偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

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早川徳次

早川徳次(はやかわ・とくじ)略歴(プロフィール)
1893年~1980年(明治26年~昭和55年)シャープ創業者。東京・日本橋生まれ。二歳の時に養子に出され貧困の中で育った。丁稚奉公ののち、かざり職人として独立。大正4年、繰り出し鉛筆シャープペンシルを発明。関東大震災で全てを失い、大正13年大阪で早川金属工業研究所を設立して社長。昭和17年、早川電機工業に社名変更。昭和45年シャープに社名変更し会長。昭和51年、勲二等瑞宝章。86歳で没。著書に「私と事業」

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早川徳次(シャープ創業者)語録 http://bit.ly/w1iAEv




平成23年6月9日

早川徳次の知られざる秘話

題名:震災で全てを失いそこから世界的な大企業をつくり上げた男
 


「戦災でも焼けなかった資本がある。それはグリコという看板である。過去30年間営々として築き上げてきたわれわれ最大の資本である。」
グリコ 創業者 江崎利一(えざきりいち)

3月11日の東日本大震災は多くの人命を奪い、押し寄せた津波は一瞬のうちに東北の海岸沿いの街を幾つも呑み込んだ。家族を亡くした人、家を失くした人、職場を失くした人、工場を失くした人、中には命以外のあらゆる物を失くした人も少なくないであろう。どんなに立派な豪邸や美術品を持っていても地震や津波や火事などの天災がくれば一瞬のうちに失う。しかしどんな大災害に遭遇しようとも失わないものがある。それは「信用」である。それまでその人が培ってきた信用があるならば一早く立ちあがることが出来るであろう。どんな大災害もその人の「信用」まで奪うことが出来ない。

その象徴的の人物がシャープの創業者、早川徳次(はやかわとくじ、明治26年~昭和55年)である。何故なら彼は関東大震災で家族も工場も全てを失ったが自分を信用してくれる部下とともに一早く立ち上がり、世界的な大企業をつくり上げたからだ。

1950年(昭和25年)、前年のドッチライン(日本経済再建のための具体案)によってインフレ抑止策が実施され、不況が進行した。そのため商品が売れなくなり倒産する企業が後をたたなかった。シャープも売上高が前期に比べて45%減となりいよいよ資金繰りにも行き詰まった。創業者の早川徳次は遊休施設や不動産、個人の土地まで手放し対処して、いよいよ大詰めの銀行交渉となった。銀行は経営の合理化を図って再建するというのならば、もう一度融資をしてもいいという。588名の人員がいたがさらにその中から何人かの人員を整理しろというのだ。

早川はその時の気持ちを「私の履歴書」の中でこう語っている「しかし私に整理などできる話ではなかった。私は人員の整理をやるくらいなら、むしろ会社が閉ざされる方を選ぶであろう。会社がつぶれても従業員諸君と一連託生ならばもって瞑すべきではないか」

この早川の従業員を思いやる気持ちが伝わったのか社内の空気が変わり、「会社をつぶしてはいけない」という声が従業員から起こり「われわれ従業員側で自主的に希望退職者を募って、人員削減に役立てよう」、この痛切な社員の声は組合代表から会社に正式に申し出された。結局、退職者は210名になったが銀行の融資の道は開けシャープは再び発展することが出来た。

早川の人柄が現れるエピソードであるが、この男はとにかく人望の厚い男であった。技術力があったからシャープは世界的な家電メーカーになったといえるだろうが、それだけではない。早川がどの経営者よりも部下に慕われ信頼があったからこそここまで発展したといえる。そのことはシャープの創業のルーツをひも解けば見えてくるだろう。

早川徳次は1893年(明治26年)、日清戦争の起こる前年に東京の日本橋で生まれた。生家は枡屋(ますや)という袋物問屋であった。働きものの両親であったが過労がたたり父親も母親も相次いで病床の人となってしまった。

この時から早川は不遇の少年時代を過ごすことになる。3歳で養子に出されることになった。養子先は極貧だったうえ間もなく養母がいなくなる、そしてニ人目の継母が酷く早川を虐待した。新しい弟たちが生まれると食事をさせてもらえないことさえあったという。学校は小学校2年に上がったが退学させられる。そして内職にマッチはりを夜更けまでやらされることになった。こんな時に実家の両親が相次いで亡くなるがもちろん早川には何も知らされなかった。

