偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

オリンパスと大王製紙から学ぶ教訓

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山下長(オリンパス創業者)語録 http://bit.ly/Aisp9q
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井川伊勢吉(大王製紙創業者)語録 http://bit.ly/Af21Ym
大王製紙井川家 家系図(家族・親族)http://goo.gl/yplmqJ
大王製紙から学ぶ教訓 http://bit.ly/wXJKo1




平成23年11月20日
題名:「オリンパスと大王製紙から学ぶ教訓」



大王製紙の会長が連結子会社から100億円を超える巨額の借り入れをしていたことが分かった。使途も不明なまま、そのことによって会長職を先日辞任した。また今度は名門光学メーカーのオリンパスが証券投資の巨額損失を隠していたことが発覚し問題になっている。上場企業の不祥事、それも業界最大手といわれる企業の不祥事が続いている。

大王製紙については同社の特別調査委員会が井川一族の影響力が強く「前会長に逆らったり、異論をとなえられる空気がなかった」という趣旨のことを報告している。またオリンパスでは一部役員で買収価格が高いと指摘した役員はいたみたいだが、結果的には不正に会計処理がされているのを止めることはできなかった。

オリンパスにいたっては日本の資本市場そのものに対する信頼を傷つけたという点で極めて責任は重いと思う。今回、監査法人が何故、不正な経理操作を止められなかったのかということも検証する必要があるだろう。

不祥事が起きるたびにより厳しくチェックする制度が必要だとされ、今まで金融庁主導で度々改善が行われてきた。制度面の改善は必要とは思うが、やはり企業はトップいかんで決まる。どんな制度をつくっても抜け道はいくらでもある。トップたる経営者がより企業は公器な存在であることを自覚して、法令を遵守することを意識しないかぎりこういった不祥事はなくならないであろう。

今回の一連の大企業の不祥事は、種類は違うが社内で誰も止めることが出来なかったという点で共通しているように思う。だからといってもちろん社内の人が悪いわけではない。責任はトップたる経営者に全てあることはいうまでもないが、今回の不祥事で教えられる教訓としては、経営者にとって側近の意見に耳を傾けなくなるということは、自殺行為に等しいということである。側近が悪い情報を社長に上げづらい、進言がしにくい、こういった雰囲気が出来た時点でアウトかもしれない。

大きな会社になればなるほど、経営者はいよいよ謙虚になって側近に限らず人の意見に耳を傾けることが必要になると思う。

一連の不祥事を見ていて思い出されるのが、名門意識からくる奢りから、経営が傾いていた東芝の再建を頼まれ、社長に就任した土光敏夫(どこうとしお)である。

まず土光が社長に就任して行ったことは7時出社である。会社の始業時間は、9時からであるが、朝の7時から始業時間の9時までは「誰でも自由に俺の部屋に入って来い」といって社長室をオープンにした。実際に役職のない平社員でも来れば大真面目に話し合った。風通しが良くなったことは言うまでもない。

そしてその当時(昭和41年)、雑誌「財界」の創業者、三鬼陽之助(みきようのすけ)が「東芝の悲劇」という本を出版しベストセラーになった。無配転落になった東芝の起源から調べ、競合の日立、三菱、松下と比較し、石坂会長・岩下社長の確執がもたらした経営陣の内紛、時機を逸した設備投資、重電、軽電の派閥抗争、甘い販売政策、仕入れ政策、外国技術偏重など名門といわれた東芝の病根となる原因をあらゆる角度から分析した内容の著書である。

私も何度となく読んだが、この本に書かれている東芝の病根となっていた要因は、今の大手企業の大企業病にも十分当てはまるものだと思う。

そして出版社「経済界」の創業者、佐藤正忠(さとうせいちゅう)が土光の鶴見(横浜市)の自宅を訪ねて、この本の感想を聞いたことがある。ちょっと意地悪な質問にも思えるが、土光から返って来た返事はこうだ「うちの連中に、読めといってるんだよ。反省すべきところは、大いに反省しろといっているんだよ・・・」そしてまた「いや、あれだけ調べて書いてくれた三鬼君に、感謝しているんだよ」これが土光の感想であったという。当たり前のことであろうが、弁解したり、損失や都合の悪いことを隠そうなどとは微塵も考えない。むしろ積極的に悪い情報や至らぬ部分を謙虚にあらゆる人から聞いて吸い上げていき改善していく。これこそが経営者が本来とるべき正しい道ではないかと思う。ご承知の通り東芝は土光が経営にあたることにより見事に蘇った。

大きな企業になればなるほど経営者に求められる器量は人の意見に耳を傾ける謙虚さではなかろうか。

この気持ちが無くなるといかに恐ろしい事になるか教えられた気がする。

                                            以上

参考

山下長(やました・たけし)略歴
1889年~1959年(明治22年~昭和34年)現・オリンパスの創業者。4月8日、鹿児島県生まれ。大正4年、東京帝国大学法学部法律学科卒業。弁護士を開業後、大正7年、貿易会社「常盤商会」に入社。砂糖で利益を上げた報奨として常盤商会から出資を受け、顕微鏡の国産化を目指す「株式会社高千穂製作所」を設立。この会社が現・オリンパスである。70歳で没

井川伊勢吉(いかわ・いせきち)略歴
1909年~1990年(明治42年~平成2年)大王製紙創業者。11月7日宇摩郡三島村(現四国中央市)に生まれる。昭和3年、三島で製紙原料商開始。昭和15年、丸菱製紙所社長に就任し、製紙業へ参入。昭和16年、四国紙業株式会社を建て、大王製紙の母体となる製紙工場づくりに着手。昭和18年、大王製紙株式会社を設立し社長に就任。昭和39年、大王製紙が倒産の危機に陥り、昭和37年に会社更生法適用の申請をしており、責任を取って社長退陣。昭和40年、会社更正手続終結。社長復帰。昭和62年、代表取締役会長に就任。80歳で没



文責 田宮 卓
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  1. 2011/11/20(日) 16:30:07|
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井川意高前会長(大王製紙から学ぶ教訓)

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井川伊勢吉(大王製紙創業者)語録 http://bit.ly/Af21Ym




平成23年11月11日
題名:「大王製紙から学ぶ教訓」



総合製紙国内3位の大王製紙(東証1部)の創業家出身の前会長の井川意高(いかわもとたか)氏(47歳)が連結子会社から100億円を超える巨額の借り入れをしていたことが分かった。使途はいまでに不明であり上場企業の現職会長が使途不明金に絡んで辞任したのは極めて異例といえるだろう。

私が井川前会長のことを初めて知ったのは、4年ぐらい前の日経新聞の朝刊に42歳の若さで社長に就任という記事を見た時である。業界最大手の企業で随分、若い人が社長になったなあということで記憶しているが、それ以上の関心は特になかった。もちろん面識もない。それまで井川家の名前すら知らなかった。というのも、私は多くの創業家の事を調べてきたと思っているが、いまだに大王製紙の創業者について書かれている本を見たことがない。業界3位の大手企業なのに創業者のことや創業にまつわるエピソードなどの情報がここまでないのも実に珍しいといえる。

大王製紙は井川前会長の祖父、井川伊勢吉(いかわいせきち)が愛媛県で製紙原料から身を興し、地場産業の和紙工業を経て、洋紙生産を始めたことに始まるらしい。

それはさておき、一連のニュースを見ていて思い出される人物がいる。一代で日産コンツェルン(日産、日立グループの創業者)をきづき上げた鮎川義介(あゆかわよしすけ)である。

鮎川が日本青年会議所で講師として招かれ講演をした時に、ある名門企業の社長から質問されたのだが、それに対する答えが思い出される。

「われわれ先代からの余慶で、きわめて恵まれた環境にありますが、今後、この環境を土台にして、さらに飛躍発展するためには、どうしたらいいでしょうか」

鮎川は即座に答えた。「君たちが、今の立場を恵まれた環境だなと思い込んでいたら、それはとんでもない錯覚だ。ありていにいえば、恵まれた環境ではなくて、甘やかされた環境なのだ。そういうところからは経営の厳しさは生まれてこない。第一、親爺が遺した仕事にしがみついて、二代も三代も、その仕事から利益を絞りとろうという考え方自体間違っている」鮎川だからこそ言える言葉であろう。

鮎川は母親が維新の元勲井上馨(いのうえかおる、三井財閥顧問)侯の姪という恵まれた家系ではあったが、この男が凄いのはコネを使わず、自力で道を切り開くことである。大叔父の井上馨から「将来お前は技術畑に進み、エンジニアになれ」と勧められ東京帝国大学(現東京大学)の機械工学科に進学する。4番という優秀な成績で卒業して鮎川が就職先に選んだのは、現在の東芝の前身の芝浦製作所であるが、何と一介の見習い職工として雇われたのである。親戚のコネを使えば財閥系でもどんな企業にも入れたろうに。それも帝国大学工学科卒を隠しての職工としての入社であった。一職工になった理由を鮎川は「いずれは自分で経営をしたい。そのためには現場を知りたいので、一から出発したほうが良い」と考えたというのだ。

