偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

三島海雲(カルピス創業者)

三島海雲(みしま・かいうん)略歴
1878年~1974年(明治11年~昭和49年)カルピス創業者。大阪府豊能郡(とよのぐん)(現箕面市)で貧乏なお寺の子として生まれる。生家は西本願寺派の末寺。1892年小学校を中退。漢学塾で学ぶ、1893年京都の西本願寺文学療に入寮、1899年山口市の開導中学校へ赴任。1901年仏教大学3年に編入。1902年中国に渡り、北京の東文学舎に寄宿。土倉五郎と出会う。1903年北京に日華洋行を設立。1908年内モンゴルで乳酸を知る。1915年中国の事業を手放して帰国。1917年ラクトー株式会社(現カルピス)を設立。1919年カルピスを販売。1922年キャッチフレーズとして、「初恋の味」を初めて新聞広告に使用。1962年三島海雲記念財団を設立。96歳で没。


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三島海雲(カルピス創業者)の語録 http://bit.ly/pVnPQD





三島海雲の知られざる逸話

平成23年3月30日
題名:「災害時に利益を得る企業とは」




ユニクロを展開するファーストリテイリンググループは3月14日、東日本大震災の被災地へ同社の防寒衣料類7億円分を寄付すると発表した。また、日本赤十字社などを通じ、同社グループから3億円、全世界の同社グループ従業員から1億円の計4億円を寄付。柳井社長も個人として10億円を寄付すると発表した。国内では過去個人の寄付額で10億円は類がないという。

私はめったに現代の経営者を褒めることはないが、今回の柳井社長の心ある行動を立派だと賞賛したい。しかし多額の寄付をすると必ず出てくるやっかみがある。「売名行為」ではないか「節税対策」ではないかという穿った見方である。何とも心の貧しい見方であろうか。

私は今回の柳井社長の行動は将来きっとユニクロに利益として返ってくるのではないかと思っている。もちろん柳井社長はそのことを期待して寄付をしている訳ではないと思う。今多くの心ある人が被災地の人達に自分に何が出来るかを考え行動している。きっとこの人達にも何時か自分も助けられることがあるのではなかろうか。

かつても災害時にとった企業経営者の善意ある行動が、結果企業に利益をもたらした例が幾らでもある。 

1878年(明治11年)、大阪府豊能郡(とよのぐん)(現箕面市)で三島海雲(みしまかいうん)という男が貧乏なお寺の子として誕生した。海雲(かいうん)とはいかにもお坊さんらしい名前である。

しかし海雲は冒険心に溢れチャレンジ精神旺盛であったためお坊さんにはならなかった。仏教大学在籍中に当時青年にとっての憧れの国であった広大な中国へ青雲の志を持って渡った。中国語を学ぶ一方、中国人に日本語を教えたりしていたが、やがて奈良の山林王といわれた土倉家(つちくらけ)の土倉五郎と親しくなり商売に乗り出すことになる。雑貨屋、化粧品など様々な商品を仕入れて行商を行うが、その間、海雲は内蒙古(中国内モンゴル地区)で貴族の天幕にしばらく泊めてもらう機会があり、そこで何とも不思議な体験をすることになる。

彼らの住まいである包(ぱお)というテントの入口に乳(牛や羊など)を蓄えた大ガメが置いてある。彼らは棒で静かに大ガメの中の乳をかき混ぜながら飲用している。海雲も毎日それを飲むことになったが、そのせいか精気が蘇ったようになるから不思議である。海雲はその効果に驚きその時のことをこう述べている「長くつらい旅のために、すっかり弱っていた胃腸の調子が、目を見張るばかりに整い、そのうえ、日ごろ苦しんでいた不眠症が全く治ったのである。身体、頭、すべてがすっきりして、体重も増え、それはあたかも不老長寿(ふろうちょうじゅ)の霊薬にでも遭遇した印象さえ受けた」

蒙古民族の逞しい生活力の源はこの飲物にあるに違いないと確信するが、実はこの体験が海雲の後の運命を決定づけることになった。

海雲は蒙古の王族や貴族に気に入られ、牧羊事業を行うが、1912年(大正元年)、辛亥革命(しんがいかくめい)によって清朝政府が倒れ、牧羊事業が出来なくなりやむなく中国から帰国することになった。

