偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

二宮尊徳

二宮金次郎(にのみや・きんじろう)略歴
1787年~1856年(天明7年~安政3年)江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家。通称は金次郎。相模国足柄上郡栢山村(現・神奈川県小田原市栢山〔かやま〕)に百姓の長男として生まれる。生涯で600余村の農村や藩の貧困を救済し一農民から幕臣にまで出生した。69歳で没。

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平成23年4月24日
題名:「二宮金次郎に学ぶ(復興の神様)」



東日本大震災が起きてからはや一ヶ月が過ぎた。テレビなどの映像で見渡す限りの瓦礫の山を見ると、いったいいつ元通りになるのかと気が遠くなりそうになるが、この惨状を見る度に思い出すとてつもない偉人がいる。それは二宮金次郎(にのみやきんじろう)である。二宮金次郎と聞くと薪を背負いながら読書をしている銅像を思い浮かべる人が多いと思うが、意外と何をした人か知っている人は少ないかもしれない。

金次郎が生まれたのは1787(天明7年)で現代の神奈川県の小田原で農民の長男として生まれた。亡くなるのが1856年(安政3年)になるのでちょうど米国のペリーが黒舟で浦賀に来航する頃まで生きたことになる。ではその間何をしたかといえば農村の復興である。多くの農村や藩の貧困を救ったがその数が600余村に及ぶというから驚きである。金次郎は農民一揆を起こすことはなく、藩や幕府に楯つくことも頼ることもなく次々と自力で農村の復興を手掛けていった。金次郎が行ったのは報徳思想(ほうとくしそう)という道徳思想を説くことであった。経済と道徳の融和を訴え私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると、それを自ら実行し説いて回った。この二宮金次郎の生き方や、教えが今海外で注目されているという。それも中国で熱心に研究されているらしい。

私が二宮金次郎に興味を持ったのは3年ほど前であるが、まずその経緯から述べてみたい。小田原には二宮神社があり、そこで二宮金次郎の直系のご子息様とその関係者が一同に集まる大祭があり、その大祭に知人を通じて招待され参加したことがきっかけであった。金次郎の直系のご子息様は今7代目、8代目になる。

私は招待してくれた知人から二宮金次郎のことは、今日本人より海外の人の方が良く知っているという情報を聞いていたので、大祭に参加する当日はある一冊の本を鞄に忍ばせた。それは学生時代に読んだ内村鑑三(うちむらかんぞう)の「代表的日本人」(岩波文庫)という本である。この本が予想通り当日大活躍した。

二宮神社の大祭には兄(http://bit.ly/ef6Vje)と地元小田原のベンチャー起業家(http://bit.ly/ydtjCz)の友達である樋口社長と3人で参加した。午前中の儀式が終わり、昼食の時間になった。会場には丸テーブルが幾つもあったが、この大祭に招待してくれた知人が気を使ってくれて特別に二宮金次郎のご子息様がいるテーブルに座らせてもらうことが出来た。

テーブルに座ると、ご子息様が開口一番に「今、二宮金次郎の教えは日本より海外で注目されています。昔、内村鑑三の代表的日本人という本がありまして、この本に二宮金次郎のことが紹介されています。その本にある肖像画が金次郎の唯一の肖像画です・・・」と話し出した。その瞬間に、私は鞄に忍ばせていた「代表的日本人」の本を取り出し「この本ですね」と見せてみた。

すると、ご子息様は驚いて「あ、これこの本です。この本に金次郎のことが紹介されていて、この肖像画が唯一のものです。あなたどうしてこの本を今日持っているのですか?」と一気に話が盛り上がった。驚いたのはご子息様だけではなく同じテーブルに座っていた兄も樋口社長も同じであった。まるでマジックでも見ているようであったであろう。兄に後で「何であの本持ってたの」と聞かれたが「今日必ず話題になると思ったから」とだけ答えた。お蔭様でご子息様にわれわれは一発で名前を覚えてもらうことが出来、その後も都内の隠れ屋でパーティがある時などは呼んでくれて、お会いした際はご子息にだけ伝わっている金次郎伝を良く聞かせていただいた。