鮎川は職工をやりながら休日になると当時の技術水準、企業経営、工場管理のことを徹底的に研究するため東京周辺の工場を見学して歩いた。約2年間、工場の実態を見学し、調査を続けて得られた結論は「日本の機械技術は欧米からの輸入で、殆ど独自のものはない。だから日本で勉強しても、最新の機械技術に接することはできない」ということであった。そして彼は思うだけでなく実行に移しアメリカに渡る。実地に新しい技術を学ぶためである。

しかし鮎川はここでもコネは使わない。井上の顔を利用すれば政府出先機関や三井関係事業所もあり、容易に留学ができたはずなのだが、ここでも鋳物(いもの)工場で週休5ドルの見習工になった。そこで現地の大男に混じって鋳物の湯運びをするのである。大変な重労働である。火傷をすることも一度や二度ではなかったであろう。そこで約2年間職工生活をして当時の最新鋳物技術であった可鍛鋳鉄(かたんちゅうてつ)を習得して帰国する。そして日本初の可鍛鋳鉄会社、戸畑鋳物(とばたいもの)を設立する。この会社が現在の日立金属の前身となる会社であるが、この時は井上候に資金的な協力はしてもらっている。

井川前会長は東大を卒業して直ぐに大王製紙で働きはじめた。ここがいけなかったかもしれない。大王製紙の役員が「前会長は東大を出て直ぐに大王製紙に入った。他人の飯を食った経験がない。無菌状態で純粋培養できてしまったのがいけなかったのではないか」と述べていた。報道によれば小会社から借りたお金をカジノに注ぎ込んだともされるが、これを聞いて一番呆れたのは従業員ではなかろうか。恐らく井川前会長には従業員が現場で泥臭く営業していることも、その気持ちも分からないのであろう。

逆境、苦労、恵まれない境遇はその人の心がけ次第では、最大の教師となり自分を飛躍的に成長させることが出来るが、どんなに恵まれた環境もその人の心がけ次第では、甘やかされた環境となり自己の成長が止まる、人の気持ちも分からなくなる、物の善悪もつかなくなる。これは実に恐ろしいことだ。

人間どのような境遇であろうとも、その人の心がけ次第で教師ともなれば自分を潰す環境ともなりえる。井川前会長も47歳とまだ若い。反省すべきは反省し罪を償い、一から出直すことを期待したい。


文責 田宮 卓
  1. 2011/11/11(金) 23:45:45|
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岩波茂雄(岩波書店創業者)

岩波茂雄(いわなみ・しげお)略歴
1881年~1946年(明治14年~昭和21年)岩波書店創業者。長野県(現・諏訪市)で農家の子として生まれた。帝国大学(現・東京大学)哲学科を卒業すると神田高等女学校の教師になる。教師を辞めて古本屋を開業。その後出版事業に乗り出す。処女出版が文豪・夏目漱石の「こころ」であった。関東大震災で商売上の財産を全て失うが、その後、わが国の文庫文化を創り出す先駆となる「岩波文庫」を創刊する。66歳で没。

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岩波茂雄(岩波書店創業者)語録 http://bit.ly/pxRYoh





岩波茂雄の知られざる秘話

平成23年5月23日
題名「意欲が危機を脱する」




「困難が来るたびにぼくは元気になるよ」岩波茂雄(岩波書店創業者)

逆境はその人に与えられた尊い試練であり、この境涯に鍛えられたひとはまことに強靭であると思う。古来、偉大なる人は、逆境にもまれながらも、不屈の精神で生き抜いた経験を持つ人が多いが、その一人が岩波茂雄(いわなみしげお)ではないかと思う。

岩波は1881年(明治14年)に長野県(現・諏訪市)で農家の子として生まれた。岩波は地元の小学校を終えると、旧制の諏訪中学から日本中学を経て第一高等学校さらに帝国大学(現・東京大学)哲学科を卒業する。こう記すと順風満帆であったように見えるが決してそうではなかった。紆余曲折したため大学を卒業したのが27歳であった。岩波は少年時代、吉田松陰や西郷隆盛といった人物、すなわち英雄崇拝に取りつかれていた。

そのため、諏訪中学から国粋主義者の杉浦重剛(すぎうらしげたか)が校長を勤める日本中学に転校。また、高等学校も二度目にしてようやく合格したものの、二年続きの落第の挙句退学処分となった。そんな回り道をしてからの帝国大学哲学科への入学であった。

しかし人間なにが幸いするか分からない。回り道した分、沢山の学友を持つことができ、このなかから後に社会で名を残す秀才が多く出た。岩波文化という言葉は岩波人脈と同義語といわれたが、学生時代の友人、先輩、後輩との人脈が将来大きく役に立った。
 
帝国大学哲学科を卒業すると岩波は、当時日本の女子教育が非常に遅れていたことを痛感していたため、少しでも役に立てればと思い神田高等女学校の教師になった。教育熱心でその授業も献身的であったため教頭にまでなるが、経営方針でぶつかったのか辞めてしまう。

教職を辞めてから岩波は、以前から憧れていた晴耕雨読の生活を富士山の麓で送ろうと一旦は考え場所まで決めていた。しかし田園生活は何時でも出来るのでその前に一度市民の生活をしてみようという気になり、封建時代以来、士農工商といわれ商人は一番下に見られているが、商人も社会的任務を尽くすものであれば必ずしも卑しいものではないはず。人のために必要な品物をなるべく廉価に提供すれば人々は満足しまた自分の生活も成り立つはずだ。そう思えば商売も必ずしも卑賤ではない。官吏や教育と異なって自由独立の境地も得られる。また人の子を賊う恐れもないから安心である。岩波はこういう考えに至り商売をはじめることにした。

そして始めたのが神田神保町での古本屋であった。名前も「岩波書店」とした。岩波書店のスタートは古本屋であった。この時、大正2年岩波33歳のときである

商売の家系でもなく経験もなかった岩波がなぜ商売で成功できたのか、私は大きな要素が2つあると思う。
一つは何処までも誠実であったこと。
一つは困難に立ち向かう精神力があったこと

である。
古本屋を開業する前に岩波は郷里の長野県出身で、これまた商売には全くの素人であったが既に成功しつつあった新宿中村屋を経営している相馬夫妻に相談をしている。商売のことを色々と教えてもらったが、相馬愛蔵自身も誠実の塊のような人であった。

そんな相馬のことを後に岩波がこう語っている「私が畏敬する大先輩であり、敬服する
のは商売気質に堕せず志業を大成したこと。氏の如く独立独歩自由誠実の大道を闊歩して所信を貫くことは至難である」
しかしながら岩波も相馬に負けず、およそ誠実以外に生き方を知らない男であった。

岩波が古本屋を始めたのは自由人でいられて、とりあえず生活が出来ればいいといった
消極的な理由で、後に志す「日本文化への貢献」という大それた気持ちが最初からあった
わけではなかったようだ。

しかし頑固たる道徳信念だけは持っていた。それが古本の正価販売である。当時の古着
屋や古本屋は正礼など明示していない。その場での顧客との交渉で値段が決まり売買をし
ていた。にもかかわらず岩波の店の古本には正礼をつけたのである。

なんだそんなことと思うかもしれないが、これは当時としては東京中の商習慣に全面的
に反逆する行為であって確固たる信念がないとできることではなかった。

正直では商売ができないというのが世の常識であったが、岩波は「書物が文化財であるからには、その取引も公正明大にすべきである」という信念があり何よりも掛け引きや虚偽が嫌いだった。 

最初は客とのトラブルもたえなかったようだ「なぜ古本なのに正礼などがつくんだ」と客は怒る。説明してもなかなか理解されない。一銭二銭を引かせようと10分、20分粘られても絶対に引かない。なかには2日にわたり2銭引かせるために3回も4回も足を運んでくるが結局正礼で買ってもらうこともあったという。それだけ本を盗む人以外は値引きをして買うのがあたりまえだったのである。

また岩波のもう一つの信念は「他より幾分でも高く買い入れ、また幾分でもこれを他より安く売る」であった。晩年も商売の秘訣を聞かれれば、これ以外に答えようがないと言っていたという。これで本当に商売が成り立つのかと思えるが、徐々に岩波の考えは理解され受け入れられていく。

一般に古本屋は信用できないと思われていたのか「あなたの所なら幾らでもよいから買ってくれ」といって全国各地から古本を送りつけてくるようになった。やがて正価販売も定着していく。

そして古本屋を開業した翌年には出版事業に乗り出すが、新本の処女出版となったのが文豪・夏目漱石の「こころ」であった。漱石といえば国民的人気作家である。まだ海のものとも山のものとも分からない、岩波を何処か見所があると思い信用したのか、漱石は快く出版を承諾したという。しかも漱石が店の看板の字まで書いてくれたというから驚きである。