日本に帰ってきた海雲は、何で再起を期そうか考えたが、直ぐに蒙古民族の乳飲料の素晴らしさを思い出し、それを参考に新しい乳製品の開発に着手することにした。何年も試行錯誤を続け研究、改良を重ねた結果、ついに海雲は国民的飲料となる乳酸菌飲料を生みだすことに成功した。これが「カルピス」である。カルピスは蒙古民族の不思議な乳飲料をヒントにつくられたのだ。

1923年(大正12年)9月1日、関東地方を襲った大地震は、家屋全壊13万戸、死者10万人の被害を出し、ことに東京の下町一帯は火災により一面、焼け野原と化した。その時、海雲は渋谷・恵比寿のカルピス本社でこの大地震を経験したが、運のいいことにこの一帯はほとんど被害を被むらなかった。だが、東京の大半は見るも無残な状態。水道が止まって飲み水もままならない。至るところに避難民が溢れた。飲料水の不足を放っておくと、地震、火事の不幸に続いてもっと恐ろしい疫病が蔓延しかねない。

幸いカルピス本社の山手方面では水道の損傷が少なく水が出た。そこで海雲は自分で出来ることは何かを考え水を配ることにした。それもせっかく水を配るのであれば、氷とカルピスを入れて美味しく配って上げようと思いつく。金庫のあり金2000円を全部使い、トラック4台を調達し、翌日の9月2日に東京中に配って回った。この行動の早さには脱帽であるがたちまち大反響となった。

ところがこの海雲の行動を一部の新聞は広告といえども感心であるといった内容の記事を書いた。しかし海雲はこの時の行動をこう述べている「私はカルピスを配ったら広告になるなどという気持ちは微塵もなかった。困った人達を助けたいという、全く純真な、人間としての衝動からだけである。しかしそれが新聞の言うように広告として効果を上げたとしたら、行動に対する天の報酬であったと言うべきであろう。われわれの真心から出た、言わば本能的な行動が、結果として企業にプラスに働いたのである」この震災でカルピスは広く知られることになったが、震災20年経ってから某省の高官が海雲にこう言ったという「私はカルピスのことなら、喜んでどんなことでも協力いたしましょう。それは震災の時に、上野でもらった一杯のカルピスのうまさが忘れられないからです」

カルピスといえば「初恋の味」のキャッチフレーズがあまりにも有名であるが、キャッチフレーズだけで国民に愛飲されるようになったわけではないことがお分かりいただけるであろう。

文責 田宮 卓 



参考文献
青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社
日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人Ⅱ」 日経ビジネス文庫
山本健治 「名創業者列伝」 経林書房
島野盛郎 「食を創造した男たち」ダイヤモンド社
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  1. 2011/03/30(水) 17:02:01|
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大谷米太郎(ホテルニューオータニ創業者)

大谷米太郎(おおたに・よねたろう)略歴
1881年~1968年(明治14年~昭和43年)ホテルニューオータニ創業者。富山県西砺波郡正得村(現小矢部市)生まれ。明治44年上京して荷揚げ人足を経て相撲界に入る。大正2年鷲尾獄酒店を開業。大正4年合名会社東京ロール旋削除を設立。昭和15年大谷重工業設立。以降、他分野に進出したあと、昭和39年ホテルニューオータニ設立。昭和37年富山県立大谷技術短期大学創立。86歳で没。著書に「私の履歴書」(日本経済新聞連載、昭和39年3月)

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大谷米太郎(ホテルニューオータニ創業者)語録 http://bit.ly/n1BikV





大谷米太郎の知られざる逸話

平成23年3月26日
題名:「裸一貫から巨万の富を築いた傑物」



「私の人生は、よく他人に七転び八起きの人生のように言われるが、外見には波乱に富んだ人生のように見えても、私自身としては階段を一段一段上がっていったもので、私は未だかつて転んだことはない」大谷米太郎(おおたによねたろう)