私が内村鑑三の「代表的日本人」の本が当日、何故話題になるか分かったか種を明かすとこうだ。

この本には5人の日本人が紹介されている。西郷隆盛、上杉鷹山(うえすぎようざん・江戸時代の政治家)、二宮金次郎、中江藤樹(なかえとうじゅ・陽明学者)、日蓮上人(仏僧)の5人である。

1961年(昭和36年)、第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネディが、日本記者団から「あなたが、日本で最も尊敬する政治家は誰ですか」と質問を受けた時、「上杉鷹山です」と答えた。しかし日本人記者の中で上杉鷹山を知っている人がいなかったようで、皆、上杉鷹山て誰だ?と顔を見合わせた。上杉鷹山は江戸時代の米沢藩の藩政を建て直した名政治家であったが、何故日本人も知らないような政治家をケネディが知っていたかといえば恐らく内村鑑三の「代表的日本人」を読んでいたからだといわれる。この本は英訳され新渡戸稲造の「武士道」の次に世界中で読まれた本である。

このケネディの話を知っていた私は、知人から二宮金次郎が海外で知られていると聞いた時に、恐らく内村鑑三の「代表的日本人」を読んで知っているのだなと思ったわけで、当然、当日もこの本が話題になるなと予想が出来たわけである。

次回に続く


積小為大(せきしょういだい)「小を積みて大と為す」

毎晩勉強していた二宮金次郎は、読書をするための油代を稼ぐために荒地に菜種を植え、このたった一握りの菜種が7~8升になったことや、捨て苗を荒地で丹精こめて育てることにより、秋には一俵の籾を収穫することができた。これらの体験から自然の恵みと人の力の素晴らしさを知ると共に、小さな努力の積み重ねが大切(積小為大)だと学び、これが金次郎の後の行いや考えの基になったとされる。

今から200年ほど前の1783年(天明3年)4月に浅間山の噴火がはじまった。そして7月の最後の大噴火が上野国(こうずけのくに)(今の群馬県)のある村を全滅させるほどの大災害をもたらした。さらに吹き上げられた火山灰が空をおおった。火山灰が太陽の光をさえぎったため、夏になっても気温が低く農作物の成長を妨げた。

このことが起因して凶作が全国に広がり何年間も続いた。そして数十万の人が飢え死にすることになった。これが江戸時代におきた「天明(てんめい)の大飢饉」である。

二宮金次郎が今の小田原市栢山(かやま)で農民の子として生まれたのは、こんな時代のさなか1787年(天明7年)であった。幸い金次郎の家は栢山村では豊かな地主であったが、金次郎が4歳の頃、小田原付近は恐ろしい台風に見舞われ酒匂川(さかわがわ)の堤防が破壊され水が一気に流れ田畑を覆いつくし滅茶苦茶にした。これを元の田畑に戻すのに何年いや、何十年かかるか分からない。この時から二宮家は貧乏のどん底にたたき落とされることになった。数年すると父が過労で倒れ、金次郎は父に代わって一生懸命に働くようになる。そして13歳の時父は病死で失い、15歳の時に母も病死で失う。残された兄弟3人 は一家離散して金次郎は伯父のところへ預けられた。ここでも金次郎は一生懸命働き見事に生家復興を果たし、これを皮切りに農村復興、財政再建の人生がスタートした。

最初に小田原藩の家老の服部家の破綻した財政を立て直し、次に荒れ果てていた桜町領(現栃木県)を復興し、桜町に隣接する青木村、谷田部と次々と復興をさせ69歳で亡くなるまでに600余村の農村や藩の貧困を救ったといわれる。 1842年(天保13年)、当時天保改革を進めていた老中・水野忠邦(みずのただくに)から小晋請(こぶしん)役格を命じられ幕臣にもなった。一農民が幕臣にまで出生したのは異例のことであり、二宮金次郎の名前は日本中に広まった。