漱石の「こころ」を皮切りに、出版業界へ進出した岩波はまもなく、古本屋から撤退。その後は「哲学叢書」を刊行。続いて漱石の遺作「明暗」を出版。さらに「漱石全集」を刊行し出版界にその地歩を固めていく。

そして読者に対しての忠実な奉仕というは岩波の一貫した精神は変わることはなかった。新本の小売販売が定価の一割または二割引きであった商習慣を廃して、定価販売を断行した。「割引きのできるものなら、初めから引いて定価で売ればいいではないか」という正直主義によるものであるが、これもまた他が岩波を追随するかたちで定着していく。しかし出版事業が軌道に乗り出したやさきに関東大震災に遭遇する。

大正12年9月1日午前11時58分、関東大震災が直撃する。岩波書店の店員たちは重要書類だけ持ち出して避難する。しばらくして店の様子を見にいこうとするが神田は火の海で近づくことができない。神保町も今川小路も焼けてしまった。結局、岩波書店は神田神保町にあった書店2棟、今川小路の持家倉庫3棟、有楽町の印刷工場なども全て焼失した。岩波書店は再起不能と言われ、普通であれば落ち込むところであろうが岩波は違った。

岩波は20数人の店員および家族の何れも命に別条がなく負傷者もいなかったことを知ると、多大なる興奮を持って感謝し、再起の元気に燃え立ったという。
この状況で悲観も落胆もせず感謝とは驚きである。幸い原稿は持ち出していたので著者には感謝されたが、それ以外の店や倉庫や工場など商業用の財産は全て焼けているのだ。それだけ岩波が何よりも人を大事にしてきたことが伺える。
 
後に岩波は「負傷者がいなかったことと、罹災することで試練を与えられたこと、新生活を開拓する勇気と確信と喜悦を与えられたことに感謝した。実際に感謝という気持ちをあれ程味わったことはない」と告白している。

また、こういう危機の時にこそ、その人の本質が出るものである。魚河岸(うおがし)では焼けた倉庫から人々が魚を持ち出していた。それを見た店員が一匹持ってきましょうかというと、岩波は「よせ、焼けたって、人のものをとってはいけない」といった。側近の一人が著者の印税を引き下げて岩波の損失を幾分か救おうと考えるが、これまた岩波は一蹴する。
 
岩波は真っ先に復興の先頭に立ち上がる。地震の災厄で少しもへこたれることはなく、むしろ前より元気になり自転車でしきりに著者のところを訪ねてまわったという。

ほとんどの印刷所が焼け、焼けなかった印刷所に出版社が殺到するが、岩波は他の出版社よりも信頼されていたため、印刷や製本を依頼しても優先的に快く引き受けてもらえた。どんな天災も物質的な財産を奪ってもその人の信用まで奪うことはできない。信用がものをいい復興は順調に進む。とりあえず「哲学辞典」の改訂版、「カント著作集」の刊行をもって危機的状況の脱出に成功する。

関東大震災の危機は脱したが、その後も何度も危機は訪れる。しかし岩波という男は困難であればあるほど逆にファイトが湧き困難を逆に原動力とするようだ。

1926年(大正15年)は一般の景気が悪く、不況にあえいでいた改造社が「現代日本文学全集」の出版をはじめたので業界に激震が走った。いわゆる円本の出版で、毎月一円で明治以来の名作を全部揃えると新聞に大々的に広告をうった。日本ではじめて大量生産による出版が行われた。岩波はこれを最初、冷ややかな目でみていた。全集という名前がおかしい。まだ優れた作品が残っている。誰が責任をもって編集したのかも分からない。印刷も製本も粗雑である等、ケチをつける材料はいくらでもあった。

しかし岩波の思いとは裏腹に改造社の円本は世に受け入れられ成功していく。そしてこの成功に便乗する形で、新潮社は「世界文学全集」を計画する。第一書房は「近代劇全集」、講談社は「講談全集」を、平凡社は「大衆文学全集」、春陽堂は明治時代のすぐれた文学作品の版権を沢山持っていたので「明治大正文学全集」を計画した。各社広告を出し円本の嵐が激化していく。なかでも新潮社の「世界文学全集」は大成功する。

岩波書店にしてもこの年は経営が苦しく他社が円本で巻き返しているなか、完全に出遅れてしまった。しかし岩波はピンチになればなるほどファイトが湧いてくる男である。

円本に対抗する形で考えたのが「日本版レクラム」であった。レクラムはドイツの出版社で、文芸、哲学、自然科学、社会科学などの広範なジャンルを文庫で廉価で人々に提供していた。このレクラム文庫をモデルにした文庫本をつくろうと岩波は計画した。これがわが国の文庫文化を創り出す先駆となる「岩波文庫」である。

しかし社内では反対するものも多かった。文庫は薄利多売で採算が合わない。文庫本はまともな本ではないという意見があったが、岩波は自身の信念にもとづき強硬に推し進め創刊した。

第一回の発売は次のものであった。
○新訓万葉集上下巻 ○こころ ○プラトンソクラテスの弁明・クリトン ○カント実践理性批判 ○古事記 ○藤村詩抄 ○スミス国富論上巻 ○にごりえ・たけくらべ ○国性爺合戦・鑓の権三重帷子 ○戦争と平和第一巻 ○芭蕉七部集 ○五重塔 ○病牀六尺 ○父 ○出家とその弟子 ○桜の園 ○幸福者 ○号外(他六篇) ○科学の価値 ○認識の対象 ○おらが春・我春集 ○北村透谷集 ○賢者ナータン ○春の目ざめ ○令嬢ユリエ ○曽我会稽山・心中天の網島 ○闇の力 ○仰臥漫録 ○科学と方法 ○伯父ワーニヤ ○生ける屍 

古今の名著から、哲学、社会科学、自然科学、文芸、芸術まで網羅する岩波文庫の登場は人々を驚かせた。貧乏学生でも買える値段設定とポケットに入る手軽さから読者層を一気に増やした。

賛美、激励、希望等の書信が数千通に達した。「私の教養の一切を岩波文庫に托する」などという感激の文字もあったという。

岩波は一部のインテリ層だけに読まれていた書物を一般市民に普及させることに成功させたのだ。

そして岩波文庫発刊に際しての書き出しの言葉が名文である。全文はどの岩波文庫にも最後に掲載されている。 

「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめた学芸が最も狭き堂宇(どうう)に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭に隅なく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこす誇称する全集がその編集に万全な用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか・・・」

岩波は関東大震災で商売上の財産を全て失ったが、負傷者がいなかったことと、試練を与えられたことに感謝し、これが原動力となり岩波文化をつくりあげていった。

岩波は昭和20年多額納税議員として貴族院に列せられるまでになり、昭和21年には第5回文化勲章を受章する。文化勲章受章から2ヶ月後、熱海の別荘で没した。享年66歳であった。

文責 田宮 卓

参考文献
加来耕三 「成せば、成る」 一二三書房
小林 勇 「櫟荘主人」 岩波書店
安部能成 「岩波茂雄傳」岩波書店
岩波茂雄 「岩波遺文抄」株式会社日本図書センター
  1. 2011/11/11(金) 23:42:43|
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野田佳彦首相の人柄

野田佳彦(のだ・よしひこ)略歴
1957年~(昭和32年~)第95代内閣総理大臣。民主党代表。千葉県船橋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、松下政経塾に第一期生として入塾。千葉県議二期を経て、1993年、日本新党から立候補し衆議院議員初当選。当選5期。平成21年、財務副大臣に就任。平成22年、財務大臣に就任。

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野田佳彦(内閣総理大臣)語録 http://bit.ly/wOAUb0
野田佳彦総理誕生(松下幸之助の遺産)http://bit.ly/wySCzN





野田佳彦の知られざる逸話

平成23年9月18日
題名:「野田佳彦首相の人柄」



かつてホンダの創業者、本田宗一郎はどういう経営者に投資をするかと聞かれて「愛嬌のある人」と答えたことがあり、愛嬌のないやつは好かんという。

愛嬌といえばパナソニックの創業者、松下幸之助が真のリーダーとなる政治家を養成するために設塾した松下政経塾があるが、幸之助は入塾試験での面接で採用基準としていたのが「運があるか」「愛嬌があるか」の2点であったことは有名な話である。リーダーは廻りの人に助けられなければならない、だから愛嬌が必要だという。

経営者であれ、政治家であれリーダーの器は、結局のところその人柄がどれだけ多くの人に受け入れられるかで決まってくるのではないかと思う。多くの人に受け入れられる人柄であればそれだけ器量も大きいと言えるだろう。
 
そして野田総理もこの松下政経塾の出身であり、直接、幸之助に面接をされて採用されている。現在、政経塾出身の国会議員が30名以上になるという。そのうち私は20名以上の政経塾出身の国会議員に会ったことがあるが、「え、この人本当に愛嬌あるのかな?」と思う人がいなくはないが、私が知っているなかで一番愛嬌がある人といえば、なんといっても樽床伸二(たるとこしんじ)衆議院議員(現民主党幹事長代行)であろう。樽床さんは何ともいえないキャラクターでタルちゃん、タルちゃんと皆に慕われる。笑うと愛嬌の塊みたいな人である。

