偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

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井植歳男(三洋電機創業者)

井植歳男(いうえ・としお)略歴
1902年~1969年(明治35年~昭和44年)三洋電機(現パナソニック)創業者。兵庫県生まれ。大正6年浦村立小学校高等科を卒業して義兄松下幸之助が創業した松下電器(現パナソニック)に入社。昭和10年同社専務。昭和21年松下電器を退社して、翌年三洋電機を設立。昭和43年会長。66歳で没。著書に「八千万人の人生経営」他。

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xlkcNu
井植歳男(三洋電機創業者)語録 http://bit.ly/qPe1qb
三洋電機誕生秘話 http://bit.ly/Acge1S





井植歳男の知られざる秘話

平成23年10月31日
題名:「世界を股にかける男」




「イギリス人は七つの海を制して、大西洋をわが庭としたというが、自分の夢は、さしずめ、太平洋のかなたに向かって、大きな虹の橋をかけることだ」

この言葉は兵隊検査で久しぶりに故郷の淡路島(兵庫県)に帰った三洋電機(平成21年にパナソニックの子会社となる)の創業者、井植歳男(いうえとしお)の20歳の時の感慨である。私はこの井植の世界を股にかけて活躍しようという気概が何よりも好きだ。それも日本が経済大国となるはるか昔に描いた夢である。

井植は松下幸之助の義理の弟であるが、幸之助に関する本は山ほどあるのに対して井植に関する本となるとほとんどない。だが、関東の日立、東芝の重機メーカーに対して、関西は松下、シャープ、三洋が家電一本で事業展開をしてきた関西の家電御三家である。三洋も御三家の一社に名を連ねる。つまり井植歳男も松下幸之助や早川徳治(シャープの創業者)と並ぶ戦後の家電業界を牽引した列記としたパイオニアには違いないのである。

井植は淡路島の生まれで、父親が船乗りであったことから初めは船乗りを志していた。13歳の時に父親が急性腹膜炎で亡くなり、高等小学校を出るとすぐに船に乗った。ところがその船が、たまたま大阪の安倍川で倉庫の爆発に遭い、井植は命からがら陸岸めざして油っぽい海を泳いで命拾いするという経験をする。そんないきさつがあり、こんどは姉の嫁ぎ先である松下幸之助の仕事を手伝うことになった。船乗りになるつもりが、河童(カッパ)が陸に上がった形で電気器具をつくることになったのだ。以来、50数年間、電機産業一筋で突き進むことになる。戦後は義兄の幸之助と別れて三洋電機を創業する。 

三洋を創業した時は、まだ敗戦の傷跡が残り、食糧不足、物不足で日本中が生きることだけで精一杯の時である。井植は松下電器時代からの借金があり、実質的にはゼロからのスタートではなくマイナスからのスタートだったといっていいだろう。わずか20名の出発であったが、その時の井植の社員の前での訓示がふるっている。明確に世界を意識しているのだが、恐らく社員の半分は夢物語にしか思わなかっただろう。

「本日、ここに三洋電機製作所北条工場を創業する。総勢20名で出発する工場であるが、われわれの前途は大きい。ここで製造する発電ランプは、近い将来、200万個売れる。いまや世界の人口は27億人、そのうち自転車常用者は約10億人、その人達の半分にわれわれの発電ランプをつかってもらうつもりだ・・・」

「ええか、敗戦呆けから一刻も早く立ち直ることや。それには島国根性を捨てないかん。三洋は、これから世界一の発電ランプメーカーになるんやという自信をまず持たないかん・・・」

そして世界を股にかけて商売をしようと名前を三洋とネーミングした。三洋とは太平洋、大西洋、インド洋のこと。世界を販路にしようという思いが込められている。

海は世界に繋がっている。海の男というのは小さい頃から自然とそのことを意識しているのだろう。実は淡路島出身の実業家は井植以外にも、もう一人いる。ワールドの創業者、畑崎廣敏である。ワールドという社名もやはり世界的な企業にしようという思いでネーミングしたものである。