金次郎は「報徳精神(ほうとくせいしん)」、「経済と道徳の一致」など数々の教訓を後世に残してくれたが、私は最も大きな功績は積小為大(せきしょういだい)、この言葉が本物であることを証明してくれたことではないかと思う。古今東西の世界の偉人をみても金次郎ほどこのことを実践し成功した偉人はいないであろう。

金次郎は小さい頃から学問に熱心であったことでも知られるが、小さな努力の積み重ねの中に「勉強心、創意工夫」このことが含まれてはじめて大きなことが出来るのだと思う。

またマリナーズのイチローがシーズン最多安打、3000本安打と大記録を達成した時のインタビューで決まって言う台詞が「小さいことを積み重ねることが、とんでもない所に辿りつくただ一つの道」である。

金次郎は後生に内村鑑三が著作「代表的日本人」で紹介し、それが英訳されることにより世界中に名が知られる偉人となった。世界記録も世界に名を成すのも小さい努力の積み重ねであり魔法の杖などないといえる。
このことはわずか数人の会社が大企業になるのも同じであると思う。

昭和20年3月10日の東京大空襲で、東京浅草で営んでいた小さな用品店は灰燼(かいじん)と帰してしまった。兄と母が心血を注いでわが子を育てるように守ってきた店が一夜の戦火で跡形もなく消えてしまった。しかし明治から商人の道を歩んできた母にとって、店がなくなる経験は初めてではなかった。1904年(明治37年)の日露戦争の時、続いて1923年(大正12年)の関東大震災でも全てを失った。しかし母はその度に屈することなく不死鳥のようによみがえった。この時も当時53歳の母はいの一番に立ち上がって歩き始めた。昭和20年12月、東京・北千住の中華ソバ屋「たぬき屋」の軒先からの再出発。お金もない、土地もない、信用もない、ないない尽くしのスタートである。しかし母は「お客様は来ないもの」「取引をしたくとも取引先は簡単には応じてくれないもの」「銀行は簡単には貸してくれないもの」、そのような、ないないづくしから商というものは出発するものと息子達に言い聞かせたという。この店が現代のイトーヨーカドーのスタートであった。

イトーヨーカドーの創業者の伊藤雅俊は当時を振り返り、このことを何よりも母から学んだという。
「全てが揃っていたり、揃う目処がついた時点から商売を始めた人はその感覚が乏しいのではないかと思う。全てがないことがあたりまえなんだ、あるようになることは本当に有難いことなんだという思いでスタートした人は、商売の形態、精神力、お客様との関係などを力強く推し進めていくことが出来ると思う」

東日本大震災で多くの人が生活基盤の全てを失った。復興には5年、10年かかるともいわれるが、結局は小さな努力を積み重ねていく以外にはないのではないかと思う。

以上


文責 田宮 卓


参考文献
内村鑑三 「代表的日本人」岩波文庫
童門冬二 「小説二宮金次郎」 人物文庫 学陽書房
船井幸雄 監修「歴史二学ぶ勝つためのセオリー」三笠書房
三戸岡道夫「二宮金次郎から学んだ情熱の経営」栄光出版社
世界の伝記「漫画学習 二宮金次郎」集英社
伊藤雅俊 「商いの道」PHP研究所
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  1. 2011/04/24(日) 23:25:56|
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本田宗一郎

本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)略歴
1906年~1991年(明治39年~平成3年)本田技研工業創業者。静岡県磐田郡光明村(現・天竜市)生まれ。高等小学校卒業後、自動車修理工場の勤務。昭和3年浜松アート商会設立。昭和23年本田技研工業を設立して社長に就任、世界有数の自動車メーカーに育て上げた。昭和48年社長を退き取締役最高顧問。84歳で没。勲一等瑞宝章、ベルギー王冠勲章他。著書に「得手に帆をあげて」「私の手が語る」他。