今から十数年前になるが、私は大学を出てすぐに、ひょんなことからある国会議員(松下政経塾2期生)の秘書となった。国会での仕事の一つが、2週間に一度のペースで松下政経塾出身の国会議員だけが集まる会議がありその幹事役(事務局)であった。議題や日程や会議室を決めて各議員の事務所に案内を送る。そして会議の時は幹事役なので末席に座り議事録をとるというものであった。

このことは(野田佳彦総理誕生(松下幸之助の遺産)http://bit.ly/wySCzN)のブログでも書いたがもう一度、この会議の主な参加メンバーを記すと野田佳彦(現総理大臣)、前原誠司(民主党政調会長)、玄葉光一郎(外務大臣)、原口一博(元総務大臣)、逢沢一郎(現自民党国対委員長)、中田宏(前横浜市長)、松沢茂文(前神奈川県知事)、樽床伸二(現民主党幹事長代行)、松原仁(現国土交通副大臣)福山哲郎参議院議員(前官房副長官)、鈴木康友(現浜松市長)らであったが、当時は皆、まだ駆け出しの政治家であった。

樽床さんとはこの会議で毎回顔を会わすのだが、会議が始まって20分ぐらいすると何時も「あれ、灰皿ない?」と聞いてくる。私は「申し訳ございません」と慌てて灰皿を用意するのだが、何故かこの会議に限って私は毎回灰皿を用意するのを忘れてしまう。そこで毎回、樽床さんに「灰皿ない?」と聞かれる失態をおかしていた。廻りの議員も私のことを「気の利かない秘書だな」ときっと思っていただろう。20分ぐらいたってから言うのは樽床さんの優しさで「言うまえに気付いて灰皿持ってきてくれよ」と心の中では思っていたのではないかと思う。

そしてこの会議で毎回顔を会わせていた野田(当時は当選2回)さんが総理になったことは驚きであったが、最近、私はテレビの報道で野田さんが愛煙家であることを初めて知り「ゾー」とした。それも一日に2箱も吸う程のヘビースモーカーである。ということは野田さんもこの会議で「なんで何時も灰皿ないんだよ」ときっと思っていたに違いない。

ところが野田さんに「灰皿ない?」と聞かれたことは一度もなかった。私はこれが野田さんの優しさであり人柄だと思う。実は野田さんはこの会議の座長である。そして松下政経塾は体育会系の組織なので、議員としての当選回数が上でも政経塾の先輩に対しては「○○さん」か「○○先輩」と敬意を表して呼ぶ。逆に当選回数が自分より上でも政経塾の後輩に対しては大抵、君づけで呼ぶのが習わしである。

野田さんは政経塾の一期生でありこの会議の座長である。つまり野田さんはこの会議では一番偉そうにしていてもいい立場であるのだが、そのような素振りは微塵も感じたことはなかった。やはり総理になるだけのことはあるかもしれない。私の代議士は政経塾の2期生なので野田さんのことは良くしっており、「野田さんは人格者。昔から人望があり尊敬している」と良く言っていたのを覚えている。

野田総理はどんなに野党に野次られても、挑発に乗らないし低姿勢を崩さない。これも総理の人格といえるであろう。

こういういい話を書けるのも支持率が高い今のうちと思い書いてみた。

9月16日の参議院本会議で、松下幸之助の秘書で野田総理が政経塾に入塾する時の面接官でもあった江口克彦参議議員(みんなの党)が「松下幸之助の教えをどう考えているか」と挑発的な質問をした。それに対して野田総理は「松下さんは私がこの場でとうとうと、師の教えと私の持論を述べることを喜ばないと思う」「総理として、行動をもって師の心に応えて行く」と力強く答弁された。

この言葉通り、くれぐれも国民や松下幸之助翁を失望させることのないように、行動をもって結果を残していただきたい。

最後に松下幸之助翁の言葉を紹介して終わりたい。

「政治家の良否が国の命運を左右し、国民の幸不幸を決める」松下幸之助


文責 田宮 卓
  1. 2011/11/09(水) 18:29:15|
  2. 野田佳彦総理大臣
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安藤百福(日清食品創業者)

安藤百福(あんどう・ももふく)略歴(プロフィール)
1910年~2007年(明治43年~平成19年)日清食品創業者。台湾・台南県生まれ。立命館大学専門部卒。昭和23年中交総社を設立して社長に就任。このあと、信用組合理事長等を兼任。昭和33年即席ラーメンの発売を機に日清食品に社名変更。昭和56年から会長。東証一部上場。著書に「自伝・奇想天外の発想」

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xlkcNu
安藤百福(日清食品創業者)語録集(逆境編) http://bit.ly/y7esyk




安藤百福の知られざる逸話(チキンラーメン誕生秘話)


題名「どん底からの脱出」


伊藤忠の経営危機の時に2代目伊藤忠兵衛のもとに井上準之助(当時、日銀総裁)から一通の手紙が届いた。手紙には次のように記されていた。「名を成すは常に窮苦の日にあり、事の敗るるは多くは得意の時による」進退きわまる窮苦の今こそ、名を成す時である。死力を尽くして戦え━という激励の書であった。忠兵衛は目頭が熱くなりここが生涯の勝負どころと奮い立ち会社再建に命をかけ見事に難局を切り抜けた。その後会社は発展していった。

経営史を紐解いた時に危機の時にうった施策が功をそうして発展した例は数限りないが、日清食品の安藤百福(あんどうももふく)ほど苦境から脱出して短期間であれだけの成功をおさめた人はいないであろう。苦境になったからこそ初めて発揮される滞在能力というものがあるようだ。

安藤百福が世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」の開発に成功したのは昭和33年(1958年)であった。安藤が48歳の時であるが開発にとりかかった時は無一文に近い状態であった。不慣れな信用組合の理事長を引受けたところ倒産してしまったからである。整理を終え心身ともに疲れはて大阪府の池田の愚居に引き籠ったが、しばらくするとさばさばした気分になり、「失ったのは財産だけではないか。その分だけ、経験が血や肉となって身についている」そう開きなおると勇気が湧いてきたという。

それまで安藤は22歳の時にメリヤス(靴下)の販売を皮切りに機械、製塩、炭焼きと幅広く事業を展開してきたが、ラーメンの製造の経験は皆無であった。即席ラーメンの発想は戦中、戦後に飢えを凌ぐために人々が食糧を求めて争う姿を目当りにしたことと、戦後大阪梅田駅の裏手でラーメンの屋台に長い行列が出来ているのを見たことに起因する。人は一杯のラーメンのためにこれだけ努力するのかと感動を覚えたという。池田の愚居のどん底で食が全ての原点であるという思いが深まっていく。食のありさまが乱れていたら国は衰退する。食品会社はきわめて社会貢献度の高い仕事である、食が文化、芸術、社会のすべての原点であるという考えに至り、今までぼやっと考えていた「いつでもどこでも食べられるメン」を大量生産して、家庭の味にしてみようと一度企画して捨てられたテーマが再び浮上して、やがて頭脳の全部を占領してしまう。

腹が決まると自宅の裏庭に小屋のような作業場をつくり、開発の目標を「美味しい、保存性、便利、安価、安全」と5つに定め、ラーメンの開発に集中する。もちろん社員などいない。手伝ってくれるのは妻と子供だけである。朝の5時夜が明けると研究室にこもり夜中の1時、2時まで研究は続く。一日の休みもなく研究を続けついに安藤は「チキンラーメン」を完成させた。チキンラーメンは爆発的に売れ、即席メンの生産は、昭和33年に1千3百万食、34年には7千万食、35年に1億5千万食、36年に5億5千万食、そして37年には10億食、38年には20億食と倍増していく。「チキンラーメン」を開発してわずか5年で東京と大阪の両取引所に上場を果たす。現在世界で最も流通している食品が安藤が開発した即席メンであるが、無一文からの出発で、短期間でここまでの成功をおさめた人はいないであろう。

安藤は「事業と財産を失い裸一貫、絶対の窮地からの出発であったからこそ、並ではない滞在能力が発揮出来たのではなかろうか。逆説的に言えば、私に事業失敗がなければこれほどの充実した瞬間は持てなかっただろうし、即席メンを生み出すエネルギーも生まれなかっただろう」と述懐する。 

文責 田宮 卓

参考文献
安藤百福 「食欲礼賛」 PHP
安藤百福 「苦境からの脱出」 フーディアム・コミュニケーション
船井幸雄 監修「ビジネスマンが読んでおくべき一流のあの選択、この決断」三笠書房>
  1. 2011/11/09(水) 15:16:52|
  2. 安藤百福(日清食品創業者)
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森永太一郎(森永製菓創業者)