3月の東日本大震災で、親が漁師であったので小さい頃から自分も漁師になるつもりだったのが、余儀なく方向転換をした若者や、方向転換を迫られている若者が多くいるときく。

井植も船乗りになるつもりが全く畑違いの電気器具に携わることになった。私はきっと東北の地からも井植のように世界を股にかけて活躍する人材が出てくると確信する。

また、これから少子高齢化、円高と様々な要因から国内だけで商売をしている企業は存続が難しくなるだろう。

野田総理もTPP参加と腹を固めているようだ。恐らく日本もTPPに参加することになるであろう。これからいよいよ農家もビジネスマンも皆、世界に目を向けなければいけない時代となるであろう。



文責 田宮 卓
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  1. 2011/10/30(日) 16:09:39|
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中上川彦次郎(三井銀行改革者)

中上川彦次郎(なかみがわ・ひこじろう)略歴
1854年~1901年(安政元年~明治34年)三井銀行改革者。豊前国中津(ぶぜんのくになかつ)(現在の大分県中津市)に、藩の勘定役であった才蔵(さいぞう)を父に、同藩士福沢百介(ふくざわももすけ)の娘(福沢諭吉の姉)を母として生まれた。福沢諭吉は叔父にあたる。慶応義塾卒。中津市学校の教員、伊予宇和島の洋学会社の教員を歴任。イギリス留学、官職を経て、時事新報、山陽鉄道各社長。1891年(明治24年) 三井入り。三井財閥の近代化と工業化路線を推進した。業半ばにして47歳で死去。

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中上川彦次郎(三井銀行改革者)語録 http://bit.ly/yscihM




中上川彦次郎の知られざる秘話

平成22年11月12日
題名:「政治家に媚びない明治の大物実業家」
 




ひと昔前の財界人は政治家に対してもよく物を申したものである。特に財界総理の異名をもつ歴代の経団連会長は第2代会長の石坂泰三(いしざかたいぞう)(第一生命、東芝社長)にしろ、第4代会長の土光敏夫(どこおとしお)(東芝社長)にしろ、相手が総理大臣であろうと、大臣であろうと筋の通らぬ話や、手抜きと思われる言動に対しては一喝することがよくあったという。当時、経済企画庁長官として土光会長と接触していた福田赳夫(ふくだたけお)(後に首相)にいたっては「私は土光さんに怒鳴られっ放しだった。土光さんではなくて怒号さんだ」と言ったほどである。なかなか昨今、政治家に対して一喝するくらいの気魄や度量をもった大物財界人はいないかもしれない。逆に協調性があるといえばそういう見方も出来なくはないかもしれない。どちらがいいかはさておき、さらに昔、官尊民非の風潮が今とは比べものにならないぐらい蔓延(まんえん)していた明治の時代、政治家や政府高官に媚びることで仕事を貰うのが当たりまえであった。そんな時代に政治家に対して媚びないどころか、一喝するなどそんなことは「ナマやさしい」と言わんばかりの型破りな態度をとった大物実業家がいた。その男は三井財閥の改革者、中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)である。

1891年(明治24年)、当時日本最大であった三井組と三井銀行は保守退嬰(ほしゅたいえい)化し、経営破綻寸前の状態に追い込まれていた。政治家や政府高官らと癒着しすぎた結果、巨額の不良貸付を発生させ身動きがとれないでいたのだ。三井家の最高顧問であった井上馨(いのうえかおる)はなんとか事態を打開しようと三井の大改革をする人間を探してきた。その男が中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)であった。中上川は当時37歳。福沢諭吉の甥で1854年(安政元年)生まれ。慶応義塾に学んだ後ロンドンに留学。帰国後、役人として活躍した後「時事新報」の社長兼編集長として名をあげ、さらに1887年(明治20年)山陽電鉄社長に転じ、近代的経営で経営再建に取り組むという経歴の持ち主であった。

中上川は剛毅そのものの性格で知られていた。井上の推挙の理由が「三井の如き大伽藍(だいがらん)の掃除を出来る男は、中上川をおいていない」というものであった。井上の推挙により三井銀行入りした中上川のその掃除の仕方は徹底していた。「三井の近代化は政府高官らと癒着を断ち切ることから始めねばならない」