大谷米太郎(おおたによねたろう)(明治14年~昭和43年)は1881年(明治14年)、富山県の現小矢部(おやべ)市で生まれた。父は小作農で、暮らしは貧しく米太郎は小学校を休んで他家へ農作業の手伝いにいかなければならず、冬場は造酒場で働いた。このため小学校の退学を余議なくされた。

米太郎は学問を身につけることは出来なかったが、体は人一倍大きく草相撲では横綱格であった。父が死去してからは小作農を続けながら一人で母、弟一人、妹5人の大家族を支えた。米太郎は丈夫な体を活かし懸命に働くが暮らしはさっぱり楽にならない。そこで「東京に行って金をためよう」と決意し、わずか20銭の所持金を持ち東京に出てきた。米太郎31歳の時である。既に結婚もして子供も二人いた。もちろん東京で知り合いなど誰もいない。働くところを探したが保証人がいないため日雇いの荷揚人夫(にあげにんぷ)をするしかなかった。体力だけは人一倍ある米太郎は懸命に働き、その後、米屋や酒屋などで寝る間も惜しんで働いた。そしてついに自分で酒屋を開業するまでになり、さらに鉄製品をつくる元となるロール工場を開設するまでになった。裸一貫、貧農の郷里から出て来て自力でここまできたのだから快挙といえるであろう。

ところが米太郎に一瞬のうちに災難が降りかかる。1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災である。家屋の全壊13万戸、死者10万人の被害を出し、こと東京下町一帯は火災により一面、焼け野原と化した。米太郎のロール工場も焼け落ち、酒屋も全焼した。女房、子供を探したがいない。ひどい惨状を目の当たりにしまず生きていないだろうと諦めたという。

しかしこの絶望ともいえる状況で普通ならばショックで力が抜け落ちるであろうが、米太郎は違った「まあ、仕方がない」と思うだけで直ぐに頭を切り替え、なんと翌日から工場と店の再建に取り掛かった。焼けた店をシェベルで炭をかき出し3日目にはバラックを建てた。それから3ヶ月、店跡に残ったコンクリートの土間の上にゴザを敷きそこで寝起きをして働き続けた。すると死んだと思っていた女房、子供たちもひょっこり戻ってきた。聞くと上野の山から川口の知人宅に逃げていたという。それから夫婦で力を合わせて寝る間も惜しみ死にもの狂いで働いた。焼け跡で飲食店をはじめ、一杯50銭の「均一どんぶり」を売った。続いて雑貨屋も開く。やがて工場に放置してあった「焼けたロール」がそのまま売れるという幸運にも恵まれ工場の再建にも見通しがたつ。酒屋も飲食店も焼ける前の3倍ぐらいの大きさになっていた。

そしてこのロール工場の再建の成功がその後大きく発展することになった。関西や中国大陸にも工場をもち、1940年(昭和15年)には資本金1億1300万円。資本金の額では当時全国で9番目の会社になった。鉄鋼業の雄となり名前も大谷重工業とした。その後も精神し続けて大谷重工グループへと発展していく。

戦後は頼まれて購入していた千代田区紀尾井町の土地に東京都から「オリンピックのためのホテルをつくってもらえないか」と申し入れがあり、米太郎は「なんとかオリンピックのために役立てば」という思いで、まったく未知のホテル事業に乗り出す。1964年(昭和39年)9月1日、東京五輪開幕の40日前に地上17階、地下3階のホテルを開業した。これが現在のホテルニューオータニである。米太郎は既に83歳になっていた。その後1965年(昭和40年)には㈱上野ターミナルを、そして1967年(昭和42年)には、㈱東京卸売センターを設立して社長に就任。他方、郷里富山県に富山県立大谷技術短期大学を創設して寄付もしている。米太郎は87歳で生涯を終えたが亡くなる間際まで社長業を行っていたのだから驚きである。

米太郎は関東大震災の時のことを「私の履歴書」でこう振り返っている「今から考えてみると、この大震災が「ロール工場(後の大谷重工業)」の第一期の発展をもたらしたといえよう。(中略)人間、苦労しなければいけないのはここである。私だって、みなと同じく焼け出されているのだ。その中にあって土間で寝、真っ黒になって働いたのは、苦労の中から生まれた頑張りと、ものに動じない根性がそこにあったからだ」