9歳になると早川は錺屋(かざりや)店に丁稚奉公に出されるのだが、これが早川にとっての転機となった。錺屋とは、金属の簪(かんざし)などの細工物をつくる職人で、早川は金属加工の見習工として働くが、生まれつき手先が器用だったので仕事を覚えるのも早く機転も利いたので親方にもとても可愛がられた。その間、学校に通っていなかったがために字を読めなかったが、夜書物を開いて一晩一字ずつ覚えていった。これが評判になり本を読む夜店小僧といわれる程であった。

10年ほど働き一人前の錺職人となった早川は独立を考えはじめるようになる。当時ベルトは穴あき式だったが、穴あきでないベルトがあれば便利と思い、試行錯誤のすえバックルを考案。特許を取得して独立した。

早川20歳の時である。早川は後にシャープを創業してから日本初、世界初となる家電製品を次々につくり出したが、何か新しいものを生み出す才能は錺屋で技術を身につけることで芽生えたといえる。

錺屋で奉公したことが何よりも幸運であったといえるが、それに加えて早川にとっては人格形成をするうえでこの錺屋の親方との出会いは大きな影響を受けたようだ。

早川はこの親方との出会いを「私の履歴書」でこう語っている「主人の坂田芳松さんは昔気質のきっすいの江戸っ子で、人情にも厚い人であった。私は社会の第一歩で、こういう人にあったことは実に幸せなことで、ここで私は技術屋としての腕を磨くとともに、人の世の情けというものを授かったのだが、何物にもかえがたい収穫だった。逆境にあった私が、万一ここでも冷たいしうちをされていたら、はたしてどうであったろう。私は終生この主人から受けた情誼を忘れることはできない」

そして早川は独立する時、何よりもこの親方と別れるのが辛かったという。酒好きだった親方は早川のために杯を上げて独立を喜んでくれ酒がまわると「めでてえ、めでてえ」と何度も言いながら、鼻をつまらせた。親方夫婦には子供がいなかったのである。

早川は特許をとったバックルに「徳尾錠」(とくおじょう)という名をつけたが、便利さや新鮮さが受けて、やがて4千個まとまって注文が入ってきた。それからも早川は新しいものを次々と考案していく。水道自在器(水道のねじ)の新製品、万年筆のクリップや金輪など様々なものをつくり出した。そして早川徳次の名を世界に知らしめたのが「シャープ・ペンシル」の発明であった。鉛筆全盛の時代に世界に先駆けての発明であった。早川が23歳の時である。

当時のネーミングは早川式金属繰出鉛筆である。その合理性、新しさが人気を呼びまず評判になったのは外国においてで、横浜の貿易商館の一人が目をつけ輸出したところバカ受けした。国内でも売れはじめ人気が一層高まった。皇族、華族まで買ってくれるようになり前途羊々であった。利益金は全て設備投資にまわし工場も3つになり従業員も200名までになっていた。早川のシャープ・ペンシル事業は時代の波に乗って順調に発展しいく。

ところが1923年(大正12)年9月1日、午前11時58分、あの関東大震災がおこり一転全てを失うことになる。早川31歳の時であった。外へ出ていたが突然爆風にあったような激しい振動に襲われ、大波のゆれるような振動が起こった。早川は夢中で工場まで走り戻ったが、外はもう地獄のようなありさまである。倒壊した建物が道という道を塞ぎやがてあちらこちらから火の手があがった。3つの工場は全壊、妻と2人の息子も死に家族も亡くした。

関東大震災に出くわし全てを失った早川はそれまでいい気になって強がっていた鼻っ柱がいっぺんにどこかへ吹き飛んだ感じがしたという。見渡す限りあたりは廃墟である。文明は一瞬のうちに没落したように見えた。自分の事業復興の見通しはとうてい立ちそうもなく茫然自失するしかなかった。

悲劇はそれだけでは終わらない。無情にも取引先の大阪の日本文具製造が、シャープ・ペンシルが生産不能になったのだから特別契約金の一万円と融資していた事業拡張資金の一万円の合計二万円を「耳を揃えて即刻返済しろ」と矢の催促をしてきたのである。