まずは陸軍きっての実力者、桂太郎(かつらたろう)(後に首相)、さらに松方正義公爵(後に首相)の実兄などに貸金の返済を要求。回収不能とみるや、なんと邸宅を差し押さえて処分するという強硬策を断行する。また山高帽をかぶったお髭の紳士が三井銀行京都支店に「支店長はおるかね」とやってきた。時の内閣総理大臣伊藤博文の秘書官であった。秘書官は旅費がすこし不足したので5百円ほど用立ててほしいと言ってきた。「さては女好きの伊藤が、祇園(ぎおん)の女にでも使うのだな」と察した支店長は、中上川体制になってからは、こういう類の貸金は一切出来なくなっていたのでまずは担保を要求した。「なに担保だと・・・伊藤閣下の御用命だぞ」「でも規則でございますので」「何が規則だ。これまでそんなことを申した支店長は一人もおらんぞ」「新規則によりまして、このままでは残念ながらお貸しできません」「おのれ、なんたる無礼を」捨て台詞を残して秘書官は立ち去った。こうして三井銀行の経営状態は持ち直していったが、さすがの井上も「たかだか5百円で総理に恥をかかすとは何事か」と怒ったという。 
 
文責 田宮 卓

参考文献
邦光史郎 「起業家列伝」 徳間文庫
邦光史郎 「豪商物語」 徳間文庫
青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社
  1. 2011/10/11(火) 12:32:08|
  2. その他
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松下幸之助

松下幸之助(まつした・こうのすけ)略歴
1894年~1989年(明治27年~平成元年)松下電器(現・パナソニック)創業者。和歌山県生まれ。小学校4年で、家庭の事情で学業を断念し大阪の火鉢店で丁稚奉公。大正6年大阪電灯を退職し独立。昭和5年ラジオの生産・販売開始。昭和10年株式会社に改組。松下電器産業発足。一代で世界的な総合家電メーカーに育て上げ経営の神様と言われる。94歳没。

関連サイト
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松下幸之助俯瞰情報インデックス http://bit.ly/wFgtPD
松下幸之助(語録集)
■政治編 http://bit.ly/oL2axG
■逆境編 http://bit.ly/oO0kre





松下幸之助の知られざる逸話

平成23年10月1日
題名:「松下電器は何故世界の松下になれたのか」全3話



昔日本に三井、三菱財閥に肩を並べるほどの企業群をたった一代で築き上げた怪物経営者が二人いた。スケールの大きさで彼らに敵う者は恐らくいないであろう。彼らとは日産、日立グループ(日産コンツェルン)の創業者、鮎川義介(あゆかわよしすけ)と神戸の総合商社鈴木商店の大番頭、金子直吉(かねこなおきち)の二人である。

鈴木商店は昭和2年の昭和恐慌のあおりを受けて倒産しているので、今、その名を知っている人はほとんどいないと思うが、神戸製鋼所、帝人、日商岩井(現双日)、豊年製油(現J-オイルミルズ)、石川島播磨(現IHI)、クロード式窒素工業(現三井化学)、帝国麦酒(現サッポロビール)等は元々鈴木商店の関連する会社であり、全て金子が種を蒔き手掛けた事業である。戦前の一時であるが、日産コンツェルンも鈴木商店も売り上げ規模で三井、三菱を抜いたことがあった。

鮎川も金子も一代でこれだけの企業群を築いたことは紛れもない事実であるが、何もないところからスタートしたかといえば必ずしもそうではない。鮎川は大叔父に明治の元勲井上馨(いのうえかおる)を持ち、「将来お前は技術畑に進み、エンジニアになれ」と勧められ、東京帝国大学(現東京大学)の機械工学科に進学した。一番初めに手掛けた事業が日立金属の前身となる戸畑鋳物(とばたいもの)の設立であったが、井上に資金的な面でも工面してもらっている。鮎川は創業者ではあるが血縁的には非常に恵まれていた。

