偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

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相馬愛蔵(中村屋創業者)

相馬愛蔵(そうま・あいぞう)略歴
1870年~1954年(明治3年~昭和29年)中村屋創業者。信濃国(長野県)の農家の家に生まれる。松本中学校へ入学。数学で好成績を修める。明治20年、上京し東京専門学校(現・早稲田大学)入学。明治34年、本郷の「中村屋」店主となる。明治37年、新案のクリームパン、クリームワッフルを発売。明治40年、新宿に出店。昭和2年、喫茶部を開発。インドの独立運動家ボースから本場のインド式のカレーを伝授される。このカレーが日本初の純インド式カレーと言われ、現在も同店のメインメニューとなっている。83歳で没。著書「一商人として」岩波書店

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相馬愛蔵(中村屋創業者)語録 http://bit.ly/x9WEUA





知られざる相馬愛蔵の逸話

平成23年5月8日
題名:「お客様本位の商売」



3月11日の東日本大震災が起きて以降、被災地のあるスーパーの品物が値上がりしていて、消費者がこんな時になんで値上げをするのだろうと不快感を示している映像がテレビで放映されていた。テレビ局の人が店員にインタビューすると、値上げをしたのではなく今まで大量仕入れが出来ていたので値段を下げられたが、震災の影響でそれが出来なくなり、値下げが出来なくなったので定価で販売することにしたということであった。

このことは店側を攻められないし当然の商行為というべきであろうが、お客様の気持ちを損なっては、後々の商売は先細るだろう。普段から本当にお客様本位の商売をしている人はもう一歩踏み込んだ対応をしており、こういう緊急事態にこそ、そのことが現れるものであろう。

1917年(大正6年)明治から昭和初期に活動したアジア主義者の巨頭、頭山満(とうやまみつる)や犬飼毅(いぬかいつよし)(後に第29代内閣総理大臣)らに頼まれ、新宿を拠点にパンや菓子の販売をしていた相馬愛蔵(そうまあいぞう)はインドの独立運動家のボースを匿うことにした。ボースは故国をイギリス植民地政府に追われ日本に亡命してきていたのである。店の裏にあるアトリエを隠れ屋に4ヶ月間ほど匿った。その間、お互いに情けも移り家族同然の仲になり、頭山の勧めもあり相馬の娘、俊子がボースと結婚する。間もなく日英同盟破棄により英国の追求は終わり、ボースは日本に帰化したが不幸にも俊子は28歳の若さで亡くなってしまう。

1927年(昭和2年)、相馬は喫茶店の開業を手掛けることを決めた。この時に相馬家に強い愛情と感謝を抱いていたボースは恩返しをするため、故国の純インド式カレーを伝授した。当時の日本には英国から入ってきたカレーはあったがインドの本場のカレーとはほど遠かった。ボース直伝のこのカレーが日本初の純インド式カレーと言われ、現在も同店のメインメニューとなっている。この相馬愛蔵が中村屋の創業者である。
 
相馬が郷里の長野県から東京の本郷に出てきたのは1901年(明治43年)で32歳の時であった。商家の家系でもなく商売の経験もなかったが勤め人は性に合わないと夫婦で商売をすることを考えた。そんな時に帝国大学(現東京大学)前でパン屋をしていた中村屋の中村店主が店を譲りたいと言ってきた。米相場で失敗して経営が成り立たなくなっていたのだ。相馬夫妻が店を譲り受けてからが現在の中村屋の創業といわれるが、何故、商売に素人の相馬が成功できたのか色々な要素があるだろうが、一つにはどこまでも誠実に、従来の商習慣にとらわれず、掛け引きなどもせずお客様本位の正道を貫いたことであろう。

同郷の長野県出身の後輩にあたる岩波茂雄(岩波書店の創業者)は教員を辞めて神田神保町で古本屋を開いたのが商売のスタートであったが、始める前に相馬夫妻に色々と教えを受けている。そんな岩波は後に相馬のことを「私が畏敬する大先輩であり、敬服するのは商売気質に堕せず志業を大成したこと。氏の如く独立独歩自由誠実の大道を闊歩して所信を貫くことは至難である」と語っている。

このことは関東大震災時の相馬の行動で伺い知ることが出来る。1923年(大正12年)9月1日に大震災に遭遇するが中村屋は幸運にも被災は免れた。しかし店頭には食なき人々が押し寄せてくる。相馬は商人の義務として中村屋の社員一同毎晩徹夜で製造を続けた。そして小麦粉は原価で販売し、パンや菓子は普段よりも1割安く販売した。平素のお客様本位の考えがそうさせたのであろう。

ところが結果的に中村屋は震災を機に売上が3、4割増加していた。後で分かったことが他の店の多くが幾割か値上げをしていたが、中村屋はそれをしなかったことに好感を持った人が増えたということであった。 
  

以上

文責 田宮 卓

参考文献
相馬愛蔵「一商人として」岩波書店
加来耕三 「日本創造者列伝」 人物文庫 学陽書房
加来耕三 「成せば、成」 一二三書房

運命の人のモデル
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平清盛の妻
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スルガ銀行誕生秘話