返済できないと言うと先方は「それでは早川徳次の名義の特許48種を無償で使用させること。さらに当社の技術指導を6ヶ月間行うこと」という条件をつき出してきた。返済が出来ない早川はこの条件を呑むより他選択肢はなかった。失意のどん底で、単身で大阪に向かうことを決意すると、驚くことに若い14人の技術者たちがついてきた。「親方とどこまでも苦難をともにさせてください」と。全てを失い失意のドン底にあったが早川は感泣して再び力が湧いてきたという。この14人の信頼があれば再起出来る。再起して彼らに報いたいという気持が自身を奮いたたせた。

都落ちして日本文具製造の工場で、シャープ・ペンシルの企業秘密である製造秘密を伝授しながら6ヶ月間働き、1年後に大阪郊外の田辺で独立した。早川金属工業研究所(後に社名をシャープとする)の看板をかかげた。日本文具製造の契約期限がきたとき、早川は14名に向かって「きみたちは日本文具からは77円の月給をもらっている。早川金属工業にきても、その三分の二も支給してやれない。日本文具にとどまる方が賢明だよ」と言った。しかし14名は「苦難を共にします。親方がきっと素晴らしい発明をすると信じている」と言う。またしても早川は男泣きに泣いた。

シャープ・ペンシルの生産する特許権は奪われていたのだから文字通り無からのスタートであった。ペンシルはつくれない。そこで昔やった万年筆の付属金具やクリップの新型の物をつくって市内のメーカーの店に販売をして歩いた。
そうこうしているうちに間もなく早川にチャンスがやってくる。大阪の心斎橋にある時計店を訪ねた時だった。偶然にもそこに日本に初輸入された2台の米国製鉱石ラジオが到着した。飛びつくように財布をはたき1台を購入した。持ち帰って仲間と直ぐに分解に取り掛かる。

ラジオ放送が翌年開始することは決まっていたので電気器具商などがラジオの研究に乗り出したばかりであった。「事業を大きくするには新しい仕事を見つけ出すしかない、常に人より先を歩まねば」を信念にラジオ製造に没頭する。そして「国産ラジオ受信機第1号」が完成した。早川はこの鉱石式ラジオを「シャープ」と命名した。奪われたシャープ・ペンシルへの愛惜があったからにほかならない。

放送開始に合わせて市販すると飛ぶように売れた。事業が軌道にのっていく。しかし鉱石ラジオはさほど複雑ではなく、無線の知識があれば誰でもつくることが出来、つくれば売れる時代が続いた。そんななかで早川は真空管ラジオが登場するといち早く輸入品を手に入れて鉱石ラジオのときと同様に分解して研究を重ねた。

そして真空管ラジオを完成させ、売り出したのは1928年(昭和3年)であったが、その前年から起こった金融恐慌のため多くのラジオメーカーが倒産したが、早川はこの真空管ラジオを開発してたため危機を乗り越えることができた。

その後も早川は次々と新製品を開発していく。シャープは1951年( 昭和26年)他社にさきがけて国産初のテレビ第一号の試作に成功。NHKのテレビ放送がはじまる1ケ月前に、日本初のテレビ受信機を発売して成功を収めた。

その後、1960年(昭和35年)には初のカラーテレビを発売。さらに1962年(昭和37年)には日本初の電子レンジを発売した。続いて1964年(昭和39年)オールトランジスタ式の電卓を発売したがこれは世界初であった。

「初物の早川」と言われ「人に真似をされる商品づくり」をモットーに開拓者魂を発揮して早川はシャープを総合家電メーカーへと育てていった。

天災は忘れたころにやってくる。早川が関東大震災で全てを失ってもシャープという総合電気メーカーを築けたのは、それでも自分を信頼してついてきてくれた14名の部下がいたからこそであろう。

今後も日本にいるかぎり、いや地球上にいるかぎり天災を避けることは不可能である。しかし人からの「信頼」を培ってきた人は幾らでも復興が出来る。

以上

文責 田宮 卓

参考文献
青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社
小堺昭三 「人望 この人間的魅力を見よ!」三笠書房
日本経済新聞社 「私の履歴書 経済人6」日本経済新聞社
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岡野喜太郎(スルガ銀行創業者)

岡野喜太郎(おかの・きたろう)略歴(プロフィール)
1864年~1965年(元治元年~昭和40年)現・スルガ銀行創業者。静岡県生まれ。豆陽中学師範科中退。1887年、貯蓄組合共同社設立。1895年、根方銀行を設立し頭取に就任。1912年、駿河銀行(現・スルガ銀行)頭取。93歳で長男に頭取の座を譲り渡して会長に退くまで銀行頭取在位62年間の大レコード記録をつくる。101歳で没。