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本田宗一郎語録集(人間観・人生観編)http://bit.ly/yHgUJy





本田宗一郎の知られざる逸話

平成23年4月15日
題名:「惨状を肥やしに」



「人間の心というものは、孫悟空(そんごくう)の如意棒(にょいぼう)のように、まことに伸縮自在である。その自在な心で、困難なときにこそ、かえってみずからの夢を開拓するという力強い道を歩みたい」松下幸之助

東日本大震災は無情にも多くの尊い人命を奪った。命が助かった人も住む家を失い、社屋、工場などの働き場所も失い、これからどう生活していけばいいか途方に暮れている人も多いであろう。見渡す限り瓦礫の山の風景では仕事をしようにも遣りようがないと思うであろう。しかし現実問題、歩みをとめるわけにはいかない。国の仮払金や、支援金などは手元に届くまでに時間がかかるし限界がある。であるならば自力で立ち上がるしかない。特に若者はこういう時にこそ、夢と創意工夫を持って立ち上がっていただきたい。きっと将来、あの時の経験があったからこそ今があると言えるときが来るであろう。

1922年(大正11年)、高等学校を卒業した15歳の青年が上京し、好きな自動車をいじれると思い東京の文京区本郷にあるアート商会という自動車の修理屋に見習工として就職した。自動車の修理の仕事が出来ると思ったが、赤ん坊のお守りと雑巾がけしかさせてもらえない。現実は丁稚奉公でしかなかった。赤ん坊のお守をしていると一日何度も小便で背中が濡れる。その度に「畜生」と思う。この青年は失望のあまり何度も「荷物をまとめて郷里に帰ろう」と思うが、送りだしてくれた父親の「暖簾(のれん)をわけてもらうまでは辛抱しろ」という言葉が頭をよぎり思いとどまる。とにかく耐えることにした。

そして半年すると、突然の大雪で故障車が続出し修理工の手が足りなくなりこの青年も狩りだされることになる。喜んで修理の仕事をすると元々手先が器用だったこの青年は期待以上の成果をあげ主人に認められる。以後子守や雑用から解放された。

好きなこともあり修理の仕事をみるみる覚えていったが、翌年の9月1日の昼前、とつぜん遠い地鳴りが聞こえたかと思うと、立っていることもできないほど、大地がグラグラ揺れた。関東大震災である。アート商会の建物が大きく軋んだ。あちらこちらから火の手があがる。アート商会にもその火が近づいてきた。修理工場だから自動車を預かっている。預かった自動車を焼いたら弁償しなければならない。主人が「自動車を安全なところへ運転して運べ」と号令をかける。今まで修理はさせてもらっても運転はさせてもらえなかったので、人生で初めて自動車の運転をすることができ、惨状の中この青年は密かに感激した。

アート商会の類焼は免れることは出来ず、主人の家族と神田駅近くのガード下に移転することになった。一面焼け野原の惨状を見て15 人あまりいた修理工はみないなくなってしまった。残ったのはこの青年と兄弟子とあわせて2人だけであった。しかしこの焼け野原となった惨状の中この青年は勇敢に行動する。そしてこの時に培った頑張りがその後の人生に大きくプラスに働くことになった。

隣が食料品屋の倉庫だったので、焼け残りの缶詰を探しだしそれを食糧にして、一家とともに飢えをしのいだ。次に仕事を再開しなければならないが一面焼け野原で仕事などない。そこで神田川に落ちていたオートバイを拾いあげ修理をして焼け野原をかけまわる。避難民は、田舎に帰りたいが交通機関は麻痺して動けない。そこでこの青年は運搬するアルバイトを始めた。金があっても買うものがないので人々は気前よく10円、20円と運び賃を払ってくれた。帰りにはその金で農家から米を買ってきて主人一家の食糧にあてた。