金子は鈴木商店に丁稚奉公で入り、初代店主が没すると大番頭に抜擢され、鈴木商店を三井、三菱に並ぶ巨大企業グループへと発展させた。鮎川のように学歴や強力な血縁はなかったが、鈴木商店は既に神戸では地盤のある商店であったので、何もないところからのスタートではない。

では学歴も強力な血縁もなく文字通りゼロからのスタートで最も大きな企業を興した経営者は誰かといえば、やはり松下幸之助であろう。

幸之助は父親が米相場に手を出して失敗し、破産したため尋常小学校を4年で中退し9歳で丁稚奉公に出されることになった。20歳で、お見合いで結婚(妻むめの)し、大正6年22歳の時に勤めていた大阪電燈(現関西電力)を退職して独立した。この時には両親は既に亡くなっており、8人もいた兄姉のうち6人もが次々と病気を患い亡くしていた。幸之助にはもちろん田畑や土地など財産と名のつくものは皆無であった。

ソケットの製造販売をするために僅かな貯金で独立したのだが、工場などつくれるはずがない。夫婦二人で住んでいた借家の2畳と4畳半を、半分落として土間として工場へと変身させた。夜休むスペースも1畳しかない有り様であった。この状況を見て、後に世界の総合電気メーカーになるとは誰が想像できるであろうか。

学歴も血縁も財産も何もない文字通りゼロからのスタートである。幸之助が今もって人気があるのは正真正銘何もないところからスタートしたからではないかと思う。

では何故、幸之助は一代で世界的な大企業を創りあげることができたのか。私なりに次回3つの理由をあげてみたい。


第2話

松下幸之助は何故、裸一貫から世界に名だたる大企業を創りあげることができたのか、一つ目の理由は人を信じきったことだと思う。儲かるとは信じる者と書くが、このことは創業期から一貫していた。人を信じることは共存共栄の精神に通じ、そこには、自分だけ儲かればいい、自分だけ助かればいいという精神と対極に位置すると思う。このことをまず始めに他の人の体験談で説明してみよう。

戦後、流通革命で名を馳せたダイエーの創業者、中内功はフィリピンの戦場で九死に一生を得る経験をしている。戦場で雨水を飲み、ミミズやトカゲを食べ、飢えを凌ぐ日々が続いた。食糧を持っていると仲間に襲われる恐れがあり夜も寝むれない日が続く。仲間が自分を殺すのではないか、疲れ果てて眠っているうちに殺されるかもしれないという恐怖感に襲われたという。眠ったまま殺されるか、眠らずに発狂するかの選択肢しかない。そのどちらも避けるには、仲間を信頼して眠るしかない。殺されても食われてもいい。「人は一人では生きていけない。どんな状況でも生きるには人を信頼していくより方法がない」、そして中内は人を信じることにした。結果、中内は生きて帰国することが出来たが、生存者は部隊600人中、中内を含めてわずかに20人であった。人を信頼することが共存共栄の精神に通じ、自分だけ助かればいいということと対極にあるとはこういうことである。

話を幸之助に戻そう。松下電器(現パナソニック)は、創業時は幸之助と身内3人だけでスタートした。ソケットの製造販売で独立して、次に手がけたのがアタッチメントプラグという電気器具であったが、この製品がヒットした。製品をつくり始めてから非常に忙しくなり外の人を4、5人雇うことになったが、一つ問題がおこる。製品の原材料である煉物(ねりもの)の製法の秘密をどうするかということであった。当時の煉物の製法は、他のどの工場も秘密にしていた。工場の主人以外には、その主人の兄弟とか親戚など、限られた身内だけがその製法が知っていて、その製造作業を担当するのが当たりまえであった。