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岡野喜太郎(スルガ銀行創業者)語録 http://bit.ly/oJNlB0



題名:「備えあれば憂いなし」

 
「銀行の甲乙は平常の時にはなかなかつきにくいが、非常の場合にはっきりその差が分かるものである」岡野喜太郎(スルガ銀行創業者)

地震や天災とは何時の時代も忘れた頃にやってくる。今回の東日本大震災の前にも都市部を襲った大地震だけでも、今から16年前の1995年(平成7年)は阪神淡路大震災(死者行方不明者6000名以上)、88年前の1923年(大正12年)は関東大震災(死者行方不明者14万人以上)、156年前の安政2年(1955年)は安政江戸大地震(死者行方不明者推定数万人)と150年の間に今回の東日本大震災も含めると4度も起きている。

今後も30年か40年の間に大都市を襲う大地震が来る可能性は大いにある、それも忘れた頃にやってくる。しかし大震災に遭遇 してから慌てふためいても手遅れである。特に会社を経営している人であれば従業員の生活も守らなければいけないので責任は重大である。

ではどうすればいいのか、それは何時遭遇するか分からい震災に対して普段から備えるより方法はない。これをしている企業は一早く復興することが出来る。その典型が静岡県沼津市に本社を置く地方銀行のスルガ銀行である。

スルガ銀行は静岡県と神奈川県を地盤とする地方銀行(本社沼津市)であるが、そのルーツは災害と大きくかかわりがある。

1884年(明治17年)9月15日、駿河地方を未曾有の暴風雨が襲った。鷹根村(現沼津市)は甚大な損害をうけ水田はまるで海水を被ったようになりたちまち枯れてしまった。収穫は皆無、折からの全国的な経済不況もあって、ただでさえ貧しい農村は飢饉地獄に追い込まれた。見渡す限り田畑にネズミ一匹いない惨状であった。いつ餓死してもおかしくない状況に村人達は絶望した。

しかしこの窮乏とした村を復興しようと一早く立ち上がった男がいた。それも若干20歳の青年であった。この青年の名は岡野喜太郎(おかのきたろう、元治元年~昭和40年)といい、後に現スルガ銀行(本社静岡県沼津市)を創業する男である。スルガ銀行の生い立ちは異色である。設立目的が「天災と民禍の克服」「貧しく荒んだ郷土の救済」であり郷土復興が目的であった。

被災当時師範学校に在籍していた岡野であったが村の惨状を目の当たりにし、学校を辞めて復興の先頭に立ち上がることを決意する。
その時の決意を岡野は「私の履歴書」でこう語っている「私はもう安閑として机にかじりついている気がしなかった。自ら乞うて学校を退き家事を手伝って、わが家の危機をのりこえるとともに、村の窮乏を救うために努力したいと決意した」
それから岡野は皆の先頭に立ち農業に励む。そして復興を手掛けるにあたり、まず頭に浮かんだのが、小田原の出身で、幕末に関東、東海など600余町村の財政を立て直した二宮金次郎(1787~1856年)であった。

金次郎は、天保の大飢饉に際して、静岡県の駿州御厨村(すんしゅうみくりやむら)(現静岡県御殿場市)と藤曲村(ふじまがりむら)(現静岡県駿東郡小山町)を見事に立ち直らせた実績があった。その仕法は一村の全農民に、縄一房(なわひとふさ)の代金5文を、毎日毎日欠かさずに積み立てさせて、個人を含めて村全体の財政再建をさせる「小を積んで大を致(いた)す」方法であった。金次郎の代名詞ともいえる積小為大(せきしょういだい)の実践である。

岡野は鷹根村もかつて金次郎が指導して見事に復興させた村も同じ駿東郡内の村なのだから金次郎の「小を積んで大を致す」方法でやってみようと思いついた。
天災は前触れなくやってくるのでその時に困らないようにするため金次郎の仕法をお手本に、日頃から少しずつお金を積み立てて蓄えておくことを実行した。それを自分一人で積み立てるのではなく村全体で積み立てた。村人たちに働きかけ一人月掛10銭(現在の3千円位)の貯蓄組合組織を作った。これがスルガ銀行の母体となり、1895年(明治28年)10月、正式に株式会社根方銀行(ねかたぎんこう)(スルガ銀行の前身)を岡野の手により開業、現在の静岡県沼津市の片田舎の農村に資本金一万円の日本で一番小さな銀行が誕生した。岡野は31歳で頭取に就任した。財閥でも豪商でも事業家でもない一農村の青年が銀行を設立したのは異色であった。