森永太一郎(もりなが・たいちろう)略歴(プロフィール)
1865年~1937年(慶応元年~昭和12年)森永製菓創業者。佐賀県生まれ。明治21年、渡米して製菓技術を習得。明治32年に帰国し森永西洋菓子製造所(現・森永製菓)を創業。大正3年森永ミルクキャラメル発売。昭和10年、社長を退きキリスト教の布教活動開始。72歳で没。

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xLH35E
森永太一郎(森永製菓創業者)語録 http://bit.ly/xMMJCd 



題名:東洋の製菓王森永太一郎


「事業と公益との融合を以って一大指標とす」
「商売は正直でなければ栄えません」
森永太一郎(森永製菓創業者)


危機の時にこそその人の本質が現れるのだと思う。たとえば会社の経営をしている人であれば企業理念が本物であるかどうかは緊急事態の時にとる行動で分かるであろう。

関東大震災で被災しながらも被災者救済のために奔走した企業は沢山ある。しかし一社だけずば抜けて活躍した企業がある。それが森永製菓である。恐らく関東大震災で森永製菓以上に被災者救援に貢献した企業はないであろう。

森永製菓の創業者、森永太一郎(もりながたいちろう)は1865年(慶応元年)現在の佐賀県伊万里市で有田焼の陶器問屋の子として生まれた。6歳で父親が病没し母親とは生き別れとなり親戚の家を転々として孤児同然の少年期を過ごす。学校にも通えず12歳まで自分の名前すら書けず、仲間から侮辱されるようなありさまであった。

このような不遇な少年期を過ごした太一郎が何故、東洋の製菓王といわれるまでの活躍が出来たのか、私は大きな要因が3つあると思う。

1、 誰よりも商売道徳を重んじたこと
2、 信仰心があったこと
3、 良き片腕に恵まれたこと

この3つである。

親戚の家を転々とさせられた太一郎は伊万里の陶器問屋をしている山崎文左衛門商店に養われることになる。文左衛門は叔父にあたるがこの叔父に商売道徳を叩きこまれた。このことが後に太一郎が東洋の製菓王となれた大きな要因の一つであろう。
 
文左衛門は「これから商人の道を歩くお前が、絶対に守らなければならないことが4つある」と前置きして太一郎に語りかけた。

1、 どんな場合でも、正当な商品だけを扱い、不正直なものを売買しない。
2、 目先の利益に釣られて、粗末な品物を扱わない。
3、 正直と信じてつけた値段は、お客様から何と言われても下げない。
4、 仕事を急がず、10年を一区切りと決めて堅実にやる。

当たり前のことかもしれないが、この当たり前のことが守られず、偽装表示や嘘をつき不祥事を起こすのが食品業界の常である。経営が苦しくなると消費者にはどうせ分からないと誤魔化す行為があとをたたない。

しかし太一郎はこの文左衛門の4ヶ条を心に刻みつけ最後までぶれずに実践した。

太一郎は文左衛門のもとで商売のイロハを学びメキメキと成長していく。文左衛門が学問に理解があったことから、幸い勉強することも許された。負けん気だけは人一倍強かった太一郎は仕事に勉強にと一心不乱に頑張った。
 
1888年( 明治21年)、23歳の時、太一郎はもう一人前の商人になっていたがひょんなことから九谷焼きをアメリカに飛び込みで売ることを決意する。当時のアメリカは人種差別が激しく黄禍論が声高に叫ばれるなか無謀とも思える行動であったが、このアメリカ行きが一陶器商人にすぎなかった太一郎を東洋の製菓王へと導くことになる。

太一郎がアメリカに行き飛び込みで九谷焼きを売ることを決意したのには理由があった。昔お世話になったことのある九谷焼きの商店をしている店主が、問屋との関係が悪化して取引が中止となり困っていると泣きついてきたのだ。資金繰りも行き詰まり借金とりが押しかけてくる状態でどうにもならなくなり、若いがしっかりしている太一郎を頼ってきたのだ。

太一郎は今こそ店主に昔の恩を返すチャンスと思い何か打開策がないか必死に考えた。この商店は主に九谷焼きを外国商館に売っている。そこで太一郎が思いついたのが残った九谷焼きを直接アメリカで売れば手数料を払わずに済み、その分利益を見込めるというものであった。しかも欲を出し、どうせなら沢山九谷焼きをアメリカに持っていこうと思い、他で三千円分の借金をして九谷焼きを仕入れて多めに持っていくことにした。 

ところがいきこんでアメリカに乗り込んだが九谷焼きは全く売れなかった。かたことの英語ではコミュ二ケーションもまともにとれないのだから当然といえば当然の結果であった。しかたなく在庫品をオークション(競売)に掛けて処分したが、借金だけが残り全くの骨折り損であった。そもそも計画自体が無謀であったかもしれない。だがこのチャレンジ精神は太一郎の良さであり何もしなければ大きな成功もありえないものである。実際に太一郎はこの後、アメリカで生涯情熱を捧げる2つのことを手に入れることになる。

遠い異国での挫折は身にこたえた。借金だけかかえてこのまま日本に帰るわけにもいかない。呆然と街を彷徨い歩き、疲れ果てて公園のベンチに腰を落とした。時計を見ると午後2時に近いが、朝食も昼食も抜いていたので腹がグーと鳴る。

そんなとき60歳ぐらいの上品な顔立ちの婦人が話しかけてきた「グッド・アフタヌーン」、とっさに「グッド・アフタヌーン、マム」と太一郎は返したが心の中では「ちっともよい午後ではない」と思った。婦人は、ハンドバックからキャンデーを取り出した。

人の運命とは分からないものである。この婦人が差し出したたったひと欠片(かけら)のキャンデーが太一郎の人生を決定づけることになったからだ。

「プリーズ」「サンキュー、マム」と素直に婦人の好意を受け入れ太一郎は、キャンデーの美しい包装紙をむいて頬ばった。とろりとした甘味が口中に広がり「うまい!」と思わず叫ぶ。このような美味しい菓子を日本では食べたことはなかった。

そしてその瞬間に「洋菓子の職人になろう」という気持ちが沸き上がってきた。「洋菓子の製造技術を習得して帰国し、洋菓子を安い値段で日本人に提供したい。この分野のパイオニアになろう」と太一郎は決意する。
「サンキュー・マム」と婦人にお礼を述べると公園を後にし、日本人の私設職業紹介所を訪ねた。菓子工場で働くためであった。しかし「それは無理だと」にべもなく断られる。「俺達日本人は白人から劣等人種と見なされているので、白人がやっている菓子工場に入るなんてとんでもないことだ」というのである。「この国は人種差別が激しく、今のところ日本人がなれるのは、下男(男の召使)同然のスクールボーイか、農場や農園で働くガーデナー、それにホテルのコックくらいだよ」という。

太一郎は生きるために取りあえずスクールボーイになった。それをしながら菓子工場に入るチャンスを窺うことにした。「ジャップ」となじられカットなり主人とぶつかることもありアメリカ人の家を転々とするが、チャンスを掴むため気持ちを抑えて身を粉にして働いた。
 
するとある時、偶然にも公園でキャンデーをくれた婦人と再会することがあり、この婦人の家でスク-ルボーイとして働くことになったのだが、またもやこの婦人から太一郎にとって生涯情熱を捧げられるものを与えられた。この婦人は夫婦共々信心深いキリスト教徒であったことから、太一郎は神の道に導かれて洗礼を受ける。太一郎は「熱狂的情熱が猛然と沸き起こり、勇気100倍」になったという。

岩波書店の創業者、岩波茂雄は、文豪トルストイの「信仰なきところに人生なし」の言葉を発見した時に踊り上がるほど喜び、思想上の一大転機となったという
私(筆者)は特に何か宗教を信仰しているわけではないので分からないが、太一郎にとってクリスチャンになったことは生きていくうえでの大きな糧となったようだ。

その後はパン屋の下職からベーカリー、さらにキャンデー工場で働くことができるようになった。のべ12年間アメリカで修業した太一郎は洋菓子造りの技術を身につけることができたので帰国して独立開業することにした。
 
帰国して東京の赤坂溜池で僅か2坪の作業場兼店舗を開き、「森永西洋菓子製造所」の看板を揚げたのは明治32年8月、太一郎35歳の時であった。

そして最初に製造したのがマシュマロ(米国では天使の食料)であった。夜の明けないうちに起きてマシュマロを造り、それを風呂敷に包んで、東京中の菓子屋を訪ね歩いたが注文は全くとれなかった。「こんなフワフワしたものはとても売れんよ」「口に合わん」と断られる。次にキャラメルを造ってみるがこれまた売れず、販路開拓は苦難の連続であった。

「西洋菓子など日本では早かったか」と落胆するが、熱心なクリスチャンとなっていた太一郎は直ぐにマタイ伝の中の一節「天は空飛ぶ鳥さえ飢えさせぬ。ましてや万物の霊長たる人間の誠さえ踏んでいくならば、飢えることなどあるべきものではない。天は何人でも、働く者には必ず衣食の糧を与えられるものである」を思い出し、自身を奮い立たせる。