3月11日の東日本大震災で家や仕事、生活基盤の全てを失った人は多いであろう。しかし体が無事であったのならば希望を捨てないで欲しい。90年ほど前に同じように震災で生活基盤の全てを失った大谷米太郎は学問もなく読み書きもあまり出来なかったと聞く、持っていたのは丈夫な体とへこたれない根性だけであった。政府の援助も人の助けも借りずに、この窮状から独力で抜け出し一代で巨万の富を築いた。鉄鋼業の雄となり日本を代表するホテルも残したのだ。

文責 田宮 卓

参考文献
日本経済新聞社 「私の履歴書 昭和の経営者群像5」
青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社
日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人Ⅱ」 日経ビジネス文庫
中江克己 「明日を創った企業家の言葉」太陽企画出版
船井幸雄 監修「ビジネスマンが読んでおくべき一流のあの選択、この決断」三笠書房
  1. 2011/03/26(土) 13:54:07|
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新井正明(住友生命元社長)

新井正明(あらいまさあき)略歴
1912年~2003年(大正元年~平成15年)住友生命保険元社長。群馬県生まれ。昭和12年、東大法学部卒業。同年住友生命保険に入社。昭和41年社長。名誉会長。90歳で没。

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偉人の名言格言 http://bit.ly/o1ny2l





新井正明(住友生命)の知られざる逸話

平成23年3月8日
題名:「挫折をばねに生きよ」
 


ここ近年、不況の影響か自殺者が増加している。なかでも就職が出来なかった学生の自殺者が増えているというテレビ報道がありなんともいたたまれない気持ちだ。就職出来なかったぐらいで何も死ぬことはないではないか。片やニュージーランドの地震で命を落とし生きたくても生きられなかった人達がいると思うとなんとも遣りきれない気持ちになる。

日本のマクドナルドの創業者、藤田田(ふじたでん)はマクドナルドを始める前に米国マクドナルド本社を訪れ、創業者であり社長であるレイ・クロックに会った。クロックは、藤田に左手を見せながらこう言った。「私の中指をごらん。第一関節からないだろう。あんたは五体満足なんだから、成功しないはずはない!」
五体満足で生まれてきたのであれば必死に頑張ればどうにでもなるはずだ。就職で挫折したぐらいどうってことはないはず。挫折をばねに頑張ればいいだけのことで、ハンディがあってもそれをばねにして生きた人達はいくらでもいる。そういった人達を見習うべきだ。

新井正明(あらいまさあき、大正元年~平成15年)という男は学校を出て住友生命へ入社した。そして入って9ヶ月で兵隊になりノモハンの戦闘に参加することになったが、運悪くこの戦闘で片足を失ってしまった。傷病兵として陸軍病院に入り、日々足が元通りになっている夢ばかりを見たという。新井26歳の時であった。苦脳の日々を過ごしたが色々の人の励ましを受け、徐々に生きる気力を取り戻していく。

旧制一高時代の友人で、小児麻痺で小さい時から足が不自由な人がいた。その彼が見舞いに来て「靖国神社に行かなくてよかったなあ」と声をかけた。この言葉を聞いて生きている嬉しさを痛切に感じたという。また他の人には葉書をもらった。葉書には英文字で「苦しみを通じて喜びへ」というベートーベンの有名な言葉が書いてあった。新井にとって一生支えとなる言葉であったという。義足をひきずって歩くのは嫌だと思っていたが、だんだんマイナスの人生をプラスに変えられるような気がしてきて生きる勇気が湧いてくる。こうした心の中での闘いが、自分を非常に強くしていったと新井はいう。

退院し住友生命に復帰した新井は片足というハンディを背負いながらも人の2倍、3倍努力し頑張った。そして新井は53歳の若さで住友生命の社長に就任する。二流の生保だった住友生命を一流の日本生命、第一生命を凌駕する大保険会社に育て上げた。


文責 田宮 卓 

参考文献
ジーン・中園 「藤田田の頭の中」日本実業出版社
伊藤 肇 「現代の帝王学」 PHP文庫
佐高 信 「ビジネスマン一日一話」 徳間文庫
城山三郎 「静かなタフネス」文春文庫
  1. 2011/03/08(火) 23:50:33|
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