銀行というと「晴れの日に傘を差出し、雨が降る日に傘を貸さない」といわれるが岡野は違った。若い実業家が失敗しスルガ銀行に救済を求めてくると「事業家は、一度や二度は失敗しないと大きくならない。あなたはまだ失敗が足りないかもしれぬ。失敗すると、世の中の本当のことが分かる。それで初めて立派な成功ができる。失敗は恥ずかしいことではない。失敗に意気が挫(くじ)けることが恥ずかしいことだ」と言って事業家の肩を叩き親身になって再起方法を考え資金的支援をした。窮乏の状態から這い上がってきた自身の体験がそうさせたのであろう

スルガ銀行は順調に発展するが、その後も何度も災害に遭遇する。しかしその度に成長していくから不思議である。決してドサクサに紛れて焼き太りをしたのではない。何故、災害に遭遇する度に成長出来たのか、それは岡野が普段から万全な備えを怠らなかったからに他ならない。

1913年(大正2年)3月の沼津大火では、民家の1600戸以上が焼失した。焼け野原となった街中にスルガ銀行の本社屋だけが残った。前年の1912年(明治45年)本店を新築していたのだが、新社屋の設計の際、岡野は鉄扉の裏に漆喰を塗って裏白にするように強硬に主張した。赤レンガ三階建ての堂々たるビルであるが「そこまでやる必要があるのか。無駄なことだ」という声が多かったが、「高熱を持つと鉄板が反り返り、その隙間から火が入る恐れがある」とガンとして譲らなかった。この用意周到な備えがなかったならばビルの骨格は残っても重要な書類は焼けていたかもしれない。

そして岡野の用意周到さは1923年(大正12年)9月1日に起きたあの関東大震災の時にも大いに生きた。マグニチュード7.9のこの地震はスルガ銀行においても小田原支店ほか5店が焼失、3店が倒壊、5名の従業員が死亡するという大きな被害を受けた。それだけではなく関東大震災は岡野個人も大きな打撃を受けた。妻と三女は現JR東海道線根府川駅近くで地震に遭遇したが、列車もろとも相模湾に沈んでしまうという、不幸な出来事が発生した。後日、妻と三女の遺体が根府川と真鶴の海岸に別々に打ち上げられた。
公私両面で壊滅的な打撃で大きなショックを受けた岡野であったが直ぐに頭取としての使命感から立ち上がり陣頭指揮をとる。
「私はスルガ銀行の頭取だ。私ごとで、頭取としての使命を忘れてはいけない。銀行のこと、社員のこと、いや、いや、スルガ銀行を信用して、大事なお金を預けて下さる取引先をはじめ、日頃お世話になっている地域の皆さまに、お尽くしすることが先決だ」

震災直後、東京では全部の銀行が休業、政府は金融の混乱を避けるため被災地にモラトリアム(支払猶予令)を布いた。大蔵省(現財務省)は、東京、神奈川、埼玉、千葉、静岡の一府4県の銀行にモラトリアム(支払猶予令)を発動して、預金の払い戻しを猶予する応急処置をとり銀行業界の混乱を防いだ。
だが岡野は「非常災害時にこそ、人々は最もお金が必要」という思いが強く、預金の払い戻しを何とかしたいがそれには支払う現金が必要になる。どこの銀行も支払猶予令を楯に現金確保に応じてくれない。資金調達方法を必死に考えていると、幸い日本銀行の本店は焼失を免れていることが分かった。直ぐに取締役を派遣して日本銀行と交渉をした。その結果、日本銀行名古屋支店が融資に応じてくれることになった。
資金調達ができたので、預金の払い戻しを表明するが、今度は神奈川県下の銀行からクレームがきた「支払猶予令があるのだから、払い戻しはしないでくれ」というのだ。建前はそうであるが、どの銀行も事務処理不能で預金の払い戻しができないのである。