そして西洋菓子を造ってから2ヶ月経ってようやくマシュマロが売れた。注文してくれたのは、青柳商店という店の夫人で太一郎の郷里の藩主であった鍋島家の御屋敷で奉公していたことがあるという人であった。肥前の鍋島家は、維新後は華族となって東京に住んでいた。この夫人は太一郎が佐賀出身と聞いて、昔、鍋島家の東京の御屋敷で奉公した経験があるから佐賀の人は身内のような気がするといい「もし売れなければ家族で食べるか、近所にお分けするなりします」と喜んで注文してくれた。それからは太一郎の地道な営業活動が少しずつ実りはじめたのか注文は徐々に取れ出した。そして神のご加護か正直に商売をしてきた結果か分からないが時勢も太一郎を味方するようになる。

開業した明治32年のクリスマスに、「アンパン」で有名な銀座の木村屋と風月堂がアメリカやヨーロッパから洋菓子を輸入し売り出したのだが、そのことが東京市民の間で大きな話題になりはじめたのである。

おのずと東京で洋菓子を造っている森永西洋菓子製造所の存在がクローズアップされた。注文が増え数名の職人を雇っても間に合わないので郷里の伊万里からも3人呼び寄せるほどの忙しさになった。

翌年明治33年4月には、2坪の作業場では間に合わなくなったので米国大使館通りに面した溜池の表通りに建つ20坪の家を借りてそこへ移ることにした。一年もしないうちに2坪の作業場から10倍のスペースに拡張できたのも太一郎の洋菓子がそれなりの評価を得たからに他ならない。

新しい工場と店には大きな看板をかかげ、英字表記もした。すると駐日アメリカ公使のバック公使夫人の目にとまり毎日のように太一郎の店のキャンデーやチョコレートを買いに来るようになった。バック夫人はよほど太一郎の洋菓子が気に入ったのか、森永西洋菓子製造所の存在を友達や知人にも宣伝してくれた。そのお陰で青木周蔵外務大臣夫人始め、各国の公使夫人が顧客になり口コミにより「森永の洋菓子」は上流社会にも受け入れられるようになっていく。

販路は順調に増えていったが、太一郎は文左衛門の教訓を深く心に刻み込んでいるので古い慣習にこだわる取引先と衝突することもしばしばあった。ボール箱入りの折詰をアメリカ式に「揚げ底」をなくした時に、問屋や小売店から「これでは見かけが小さくて売りにくいから揚け底にしてくれ」と要求されることがあった。しかしこれらの要求をすべて拒否する。「揚げ底にすると、余分な材料が要るばかりか運賃もかさみます。それに受け取った人は容れ物の大きさに比べて中身が少ないため、馬鹿にされたような気分にさせます」「そんなこと言っても、揚げ底は昔からの習慣だよ」「こういう習慣は百害あって一利もないので私は断じてやりません」といい問屋や小売店に妥協をしない。インチキまがいな方法はどうしても太一郎には受け入れることが出来ないのである。

またこんなこともあった。売行きの良いウイスキーボンボンとリキュールボンボンについて、近所のフレンド女学校の教師から「これらは少年少女の柔らかい頭脳に害を与えるので、本場のイギリスではもう造られていません」と指摘される。するとその日のうちに製造を中止してしまった。

そして予期出来ぬ不運な出来事がおきたこともあった。アメリカでは経験しなかった日本の高温多湿の風土に製品が傷み、返品の山を築き泣く泣く捨てる日が続いた。大変な損失であったが、返品のあった得意先へは直ぐに新品を無償で届けて信用回復に努めていくことをした。

太一郎のこうした商道徳は、彼の信用を高め「森永は商人道を心得た男だ」と評判が立ち太一郎と取引を望む小売店が続出していった。

また、太一郎は作業場の衛生にも細心の注意をはらった。当時は菓子屋の台所は、砂糖や飴や小豆の搾りかすなどが散乱して不潔きわまりないものと決まっていた。職人の衣服も汚かった。製菓業を近代的な産業に育てたいと思っていた太一郎は従業員には全員、白い作業服と帽子を着用させた。着用したがらない者には根気よく衛生の大切さを説明するが、それでも従わない者には容赦なく雷を落とす。そこはアメリカで、身一つで修羅場をくぐり抜けてきた太一郎である、従業員には厳しくワンマンになるのも当然であった。

これで顧客や取引先から信用を得られないわけがない。森永の洋菓子の評判はどんどん高まっていき、注文も増える一方であった。開業して3年後には東京の菓子屋で森永太一郎の名を知らぬものはいないまでになった。

しかし注文は増える一方であるが、製造に営業にと太一郎は皆の先頭に立ち働いてきたが、製造に専念するとどうしても営業が疎かになる。結果お客様に迷惑がかかってしまうということが起きてきた。

自分一人ではこれ以上、事業を伸ばすことに限界を感じる。誰か片腕となる良き女房役がいなければこれ以上の発展は望めないと、真剣に人材を探しはじめる。

ここはとても大事なポイントである。現代も同じことで、業種にもよるが一般的に一から立ち上げた会社で年商10億円までの規模は社長一人の力量でなれるが、それ以上の規模は良き片腕やパートナーに恵まれないとなれないといわれる。

実際に年商10億円までの会社は社長一人だけが優秀というところが多い。それだけ良き片腕となるような人材がなかなかいないといえるが、実際にはいないのではない。人材はいるが自分の会社には来てくれないというケースがほとんどであろう。会社は何時どうなるか分からない、給与もその人が今もらっているだけのものはとても払えない。それでは来てくれなくて当然と諦めてしまっている経営者がほとんどであろう。

しかし会社をより発展させようと思えばパートナーの確保は必須である。ではどうすればいいのか、これはもう経営者が夢と情熱を持って口説き落とす以外に方法はないであろう。

森永商店(森永西洋菓子製造所の通称)は知名度こそある程度ついたとはいえ、個人商店の域は出ていなかった。製菓業を近代的な産業にするという壮大な夢を実現するには良き女房役がどうしても必要であった。

そこで太一郎は2年前に知り合った松崎半三郎(まつざきはんざぶろう)という男を女房役に招き入れる。後に「森永の松崎か、松崎の森永か。森永は二人にして一人である」といわれるが、この松崎とコンビを組むことにより森永商店の本当の発展が始まった。恐らく松崎がいなければ、太一郎が東洋の製菓王となることはなかったであろう。

しかし松崎は貿易商を営んでいたのだが、直ぐに森永商店に来てくれたわけではなかった。太一郎が夢と情熱を持って口説き落としたのだ。またこの口説き方が凄かった。

松崎は立教学院(立教大学の前身)を卒業すると貿易商に勤務した後、独立して自分で貿易商を営んでいた。その取扱う商品は、オルガン、ピアノの部品のほか菓子、チョコレートの原材料の輸入品などで、それらを森永商店に納入するようになり知り合った。

太一郎より年齢は9歳下だが、取引を通じて彼の能力を高く評価していた。特に営業面では極めて優れていた。

何よりも松崎も熱心なクリスチャンであったことから強い親近感を覚え、松崎が資金繰りに困っている時は、無利子無証人で融通したこともあった。5千円という大金を貸したこともあったが、松崎は返済期限を必ず守った。
「あの男なら間違いはない。女房役になってもらおう」そう心に決めると、即、松崎を料理屋に招いて、ずばり切り出した。「松崎さん、うちに来て私の片腕になってください」「え?」よほど意外だったのか松崎は眼をパチパチさせて驚きの表情をした。

「私はね、アメリカで12年間も菓子造りの修行を積み、この仕事には絶対の自信を持っています。でも営業の方は、なかなかうまくいかないのです。私は栄養の富む菓子を安い値段で日本人に提供したい。さらに海外に輸出したい。これが私の夢なのです。どうか、松崎さん、うちに来て営業をやってください」太一郎は熱心に自分の思いを打ち明けた。
しかし松崎は「森永さんの夢は、よく分かりました。でも私は貿易商で身を立てたいのです。せっかくの申し出ですが断らせていただきます。悪く思わないでください」「悪く思うなんて、とんでもない」太一郎は深い失望を隠しながら「どうかゆっくり検討されて、その気になったら、よろしく頼みます。私の方は、いつでも大歓迎です」と将来に含みを残してこの日は別れた。

それからも太一郎は折に触れ幾度も松崎を誘ってみるが、その度に丁重に断られた。松崎に初めて自分の思いを打ち明けてから2年半が経つが、断られても、断られても松崎を必要とする気持は強まるばかりであった。

そこで太一郎は奇襲戦法に出ることを決意する。今年こそは松崎を招き入れようと、1905年(明治38年)の1月1日の早朝4時である。夜明けを待たず築地にある松崎家へ人力車を走らせた。今度は松崎が承諾するまで粘るぞと腹を固めていた。

