家、教育者、政治家。 美濃国加納藩(現・岐阜市)生まれ。 高等商業学校(現・一橋大学)を首席で卒業。高等商業学校付属主計学校助教諭 、 兵庫県立神戸商業学校(現・兵庫県立神戸商業高等学校)校長を経て、1894年、東京海上保険(現・東京海上日動火災保険)に入社、同社再建に貢献。1933年、川崎造船所(現・川崎重工業)社長。貴族院議員、文部大臣、日本製鐵(現・新日本製鐵)会長などを歴任。現・甲南大学・甲南高等学校・中学校、甲南病院なども設立した。


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平生釟三郎の知られざる逸話

平成24年7月15日
題名:「今こそ士魂商才の実践を」



先日、AIJ投資顧問の社長が詐欺容疑で再逮捕された。いわゆる年金詐欺事件であるが、本人は「騙すつもりはなかった」「取り戻せる自信があった」となかば開き直りとも、自分は何も悪いことはしていないと言わんばかりの発言をしている。昨年明るみになったオリンパスの損失隠し事件といい、企業の不祥事が続きその度にメディアはこぞって制度面の見直しが必要だと論じる。それも必要なこととは思うが本当に問われなければならないのは、経営者の倫理観の欠如ではなかろうか。

私はこのブログで多くの昔の立派な経営者を書いてきたが、そのなかでも数々の業績を残しながら、今や歴史の片隅に追いやられその人物の名前すら忘れさられているケースが少なくないと思う。

自伝や他伝を問わず、多くの伝記や資料に目を通していきその人物を調べていくのだが、今や無名の人物であっても、その人が遺した言葉や日記を読んでいると、この人は相当立派な人物であったのではないかと思える人が多くいる。そういった人物が忘れさられているところに、今の経営者の倫理観が欠如する原因の一つになっているのではないかと思う。

例えば、明治、大正、昭和を駆け抜けた実業家に平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)という人物がいるが、その名を知っている人はあまりいないであろう。

戦争中の暗い時代に、あの悪名高い特高警察に検挙されたある左翼運動家が、その調書に平生のことを次のように述べたと記されている。
「・・・もし日本の資本家に、平生さんのような人が10人いれば、日本は正しい方向に立ち直ると思います」と。

ではいったい平生釟三郎とはどのような人物であったのか。平生は東京海上保険(現・東京海上日動火災保険)の再建、発展に貢献し川崎造船所(現・川崎重工業)社長。貴族院議員、文部大臣、日本製鐵(現・新日本製鐵)会長などを歴任。現・甲南大学・甲南高等学校・中学校、甲南病院なども設立し、実業家としてだけでなく、政界、教育界、医療界とその活躍の範囲は多岐に渡った。それも自らポストを求めるのではなく、全て平生の人格と能力がかわれて、 請われてその地位についているところが一貫している。

平生は高等商業学校(現・一橋大学)を卒業後、官吏を経て兵庫県立神戸商業学校の校長をしていたが、その人柄と能力をかわれ、東京海上保険に誘われ、実業家の第一歩を踏み出す。入社早々に、日本郵船から大口の契約が舞い込んで来た。申し入れてきた貸物(土佐丸)の保険が東京海上の払込資本金と同額の60万円であった。通常5万円以上の契約はイギリスの保険会社に再保険をかけてリスクを分散するのが慣例であったが、日本郵船が申し入れてきた土曜日の午後はイギリスの保険会社が閉店しているため再保険をかけることが出来なかった。土佐丸に万一のことがあれば、東京海上の倒産は必至であった。

益田支配人が平生に話しかける
「平生君、これではどうしようもない。日本郵船に対して今さら約束を破ることは出来ない。だから、もし土佐丸が危険に遭遇したという知らせを受けたときは、武士の習いとして刺し違えよう」すると平生は「それはよい覚悟です」「何事も責任者はその覚悟があってしかるべきです。士魂商才(しこんしょうさい)こそ明治の商人のモットーとすべきものです」と答えた。土佐丸は幸いにも事故はなく、二人は刺し違えずにすんだが、平生は何か不測の事態があった時は潔く身を引く覚悟を何時でも持ち、実業家のモラルともいうべき士魂商才の塊のような人物だったといえる。

その後、平生は東京海上で目覚ましい活躍をするも、会社は苦境に陥り経営が立ちゆかなくなったことがある。そんな時に三井の益田孝社長に三井に来ないかと誘いがかかる。東京海上で支配人だった弟を助けるために、平生を強く東京海上に誘った一人が、この益田社長であった。東京海上が苦境に陥り、平生に申し訳ないという責任感からであった。

しかし平生は
「ご厚意は感謝します。しかし、他日、自分が三井物産で成功し、高い地位に就くことができたとしても、苦境にある東京海上を見捨てて、一身の栄達を計ったといわれても弁解できません。私は東京海上の再興のために全力を尽くしたい」といい三井の誘いは丁重に断った。

その後、平生は見事に東京海上を再建し、さらなる発展へと導いた。大正8年には専務取締役に就任した。28歳で東京海上に入社してから58歳で引退するまでの30年間身を粉にして東京海上で働き日本の海上保険の礎を築いていく、引退後は甲南高等学校や甲南病院の経営を通じて、念願だった社会奉仕に取り組んでいたが、昭和8年、川崎造船所(現・川崎重工業)が経営の危機になると、この危機を救えるのは平生以外にはいないと債権者や実業界から懇望され社長を引き受けることになる。しかし社長を引き受けるにあたって二つの条件を出したが、この条件がまた平生らしい。「一つは、任期を会社再建の目処をつけるまでの2、3年とし目処がつけば職を辞すこと。もう一つは、その間の報酬は一切受け取らないこと」である。これは凄い、どこまでも私利私欲がないところが人から信用されるのであろう。破局寸前だった川崎造船所は平生が社長に就任してわずか2年あまりで、利益が100万円から278万円と3倍近く伸び、川崎造船所の再建も見事に成功させた。その後も平生は社会奉仕に専念することが許されず、周りから推される形で貴族院議員、文部大臣、日本製鐵(現・新日本製鐵)会長などを歴任していく。

平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)が実業家として成功したのは、平生の人格が従業員からも取引先からも実業家からも信頼されていたからであると思うが、その平生の人格の根底を成すのが、士魂商才の精神ではなかったかと思う。

最後に世界的な経営学者、マネジメントの父と呼ばれたドラッカーはあらゆる企業や経営者の研究をし、数々の教訓を遺してくれたが、その中でもドラッカーの哲学が集約されていると思える言葉を紹介して終わりたい。

「経営トップの一番大事なことは何か、それは品性だ」
ピーター・ドラッカー
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  1. 2012/07/15(日) 22:14:28|
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