今度は芝浦で焼け出された多数の自動車の修理を一手に引き受けることにした。主人はそんな車、エンジンがかかるわけがないと反対であったが、この青年は「何とかやります」と主人を強引に口説いたのだ。不眠不休で焼けた車の修繕にとりかかる。ボディーはもちろん、車台も焼けているが、なかには被害の少ないものもあり、そんなのを選びバラバラに分解し、使えそうな部分をとって組み立てていく。焼けてガタのきたスプリングなども焼きを入れ直す。車の塗装をすませ、エンジンをかけてみると不思議だと思うほど動く。主人は「お前は天才だ」と感嘆した。この修理した車は震災後の物価騰貴もありなんとフォードの2倍の値段で売れた。すっかり主人の信頼を得たこの青年はそれからも仕事を自ら探しだし何でもこなしていった。

そしてアート商会に来て6年目、21歳の時に念願だった暖簾わけをしてもらえることになった。21歳での暖簾わけは後にも先にもこの青年一人だけであった。郷里に帰り彼はこうして故郷に錦を飾った。父親が息子の独立を喜んだのはいうまでもない。 

この青年は後に世界の自動車メーカー、本田技研工業を創業する本田宗一郎である。
 
本田宗一郎は当時のことを振り返りこう述べている「関東大震災に深く感謝した。なぜなら震災がなかったら、自動車の初運転、オートバイの内職、修理の技術などマスターできなかっただろうからである」 

                                 以上 

文責 田宮 卓

参考文献
PHP研究所【編】「本田宗一郎 一日一話」 PHP文庫
城山三郎 「本田宗一郎の100時間」 講談社文庫
梶山季之 「実力経営者伝」徳間書店
松下幸之助「道を開く」PHP
  1. 2011/04/15(金) 21:49:00|
  2. 本田宗一郎
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三木谷浩史(楽天創業者)

三木谷浩史(みきたに・こうじ)略歴
楽天グループ創業者。1965年(昭和40年)、兵庫県明石市生まれ。1988年、一橋大学卒業後、日本興業銀行(現・みずほ)に入行。1993年、ハーバード大学にてMBA取得。興銀を退職後、1996年、クリムゾングループを設立。1997年2月、エム・ディー・エム(現・楽天)設立。代表取締役就任。同年5月、インターネットショッピングモール「楽天市場」を開設。2000年には日本証券業協会へ株式を店頭登録(ジャスダック上場)。その後、インフォシーク、楽天トラベル、楽天證券、楽天クレジット、フュージョン・コミュニケーションズ、イーバンク等の参画により事業の拡大を果たす。また2004年Jリーグ・ヴィッセル神戸のオーナー就任。さらに同年には50年ぶりの新規球団(東北楽天ゴールデンイーグルス)誕生となるプロ野球界にも参入。

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三木谷浩史(楽天創業者)語録
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三木谷浩史の知られざる逸話

平成る23年4月7日
題名:「東日本大震災が教えてくれたこと」



「終焉の日は音を立てずにやってくる」ウィリアム・シェークスピア(英国の文豪)
東日本大震災は多くの尊い人命を奪った。余りにも失ったものは大きいが得られたこともあるはずである。家族や、大切な友人、知人を亡くしたことは言葉では表せない程の悲しみであろう、しかしそのことによって初めて死というものを意識した人も多いのではなかろうか。「人は必ず死ぬ」「人生長くはない」「生きていることに感謝」この当たり前の現実を意識出来た人は今後の人生が大きく変わるかもしれない。

阪神・淡路大震災の時、実家の兵庫県明石市が大きな被害を受け、大好きだった叔父夫婦が亡くなり学校の体育館で無言の対面をした人がいた。そこには叔父達だけではなく、昨日まで元気にしていた沢山の人達が一瞬にその命を奪われ遺体となった。この悲しい光景を目の当りにした時、この男は悟った「命がいかに儚(はかな)いものかということを、僕は言葉ではなく、胸が張り裂けそうな悲しみによって知った。そして、心と体の奥深い部分で、自分の命も儚いものであるということを悟った。命がいかに儚いもので、そしてそれゆえにどれだけ大切なものかということを」