幸之助はいろいろ考えた結果、製法の秘密を新しく入った人にも適宜教えることにした。身内だけで製造作業をするのは限界がある。また外の人といっても同じ工場で働く仲間である。仲間同士でそういう姿を現して果たしてよいのか。同業者からは「そのやり方は非常に危険だ。今日入った者にまで製法の秘密を教えたのでは技術を他社にも公開するようなものだ」と言われた。しかし幸之助は「製法が秘密であることは従業員も知っているし、他にもらせば工場のマイナスになることも分かっている。だから、教えてもらってそれを他にもらすことはない」そう思い従業員を信頼し製法を教えて作業をやらせた。すると従業員はその信頼にこたえて秘密を守り、一生懸命働いてくれたという。この時に幸之助は、人は信頼されれば裏切らず期待にこたえようと一生懸命に働いてくれることを知ったという。この体験は幸之助の商売の原点ともなるものではないかと思う。この姿勢を幸之助は生涯変えることはなかった。人を信頼していなければ、個人商店の域を出ることもなかったかもしれないし、松下電器発展の歴史をみてもこの信頼する姿勢、共存共栄の精神が何度となく経営危機を乗り越え、さらなる発展の原動力になっていることが分かる。

昭和初期の金融恐慌は松下電器の経営も直撃した。幹部の多くがまわりの会社がそうするのと同じように、社員を半減して不況を乗り切る以外に方法はないと進言した。しかし幸之助は「一人たりとも、社員を解雇したらあかん。給与かて、全額支給や」との方針を示した。この決断には奥さんの「景気が悪いからといって、今まで住み込みで働いてくれた店員の首を切ることは絶対にいけません。それではあまりにも都合がよすぎます」(参孝下段http://t.co/aWvKaFL)という言葉があったともいわれる。これには社員はみな喜び感激した。そして、工場を半日勤務とし生産を半減させた。それでも給与は全額支給。その代わり土日、休日返上で、皆で在庫の販売を一丸となって行った。結果は2ヶ月で在庫の山は消え、それを契機に半日生産をフル生産に戻すことができた。やがてそれでも追いつかない程になった。この一件いらい幸之助への求心力は一気に高まった。また、幸之助は苦しくても仕入れ先を一方的に叩くことはしなかった。値下げをお願いする時は、仕入先の工場を見せてもらい、この点を改善すればもっと安く出来るのでないかと先方と一緒に検討し、十分得心してもらってから値下げをしてもらっている。ここでも共存共栄の精神があらわれている。

また共存共栄の精神で危機を乗りきった象徴的な話が昭和39年の不況時の、いわゆる熱海会談であろう。(熱海会談 http://bit.ly/mRZ7dJ)熱海会談をみても共存共栄の精神が創業以来の一貫した姿勢であることわかる。

そして人事面でも幸之助は人を信じて任せた。元より体が弱く病気がちだったので人に任せざるおえない状況があったことも事実であるが、任せることで会社は発展した。創業時は義理弟の井植歳男(後に三洋電機を創業)が幸之助の手足となって働いたことは知られている。松下電器の東京進出の土台をつくったのは井植であったが、井植が単身で東京に拠点を構えたのが若干19歳の時である。

また提携をする時も同じである。昭和27年、中川電機から提携の話が持ち込まれた、商談は僅か30分。中川社長を信頼に値する男と感じた幸之助は、工場も何も見ないで提携を承諾している。(中川電機との提携秘話http://bit.ly/pXLhZB

昭和28年、日本ビクターを引き受けた時に社長に据えたのが元海軍軍人の野村吉三郎である。幸之助は野村の人格を買って社長にしたが、世間は経営に素人の人間に何が出来るかと批判した。だが野村は日本ビクターを見事に再建した。(日本ビクター再建秘話 http://bit.ly/nytR5I)。

昭和53年に末席の役員だった山下俊彦を社長に抜擢したこともあった。(山下秘話 http://bit.ly/zbQQy9)当時は「山下跳び」「25段跳び」とマスコミは大騒ぎしたが、山下も見事に職責をはたした。そして松下電器の代名詞ともなった「事業部制」がある。事業部ごとに独立採算制にして権限も全て事業部に移譲するというものであるが、それでも責任の一切は全て社長の幸之助にあるというものである。こんな制度は人を信頼していなければ成りたつはずのない制度である。