ところがスルガ銀行だけは事務処理が可能であった。岡野が毎日の全ての取引を本店に報告する「取引日報」を義務づけ、手形、証書など重要書類も全部、その副本を作成し本店に送るようにしていたからだ。コピー機も、パソコンも自動車でさえ一般的ではなかった時代である。全てが手作業による転記、運搬であった。膨大な手間と時間がかかるので「百年に一回起こるかどうか分からない天災時のために、毎日膨大な取引日報を作るのは大変だからやめてほしい」という声が行内にはあったが岡野は手作業によるバックアップをずっとさせていた。このバックアップシステムのお陰で、店舗が焼失して元帳が無くなった支店でも日々の預金取引を日報で本店に報告していたので、その日報に基づいて元帳を復元して預金の払い戻しに応じることが出来るのである。

「スルガ銀行は幸い預金の払い戻しが可能である。払い戻しができるのにやらないのは、銀行の使命を果たさないということで、預金者の信頼を裏切ることになる。このような非常時にこそ地域の復興を支援し、日頃のご愛顧に報いる奉仕の心を忘れてはいけない」と預金者の預金引き出しにて応じた。「スルガ銀行は、たいしたものだ。支払猶予令が出ていても、預金の払い戻しをしてくれた。これで家族ともども死なずに済む。有難いことだ」と涙を流して喜ぶ人もいた。これでスルガ銀行の信用が結果的に高まることになり、逆にこの災害時に現金を持っているのはかえって物騒だというので預ける人も出てきた。
このとき威力を発揮した日報制度は顧客からの信用をさらに高めたが、太平洋戦争の時も、空襲により本店はじめ16店舗を焼失したがスムーズに業務を再開することができた。

そして預金の支払いだけでなく、同時に打撃を受けた企業に対して復興融資を行い次々と救済していくこともした。東京の銀行が政府に保護されながら機能が停止していたのに対して、民の力だけで見事に銀行家の使命を果たしたのであるから驚きである。

この関東大震災のときの営業報告書には「壊滅的な被害をこうむるも、銀行の使命を果たして、地方経済の復興に、人心の安定に貢献すること大であった。よって、神奈川県下の営業店は、震災前に比べて進展した。これは実に予想外の結果として、当社として不幸中の幸いであった」と記されてあるが、岡野が独自のバックアップシステムを奨励し万全な備えをしていた結果に他ならない。

岡野は93歳で長男の豪夫に頭取の座を譲り渡して会長に退くまで銀行頭取在位62年間の大レコード記録をつくる。そして1965年(昭和40年)老衰のため101歳で静かに息を引き取った。 

つまり岡野が創業したスルガ銀行は明治、大正、昭和、平成と一世紀以上に渡り静岡県と神奈川県の経済を支えたことになる。その間、沼津大火、関東大震災、戦争と何度も危機があったが万全な備えをしていたためいずれも見事に乗り越えた。

そして最後に岡野の現代の私達に対する遺言ともいえる言葉を紹介しよう。
 「嵐は人々に災害をもたらすばかりとは限りません。時としては、その凄まじい猛威が逆に人々を目覚めさせ、暗い貧困の歴史から脱却する決意を促すこともある」

また、創設者の岡野喜太郎の精神は今もスルガ銀行に脈々と受け継がれている。嫡男で第2代頭取の岡野豪夫は、篤実な人柄で、創業者の喜太郎が提唱した「勤倹貯蓄」と「社会貢献」の創業の精神にしたがって銀行の発展に尽くした。嫡孫で、文化人であった第3代頭取の岡野喜一郎は、1975年(昭和50年)創立80周年を記念して、創業の精神に基づく5つの「駿河精神」を制定したが、第一番目が「奉仕の心をもち、無駄を省いて、有用なものに財を使う(勤倹貯蓄の精神)であった。そして嫡曹孫で、現社長の岡野光喜は創業の精神を実現し、常に地元のお客様のお役に立てるコンシェルジュバンクを目指して21世紀を進んでいる。
 
                                      以上

文責 田宮 卓 

参考文献
村橋勝子 「カイシャ意外史」 日本経済新聞社
日本経済新聞社 「私の履歴書 経済人2」日本経済新聞社
谷沢永一 「危機を好機にかえた名経営者の言葉」 PHP
日本経済新聞社 「経済人の名言・上」 堺屋太一 監修
三戸岡道夫「二宮金次郎から学んだ情熱の経営」栄光出版社
  1. 2011/06/07(火) 15:39:48|
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