松崎の家のドアを叩いた。「どなたですか・・・」松崎の眠そうな声が聞こえた。「森永です」「森永さん?ちょっと待ってください」松崎が戸を開けると「明けましておめでとうございます」と紋付羽織袴姿で挨拶を述べた。松崎は驚いて「おめでとうございます。こんなに早く、一体どうなさったのですか。とにかく中に入ってください」太一郎は玄関脇の応接間に通され二人は対面した。

「私はね。新年に当たりあなたを迎えることに決めました。是非ともうちに来て片腕になってください」と太一郎は切り出す。「弱りましたね・・・」松崎は困惑の表情を浮かべる。
「お蔭さまで、森永の西洋菓子も少しは世間に知られるようになりました。しかし私一人の力では限界があります。これ以上の発展を望むならば、あなたの力が必要です。私の技術と、あなたの営業能力を合わせれば、それこそ鬼に金棒です。松崎さん、私と二人で日本の洋菓子業界をリードしましょう。どうしても貴方に承諾していただきたく、非礼を垣間見ず押しかけて来ました。お願いします」太一郎は畳に両手を突いて深々と頭を下げた。
「うーん」唸り声を漏らした松崎は「これほど熱心にお誘いいただいて、光栄に思います。しかしこのことは人生の一大事なので、妻とも相談しなければなりません。今夜まで考えさせてください」と言った。「分かりました。今夜の何時にお伺いしたらいいですか」「今夜7時に、私の方から森永さんのお宅へ参ります」「では、吉報をお待ちしております。朝早くから失礼しました」席を立ち、太一郎は松崎家を後にした。

松崎は独立精神旺盛な人物なだけに果たして自分の下で働いてくれるか不安と期待のうちに夜を迎えた。夜7時前に松崎が森永家に現れた。

「今朝ほどの件はどうでしょう」と太一郎は単刀直入に聞いた。「はい。その件ですが、私の出す3つの条件を受け入れてくだされば、喜んで働かせていただきます」「どんな条件ですか?」松崎は太一郎を直視したまま、淡々とした口調で述べる「第一に森永さんは製造に専念し、私は営業を担当する。第二に現在のような個人商店では、発展に限度があるので、なるべく早く株式組織にする。第三に必要な人は人物本位で採用する。森永さんの夢を実現させるためには、この3つが絶対に必要という結論に至りましたのであえて条件にさせていただきました」

無論これらの条件は森永にとって異論は全くなかった。一つ目の条件は自分が製造に専念して営業を松崎に任せることはもともとの希望である。二つ目の条件は個人商店の限界と弊害は、日々それを実感していたので直ぐにでも実現させたいことである。3つ目の条件もとりあえず郷里の人を中心に従業員となる人を呼び寄せていたが、人物本位の積極的な採用はしていなかった。

一呼吸おいてから太一郎は「松崎さん、あなたの3つの条件は全て受け入れますからうちに来て頑張ってください」「はい、ベストを尽くします」そして41歳の創業者と32歳の貿易商人は互いに眼を見つめ合ったまま固い握手を交わした。

この瞬間、史上最強のクリスチャンコンビが誕生する。太一郎は六尺(約181センチ)、松崎は5尺2寸(約157センチ)と凸凹コンビであったが、二人はとにかくウマがあった。この二人のコンビが日本の菓子業界の近代化をリードしていくことになるのだから、日本にとっても、二人がコンビを組んでくれたことは好運であったといえるだろう。

太一郎がしたくても出来なかっこと、不得手なことは全て松崎が実現していき、東洋の製菓王への階段を一気に駆け上がっていく。

ちなみに後に松崎は太一郎の後をついで森永製菓の2代目の社長となるが孫の昭雄も森永製菓に入社して5代目の社長となる。この松崎昭雄の娘、昭恵が安部晋三元総理の夫人である。

三顧の礼を尽くして森永商店の支配人に招き入れた松崎半三郎(まつざきはんざぶろう)の働きぶりは群を抜いていた。支配人として、営業と経理を担当する傍ら時間を見つけては製品の荷造りや発送の仕事にも加わった。業務の全てに通じるために現場で汗を流し、店員との人間関係にも気を配った。

そうしているうちにまず気付いたことが、原材料をアメリカから直輸入した方が安く製品コストを下げられるということであった。松崎は太一郎に「アメリカから直輸入しましょう」と提案する。「それは私も考えていたことであるが、そこまで手が回っていなかった。
万事あなたに任せますので進めてください」

さっそく松崎は正金銀行東京支店(旧東京銀行の前身)を訪ねて5千円の信用状の開設を申し入れるが、何の実績もない森永商店は相手にされず冷たく断られる。

しかしそれで諦める松崎ではない。何度も通い続け森永商店の将来性を力説することでなんとか一割の積立金で5千円の信用状を開設することに成功する。

こうして砂糖や飴の輸入をはじめ、それが増えるにつれてクレジットも一万円、二万円と増額されたため、原材料は二割安で仕入れることが出来るようになった。太一郎が喜んだのはいうまでもない。

また、芝田町に新工場を建て最新鋭の機械、キャラメルの伸展機、切断機、乾燥物のデポジター、プリンターなどを据え付けた。太一郎が「この手動式は能率が悪いので、自動式に換えたい」といえば、貿易業務に精通している松崎は欧米の新鋭機械のカタログを取り寄せその中から選ばせるなどは朝飯まえで、太一郎の思っていることを松崎はどんどん形にしていく。
 
また、経営者以上の働きをすることもあった。 
1910年(明治43年)が明けてまもない日曜日の昼に芝田町の工場内の自宅でくつろいでいた太一郎のところに突如珍客が現れた。北浜銀行の岩下清周(いわしたせいしゅう)頭取である。何の前触れもなく馬車でかけつけてきた。岩下とは面識はなかったが当時、関西財界のドンであったので存在は知っていた。

岩下は信州松代藩士の家で生まれ、東京商法講習所(一橋大学の前身)を卒業後、三井物産に入社。のちに三井銀行に転じ、大阪支店長、横浜支店長を経て財界の有力者を募って北浜銀行を創立した。衆議院議員も兼ね金融界に絶大な影響力を持っていた。
三井銀行大阪支店長時代に行員に小林一三(阪急グループの創業者)がいたが、小林は銀行員時代はダメサラリーマン、万年平社員と揶揄され出来の悪い社員とみられていたが、唯一小林の才能を見抜いていたのが岩下で小林が独立する時に支援している。

また、岩下は小林以外にも豊田佐吉(トヨタグループの創業者)や大林芳五郎(大林組の創業者)などのベンチャー企業家を支援したことでも知られる。

そんな岩下は洋菓子の将来性に着目して太一郎のところへ来たのであったが、太一郎は先年、北浜銀行堀留支店から借り入れはしたが、交渉相手は支店長であったので、岩下頭取の突然の来訪に困惑しながらも応接間に案内をした。

岩下は菓子業界のことを幾つか質問した後「あなたなら間違いのない人だから、子供のために貯えた金が少しあるのでご入用ならそれをお貸ししてもいいですよ」と言って退席し森永家を後にした。

資金繰りに苦労していた太一郎にはまさに渡りに船であった。翌日、喜んで松崎と二人で紀尾井町の岩下邸を訪ねて早速融資のお願いをした。しかしここで一騒動が起きる。

「昨日の件ですがよろしくお願いします。」「よろしい。いかほど必要か」「差し当たり五万円ほど用立ててほしい」しかし岩下の返答は意にそぐわないものであった。「結構だが、利息は3割にしたい」意外な高利に、太一郎と松崎は顔を見合わせた。

岩下が冷酷に言い放った「森永商店に将来性はあるが、まだまだ危なっかしい。一割二分や一割五分の利息なら確実な担保を取って、森永商店より堅実な会社に貸すよ」

これには太一郎は激昂した「岩下さん、いつから貴方は高利貸しになったのですか」「生意気をいうな。菓子職人の分際で」「生意気で結構。私が菓子職人なら、あなたは高利貸しだ」と「黙れ」「黙りません」。二人は立ちあがり、岩下の右手が胸倉に伸びた。そこへ松崎が「まあ、まあお二人ともここは落ち着いてください」と間に入り掴み合いの喧嘩には至らなかった。

岩下も元々、太一郎以上の激情化で若い頃にこんなエピソードがある。三井物産の本社員に採用され、横浜支店に配属されたのは22歳の時であった。支店長の馬越恭平(まごしきょうへい)と大喧嘩をしたことがある。ある時、馬越支店長に為替業務を命じられたが、その内容に納得がいかず言い返し口論となった。馬越は「何を生意気申すか」とカットなり怒鳴りつけ手にしたソロバンで岩下の頭を 殴ってしまった。岩下は無念の形相でその場は我慢して命令に従った。