そして、この男は「人生長くはない、であれば好きなことをした方がいい」そう思い勤務していた日本興業銀行(現みずほ銀行)を退職して起業した。この男が楽天グループの創業者、三木谷会長である。

三木谷会長は個人で10億円寄付を発表した。また、ツイッターのツイートを見ていると計画停電が発表された時、真っ先に全面的に協力するように呼びかけている。阪神・淡路大震災で、実家が被災した経験があり、人ごとだと思っていないのであろう。「悲しみを乗り越えて頑張れ!」ときっと心からエールを送っているのだろう。この悲しみのどん底から必ずや、第二、第三の三木谷が出てくると確信する。

そして最後に、今までにゆうに4000名を超える病人の臨終に立ち会った経験がある90歳を超えてもなお現役で診察もする聖路加国際病院の日野原重明(ひのはらしげあき)理事長(現在100歳)の言葉を紹介したい。

「人間は老いと死に向かって歩く。今日一日を生きることは、死に近づくことであることを心底からもちたいものです。今日を精一杯大切に、真摯に生きることが一番大切なことであり、それが死をどう生きるか、死への挑戦状ともなるのではないか」日野原重明

自分が空きしく生きた今日は、昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日である。人生に二度はない。たった一度の人生、もっと志や夢を抱き情熱を持って生きていきたい。

                                             以上

文責 田宮 卓

参考文献
三木谷浩史 「成公の法則92ケ条」幻冬舎
シェイクスピア 「ジュリアス・シーザー」岩波文庫
日野原重明 「生き方哲学」中央法規
  1. 2011/04/07(木) 22:31:37|
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犬丸徹三(帝国ホテル元社長)

犬丸徹三(いぬまる・てつぞう)略歴
1887年~1981年(明治20年~昭和56年)帝国ホテル元社長。石川県生まれ。1910年、東京高等商業(現・一橋大学)卒業。ヤマトホテル入社。上海、ロンドン、ニューヨークで修業。1919年、帝国ホテル副支配人。1923年、ライト設計の新館が完成。支配人就任。関東大震災の救助活動に尽力。1945年、社長に就任。1948年、日本ホテル協会会長。93歳で没。

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犬丸徹三の知られざる逸話

平成23年4月4日
題名:「災害後に発展する企業とは」


ソフトバンクは4月3日、孫正義社長が東日本大震災の被災者に向けて義援・支援金100億円を寄付すると発表した。それだけではなく孫社長は2011年度から引退するまでの役員報酬の全額を寄付し、震災遺児らの支援に充てるとしている。なんとも爽快な話である。

他にも経営者ではユニクロの柳井会長が個人で10億円の寄付をいち早く表明したのに続き、楽天グループの三木谷会長も個人で10億円の寄付を発表している。

政治低迷、官僚腐敗と言われている昨今、日本という国は民間人でもっているのではないかとつくづく感じさせられるニュースである。経営者に限らず、震災が起きてから年齢を問わず自分が被災地の人達に何が出来るかを必死に考え行動している多くの人がおり、この人達の姿をみると日本ほど民度の高い国民は世界中を見てもないのではないかと思わせる。

しかしその一方で、あまり報道はされないが、被災地で倒壊した店や家から現金を盗んだり、義援金と称して詐欺をする、どうしようもない人達がいるのも事実である。
また、違法ではないが災害にかこつけて便乗商売をする会社も出てくるだろう。阪神大震災の時に大阪市内のある大手不動産会社が震災後、どの賃貸マンションにも人々が殺到したので、これに便乗して震災2日後には賃貸料も保証金も値上げしたという話がある。今後も残念ながら災害に便乗して儲けようという会社が出てくるかもしれないが、こういう会社に明日はないといえよう。私はこのような緊急時にどういう行動をとるかでその会社、経営者の本質、人格、人間性が現れ、将来の行く末が見えてくると思う。何故なら過去の歴史がそのことを証明しているからだ。