関連サイト
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岡野喜太郎(スルガ銀行創業者)語録 http://bit.ly/oJNlB0
二宮金次郎語録 http://bit.ly/ylSylB
岡野喜太郎(スルガ銀行創業者)の知られずる逸話 http://bit.ly/yn3fiC




平成23年5月5日
題名:「スルガ銀行誕生秘話」



江戸時代に生まれた二宮金次郎が次々と農村や藩を復興させ、多くの人を貧困から救ったことは知られているが、この金次郎の復興の仕手(しほう)をそのまま真似して誕生した銀行がある。それは静岡県沼津市に本社を置くスルガ銀行である。

スルガ銀行は静岡県と神奈川県を地盤とする地方銀行(本社沼津市)であるが、そのルーツは災害と大きくかかわりがある。

1884年(明治17年)9月に駿河地方を未曾有の暴風雨が襲い。鷹根村(現静岡県沼津市)は甚大な損害をうけ水田はまるで海水を被ったように枯れてしまい、農村はたちまち飢饉地獄に追い込まれた。見渡す限り田畑にネズミ一匹いない惨状でいつ餓死者が出てもおかしくない状況であった。

この窮乏とした村を復興しようと一早く立ち上がったのが若干20歳の岡野喜太郎(おかのきたろう、1865年~1965年)という青年で現スルガ銀行の創設者である。災害当時は師範学校に在籍していたが村の惨状を目の当たりにし、学校を辞めて復興の先頭に立ち上がることを決意した。

復興を手掛けるにあたり、まず岡野の頭に浮かんだのが、小田原の出身で、幕末に関東、東海など600余町村の財政を立て直した二宮金次郎(1787~1856年)であった。

金次郎は、天保の大飢饉に際して、静岡県の駿州御厨村(すんしゅうみくりやむら)(現静岡県御殿場市)と藤曲村(ふじまがりむら)(現静岡県駿東郡小山町)を見事に立ち直らせた実績があった。その仕法は一村の全農民に、縄一房(なわひとふさ)の代金5文を、毎日毎日欠かさずに積み立てさせて、個人を含めて村全体の財政再建をさせる「小を積んで大を致(いた)す」方法であった。金次郎の代名詞ともいえる積小為大(せきしょういだい)の実践である。

岡野は鷹根村もかつて金次郎が指導して見事に復興させた村も同じ駿東郡内の村なのだから金次郎の「小を積んで大を致す」方法でやってみようと思ったのだ。

岡野は皆の先頭に立ち農業に励む一方、天災は前触れなくやってくるのでその時に困らないようにするため金次郎の仕法をお手本に、日頃から少しずつ積み立てて蓄えておくことを実行した。それを自分一人で積み立てるのではなく村全体で積み立てた。村人たちに働きかけ一人月掛10銭(現在の3千円位)の貯蓄組合組織を作った。これがスルガ銀行の母体となり、1895年(明治28年)、岡野の手により現在の静岡県沼津市の片田舎の農村に資本金一万円の日本で一番小さな銀行が誕生した。設立目的が「天災と民禍の克服」「貧しく荒んだ郷土の救済」であり、創業の精神が「小を積んで大を致す=勤倹貯蓄」であった。岡野31歳の時であるが豪商でも事業家でもない一農村の青年が銀行を設立したのは異色であった。

岡野は93歳で長男に頭取の座を譲り渡して会長に退くまで銀行頭取在位62年間の大レコード記録をつくり1965年(昭和40年)老衰のため101歳で永眠したが、その間、創業の精神である「小を積んで大を致す=勤倹貯蓄」を行内だけでなく世間にもずっと推進してきた。このことが評価され(1959年)昭和34年、内閣総理大臣より国民貯蓄運動の功績抜群として表彰される。

また、創設者のDNAは今もスルガ銀行に脈々と受け継がれている。嫡男で第2代頭取の岡野豪夫は、篤実な人柄で、創設者の喜太郎が提唱した「勤倹貯蓄」と「社会貢献」の創業の精神にしたがって銀行の発展に尽くした。嫡孫で、文化人であった第3代頭取の岡野喜一郎は、1975年(昭和50年)創立80周年を記念して、創業の精神に基づく5つの「駿河精神」を制定したが、第一番目が「奉仕の心をもち、無駄を省いて、有用なものに財を使う(勤倹貯蓄の精神)であった。そして嫡曹孫で、現社長の岡野光喜は創業の精神を実現し、常に地元のお客様のお役に立てるコンシェルジュバンクを目指して、21世紀を進んでいる。
 
二宮金次郎の教えを実践することで誕生した銀行が150年に渡り静岡県と神奈川県の経済を支えているのだから、偉人から学ぶことが、いかに価値があり大事なことであるかを教えてくれているといえよう。


文責 田宮 卓 

参考文献
村橋勝子 「カイシャ意外史」 日本経済新聞社
日本経済新聞社 「私の履歴書 経済人2」日本経済新聞社
谷沢永一 「危機を好機にかえた名経営者の言葉」 PHP
日本経済新聞社 「経済人の名言・上」 堺屋太一 監修
三戸岡道夫「二宮金次郎から学んだ情熱の経営」栄光出版社
  1. 2011/05/05(木) 14:12:39|
  2. その他
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