しかしその夜、岩下は馬越の自宅を訪ねた。信州松代藩の後裔というプライドがそうさせたのか、皆の前で、ソロバンで殴られたことが余程腹に据えかねたのだろう。懐には先祖伝来の短刀を忍ばせていた。

馬越に謝罪を迫った。岩下の殺気立った顔と短刀を見て、これはただならぬと思った馬越が謝罪することで岩下をなんとかおさめて一件落着となった。

ちなみにこの馬越は後に大阪麦酒(アサヒの前身)と日本麦酒(エビスビールの前身)と札幌麦酒(サッポロビールの前身)を合併させて社長に就任しビール王といわれる人物である。
 
松崎が間に入り掴み合いの喧嘩にはならなかったものの太一郎は「私は帰る。こんな人と同席していたら、この身が汚れてしまいます」と捨て台詞を吐いて退席してしまった。
その後もどうにも太一郎は岩下邸を訪ねて和解する気にはなれなかった。

正後過ぎに松崎が工場に戻ってきたので「あれから、どうなった?」と聞いてみた。すると「はい。岩下さんから融資をしていただくことになりました」「えっ、本当ですか」太一郎は半信半疑でさらに話しを聞いた。太一郎が辞去した後、松崎は丁重に岩下に詫びを入れ、なんとか岩下もご機嫌を直してくれて和やかな雰囲気になった。その結果、岩下個人が森永商店に一割二分の利息で五万円を貸してくれることになって、その額面の小切手も受け取った。

「そりゃ、御苦労様でした」太一郎は松崎の労をねぎらいながら改めて支配人に迎えたことは間違いなかったと確信した。ここでも松崎に助けられることになるが、実質的な経営者といえるほどの活躍である。ここが「「森永の松崎か、松崎の森永か。森永は二人にして一人である」といわれる所以であろう。

次の日曜日に太一郎は岩下邸を訪ねて謝罪と感謝を述べた。二人とも爆発した後はカラリとするタイプで「私が悪かった。貴方が怒るのは当然だ。お互いにこないだのことは水に流しましょう」そして二人は固い握手を交わした。

すると岩下頭取が切り出した「ところで、森永さん、そろそろ森永商店を株式組織にすべきですな」「はい、そのことでも是非とも、相談に乗っていただきたいと思います」株式組織にすることは、松崎を支配人に迎えるにあたっての条件の一つで太一郎に異存はなかった。

そして明治43年2月23日に、岩下清周議長の下に創立総会が開かれ株式会社森永商店が誕生する。松崎を支配人に迎えた頃は20人若だった従業員は150人を超えていた。太一郎は白い作業着姿で、粉まみれになって働くことには変わりなかったが、これを機に「人物本位」の大卒者の採用も積極的に行っていく。 

1921年大正元年11月には株式会社森永商店を森永製菓株式会社に改称する。大量生産によるコストダウンが可能となり既に菓子業界では初めての輸出は行っていたが、さらに太一郎は外国販売部を新設して、輸出に本腰を入れる。自ら朝鮮(韓国)、満州(中国北東部)、中国へ行き丹念に市場調査を行った。京城では露店商人らに伍して戸板の上に森永の菓子を並べて売りさばき、若い社員にお手本を示し下地を作っていく。太一郎はアジアへの輸出も軌道に乗せ、森永製菓は世界に羽ばたいていく。

1915年(大正4年)に太一郎はアメリカに視察旅行に出かけた。そこで開催中の全米菓子業者大会に出席することになった。かつてはこの国の家庭や工場で「ジャップ」と侮辱され続けた太一郎であったが、今や「東洋の製菓王」と紹介され挨拶する機会を与えられるまでになっていた。設立してからわずか16年目のことであった。

1920年(大正9年)には従業員も1300人を超える。1921年(大正10年)には本社を田町の工場内から「東洋一のオフィスビル」と銘打たれ、完成したばかりの丸ノ内ビルヂンングへ移転させ本社機構を移した。
 
本社を丸の内に移して2年後の1923年(大正12年)9月1日正午前に関東大震災に遭遇する。この時の森永、松崎のクリスチャンコンビの活躍が凄かった。

太一郎は丸ビルで重役会を終え、雑談をしているときであった。壁時計が正午を指そうとした時に突然、床が大きく揺れた。「地震だ」向かいの郵船ビルが波打つように揺れるのが見える。天井の電灯がぶつかり合い、砕けたガラスが降ってくる。一同はみなデスクの下に潜り込んだ。しばらくして揺れが収まると太一郎は社長室を出た「これはただごとではない」。そのまま車を芝田町の工場へ走らせた。工場には女子社員が多いが彼女らの安否が気になった。幸いなことに、工場長の報告によると、建物と機械に軽い損傷の被害はあるが従業員は無事だという。そして従業員は直ぐに帰るように指示を出した。

まもなく松崎も芝工場にかけつけて来て二人で無事を喜びあった。「松崎さん、ご苦労ですが、あなたは大崎工場とお得意さんの様子を見てください」「分かりました」そしてその次に出た太一郎の言葉が「この地震の被害は甚大になるはずです。私たちは全力を挙げて、被災者を救わねばなりません。」「おっしゃる通りです」。

私は企業理念が本物であるかどうかは緊急事態時でとるときの行動で分かると書き出しで述べたが、森永製菓は「事業と公益との融合を以って一大指標とす」を企業理念に設立されたが、二人にはこの震災被害にこれからどう行動すべきかなど確認する必要などなかった。キリスト教的精神からも普段から実践している企業理念からもきているのだろう。この二人に頭の中には「被災者を救う」ことで一致しておりそれ以外のことは考えていなかった。

森永製菓は本社、工場とも無傷に近かった。森永、松崎のクリスチャンコンビはそのことを神に感謝した。そしてその夜は工場に泊まり込みで被災者救済の方法を検討する。まずは、ビスケットとコンデンスミルクを寄付することを決めた。

翌日、招集された女子社員は流れ作業で、ビスケットをキャンデーの袋に詰めて6万袋を作り、ミルクキャラメル10万箱をトラック8台に積んで、芝公園と日比谷公園へ運び、そこで避難してきたに人達に配った。

深川の清澄公園では、ドーナッツを配った。また、工場の前に竹の矢来を作って、一人ずつ通れるようにして、井戸水でコンデンスミルクを溶かし通行人に一杯ずつ配った。これは一日で5万人分にもなった。

そして太一郎は、被災者の母親たちにドライミルクを配る陣頭指揮をとる。ある社員が配るミルクの量を減らしたのを見て「どうして減らすんだ」と詰問する。その社員は長蛇の列を指して「これだけ大勢の人を定量通りに差し上げると、足りないと判断したからです」と答えた。その瞬間、太一郎の雷が落ちた「何を言うか。発表した定量を減らしたら、皆さんは、森永は嘘をついたと思われる。なによりもがっかりさせるだろう。足りなくなったら、私に報告するんだ。どんなことをしても都合するから、小賢しいソロバンを弾かずに、どんどん差し上げるんだ」
 
3日には、太一郎と松崎は後藤新平内務大臣を訪れ、「5万円を寄付しますので、その分だけ政府の米を出してください。私達の方で被災者に配りますので」と申し出ると即座に快諾を得た。社員を街頭に派遣し5合マスで計らせて被災者に配らせた。8日まで続けられその量は76石8斗にもなった。

これだけでは終わらない。7日の東京日日新聞と報知新聞には広告も出した。内容は「乳呑子(ちのみご)または病人でお困りのお方へ 森永ミルクを差し上げますから、ご遠慮なくおいでください」である。また、三島の煉乳工場では、徒歩で関西方面へ向かう被災者にミルクを無償で配った。

その間、太一郎と松崎は玄米の握り飯に梅干し、たくあんという粗末な食事で陣頭指揮をとり続けた。森永製菓では神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨の5県に計2万円寄付している。
太一郎、松崎コンビの関東大震災時の行動にはあっぱれである

太一郎は昭和10年に社長を松崎に譲り昭和12年9月24日、73歳で波乱万丈な人生に幕を閉じた。

幼い頃に父親と死に分かれ、母親とは生き別れとなり少年期は親戚の家を転々とさせられてろくに学校も通えなかった太一郎であったが、日本の菓子業界では初の輸出を成功させ、菓子業の近代化のパイオニアとしてその名を歴史に残した立志伝中の人物である。太一郎が死ぬ間際に息子を病室の枕元に呼んで語った最後の言葉が「困っている人がいたら助けてあげなさい」であった。何か彼の人生、生きざまを象徴するような言葉である。


文責 田宮 卓


参考文献
加来耕三 「日本経営者列伝」 人物文庫 学陽書房
小島直記 「鬼才縦横 小林一三の生涯上巻」PHP文庫
吉田伊佐夫「われ、官を恃まず」産経新聞社
日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人Ⅱ」 日経ビジネス文庫
若山三郎 「菓商 小説森永太一郎」徳間文庫 
青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社
  1. 2011/11/01(火) 16:04:36|
  2. 森永太一郎(森永製菓創業者)
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