1910年(明治43年)東京高等商(現一橋大学)を卒業した男は成績が悪く希望の外交官は諦めるより仕方なく、就職先も見つからず途方にくれていた。大学の教授の斡旋でようやくありつけた職が満鉄経営のヤマトホテルでのボーイであった。仕事にありつけたものの、当時のホテルは貴賤な仕事とされていたため、自尊心が傷づけられた気持ちで劣等感に襲われる毎日であった。この男はこのホテルを3年勤めた後、上海、ロンドンのホテルへと転々とする。

そしてロンドンで初めての冬を迎えた。クリスマス当日、休暇を与えられたが商店は全て閉じ、映画館や芝居小屋も休業していてどこにも行くところがない。人々はこの日教会で祈祷をささげた後、親類知人が集まって楽しい団らんの時を過ごすが、親類、知人のいないこの男はやむをえず終日、きたない宿の一室でパンをかじりながら天井を凝視するよりなかった。

しかしこの時の蒼然たる孤独感がこの男を悟らせた「自分はこれまでただ自分のためにのみ働いてきた。そのためにロンドンに一人の知己もなく、わびしいクリスマスを味わわねばならなかったのだ。今後は可能な範囲で人のために働こう」この決意がこの男のその後の人生を大きく変えた。より懸命に働き仕事も認められ次にアメリカに渡りさらに実務を身につける。

間もなくこの男の働きぶりは太平洋を越えて帝国ホテル会長の大倉喜八郎(おおくらきはちろう)の目にとまり帰国をして帝国ホテルで働くことになった。その間アメリカの高名な建築家ロイド・ライトが設計した新館が完成し、開業披露宴当日の9月1日を迎えた。

しかしこの日にとんでもない災難が降りかかる。突如大地震が襲った。関東大震災である。幸いホテルは倒壊もせず、火災も免れたと同時にこの建築の優秀さを実証する結果となったが、驚くのはまだ30半ばのこの男の、この後の行動である。まず料理場を確認するとボヤが出ているので直ぐに中央電源を切り惨事を防いだ。外に出ると日比谷一帯は火事であった。日比谷公園は避難する人で溢れる。この惨状を目の当たりにし、この男は独自の判断で宿泊客の全てに対して宿泊料を無料とし、外部から寝るところを求めてくる人にも同様に扱った。食事はシチユーのごとき簡単なものを提供し付近の建物から避難してきた人にも出した。

次に被災から免れたホテルの建物を最も有意義に使用するにはどうすればいいか考え、社屋が焼失し取材活動も思うにまかせぬ朝日、電通、通信者にロビーや空室を提供した。続いて、英、米、仏、伊などの各国の大使館にも部屋を提供した。同時に食糧の確保が緊急であると考え、早速自動車を八王子方面に派遣して野菜を集めさせた。これも無料で客や避難者に提供し皆に感謝される。この機転のきいた迅速な行動はまさにサービス業に携わる人達の鏡であり皆から賞賛、感謝されたのはいうまでもない。

この男は大震災に際し在外公館と在日外国人に便宜をはかったことが感謝され、英国、フランス、イタリアの3国から勲章を授与される。この男の名はホテル王と言われた犬丸徹三(いぬまるてつぞう)である。

大震災での犬丸の行動が外国人から感謝と評価を得ることになり、その後、犬丸は帝国ホテルだけでなく日本のホテル業界を一流に引き上げる最大の功労者となった。私は犬丸がこれだけのことが出来たのもロンドンで悟った「人のために働こう」という決意が本物だったからだと思う。

文責 田宮 卓 

参考文献
田中康夫 「神戸震災日記」 新潮文庫
日本経済新聞社 「私の履歴書 12」日本経済新聞社
日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人Ⅱ」 日経ビジネス文庫
日本経済新聞社 「経済人の名言・上下」 堺屋太一 監修
  1. 2011/04/04(月) 09:02:51|
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