松下幸之助が何故成功したかという本は山ほど出ているが、創業以来一貫していることは人を信頼し任せ、共存共栄の精神でやってきたことである。
2つ目、3つ目の理由は次回に述べたい。


第3話

松下幸之助は何故、裸一貫から世界に名だたる大企業を創りあげることができたのか、二つ目の理由は絶対的に信頼出来るパートナーに恵まれたことである。会社を起業してある程度の規模までは社長一人の力量で大きくすることが出来るが、大企業にするのは絶対に社長一人の力量では無理である。自分の分身となるような、あるいは不得手なところを全て補ってくれるようなパートナーの存在が必要である。このことは実はこのブログの第一回目 (http://bit.ly/y0Mhy6)で取り上げたのだが、今もってこの考えはいささかも変わらない。ソニーの創業者、井深大(いぶかまさる)には盛田昭夫というパートナーがいた。本田技研工業の創業者、本田宗一郎には藤沢武夫がいた。また森永製菓の創業者、森永太一郎には松崎昭雄というパートナーがいた。(http://bit.ly/yn5N3s)お読みいただいた方には、松崎なくして森永製菓が大企業になることがなかったことをお分かりいただけたと思う。それもパートナー経営者となる人とは絶対的な信頼関係で結ばれていることが条件となる。

以前、盛田昭夫の秘書をやっていた人に「盛田さんはどんな方でしたか?」と唐突な質問をしたことがある。すると「盛田さんはね、自分が世界でどんなに有名になろうが、井深さんの悪口を言う人がいたら身内だろうが誰であろうが絶対に許さなかった」という言葉が返ってきた。

本田宗一郎にいたっては、藤沢をパートナー経営者にしてからは、自分は開発に専念し、苦手な資金繰りや販売といった経営全般は全て藤沢に任せ、社長を退任するまで、ついぞ社長印を見たことは一度もなかったという。

では松下幸之助にもパートナー経営者となる人物がいたかとなると、意外と直ぐに名前が出てくる人は少ないかもしれないが、ちゃんといた。創業時は義理弟の井植歳男(いうえとしお)である。幸之助は体が弱く病気がちでもあったこともあり、井植が幸之助の分身となり指揮をとることも少なくなかった。松下電器(現・パナソニック)の東京進出の土台をつくったのも井植である。また昭和恐慌の煽りで経営危機に直面した時、幸之助は病気で西宮の自宅で静養していた。「一人たりとも、社員を解雇したらあかん。給与かて、全額支給や」と決断こそ幸之助がくだしたが、実際に陣頭指揮をとり会社の危機を乗り越えたのは井植であった。井植は戦後に松下電器を辞職して三洋電機(現・パナソニック子会社)を創業するが、井植にもやはり後藤清一という大番頭的存在のパートナーがおり、三洋電機を大企業にすることができた。

井植が去った後に幸之助が絶対的に信頼したのが高橋荒太郎という人物である。高橋はもともと朝日乾電池の常務を務めていたが、昭和11年、松下電器に吸収合併されると高橋も松下入りすることになった。高橋は得意の複式簿記による組織づくりを目指し、独自の「経営経理制度」を確立。株式会社に生まれ変わった松下電器の経理システムの近代化に大きく貢献した。幸之助を心から心酔し寝食を忘れて奉公したことから、幸之助イズムの伝道師とまで言われた。高橋は女婿の松下正治が社長に就任すると副社長となり今度は正治を支えた。松下家2代にわたり名番頭として松下電器を支えたことになる。井植と高橋がいなければ、やはり松下電器も大企業にはならなかったのではないかと思う。

そして最後に世界的な大企業になった3つ目の理由は何かといえば、業種が良かったことである。幸之助が最初に奉公したのは火鉢屋であった。幸之助のことだから火鉢屋をやっていたとしても恐らく日本一の火鉢屋になっていたと思う。次の奉公先は自転車屋であったが、恐らく自転車屋をやっていたとしても日本一の自転車屋になっていたであろう。では何故、世界の松下になれたのか?それは家電を選んだからにほかならないと思う。

全3話 完


文責 田宮 卓
  1. 2011/10/01(土) 14:31:56|
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