偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

堤康次郎(西武グループ創業者)

堤康次郎(つつみ・やすじろう)略歴
1889年~1964年(明治22年~昭和39年)西武グループ創業者。滋賀県愛知郡(えちぐん)八木荘(やぎしょう)村生まれ。早稲田大学政経学部卒。各種の事業を始めて失敗したのち、大正7年軽井沢開発に着手。大正9年箱根土地㈱設立。昭和3年多摩湖鉄道創立。昭和20年西武鉄道設立。昭和27年衆議院議員。昭和28年衆議院議員議長。75歳で没。著書に「私の履歴書」(日本経済新聞連載、昭和31年7月)他。

関連サイト
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堤康次郎(西武グループ創業者)語録 http://bit.ly/o4yNzo
堤康次郎と後藤新平(大物政治家)http://bit.ly/ABMKsi
 




平成23年2月27日
題名:「会社や仕事を選ぶな(就職が決まっていない学生に向けて)」



大学生の内定率が約7割で4月から就職出来ない人が約3割もいるとテレビや新聞で報道されている。大手企業は採用枠が少なく倍率が物凄く高くなるためなかなか内定をもらうのが至難のようだ。しかし中堅企業やベンチャー企業では逆に採用枠があるのに学生の応募が少なく採用出来ずに困っているという。テレビのインタビューでまだ内定をもらえていない学生が答えていた。大手企業ばかりを受けて結局内定をもらえなかった。今年もう一度大手企業を受けるが、中小企業を受けることは考えていないという。何故大手企業なのかの問いに「大手の方が安定しているから」と何とも漠然とした答えである。私は職があるのであれば就職浪人などせずにまずは働くことを勧める。何故なら働かないといつまでたってもスタートラインに立てないからである。もう一年頑張って希望の会社に行ければいいが、可能性は低くなんの保障もない。就職浪人は社会にとっても本人にとっても大変なロスでもったいないことである。

私自身、守衛のアルバイトから国会議員の秘書になった経験があるが、思わぬ人との出会いや仕事の出会いは働くことでチャンスが来るのであり、働かなければ何も起こらない。希望の会社や仕事ではなくとも一生懸命働くことで道を切り開いていった人達は過去に幾らでもいる。

敗戦から2年後、就職しようにも新たに採用などする会社などない時代である。「便所掃除と風呂番ぐらいはできます」といって軽井沢のホテルに雇ってもらった男がいた。

彼は仕事にありつけたことに喜び、来る日も来る日も早朝は便所掃除、夜は風呂の掃除と与えられた仕事に没頭した。

朝の5時便所掃除をしていると、そんな時決まって顔を合わせる客がいた。その客は常連客のように来ており、そのうち客から声をかけられるようになる。「早くから御苦労だな」、「なんという名前かね」「はい駒村と申します」実は、この声をかけた客こそ西武グループの創業者、堤康次郎(つつみ・やすじろう)その人であった。当時はみな「大将」と呼んでいた。

それから風呂場でもこの大将と顔を合わすようになり、頼まれて背中を流すようになる。「どうして三助(さんすけ)ができるのか?」「はい奉公をしていた時に覚えました」「どう教えられたか?」「はい、アカを落とそうとせず、心臓に向かってこすってやると気持がいいからそうしろと教えられました」「ほう、なかなかいい勉強をしているな」とこの大将は駒村のその実直ぶりと勉強の仕方に感心したようだった。

それから数年後のある日、駒村はグリーンホテルの支配人から呼び出された。何事だろうと支配人室に出向くと、支配人に「駒村君、君が僕の後任だ」駒村は最初何を言われているのか分からずキョトンとていると、「これは大将じきじきの人事だ、有り難くお受けして粗相のないように、まあ頑張れ」

清掃員が支配人に抜擢されたのであるからホテルじゅうが大騒ぎとなったことは言うまでもない。

最後に阪急グループの創業者、小林一三(いちぞう)の言葉を紹介しよう。
「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」
 
文責 田宮 卓 

参考文献
上之郷利昭 「堤 義明の人を活かす!」 三笠書房
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  1. 2011/02/27(日) 17:37:55|
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出光佐三(出光興産創業者)

出光佐三(いでみつ・さぞう)略歴
1885年~1981年(明治18年~昭和56年)出光興産創業者。福岡県宗像郡赤間町生まれ。神戸高商卒。神戸の貿易商酒井商会を経て、明治44年、出光商会創業。昭和15年出光興産㈱に改組して社長に就任。昭和41年会長。同年出光美術館開設。95歳で没。著書に「人間尊重50年」「働く人の資本主義」「永遠の日本」他。

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出光佐三(出光興産創業者)語録 http://bit.ly/1bVqogF




出光佐三の知られざる秘話

平成23年2月20日
題名:「部下が命をかけてくれるリーダーとは」



「大事(だいじ)をなすには必ず人を以(もっ)て本(もと)となす。今、人、吾(われ)に帰するに、吾何(われなん)ぞ棄て去るに忍びんや」三国志

蜀(しょく)に向かう劉備玄徳(りゅうびげんとく)を慕って多くの人が付き従ってきたが、曹操(そうそう)の追撃が厳しい。無事に蜀まで逃れるため、足手まといになる人々を置き去りにするように、諸葛孔明(しょかつこうめい)は玄徳に進言したが、そのときの玄徳の返答が上の言葉であった。

「大きな仕事を成し遂げるには、なによりも人間が大切である。今これだけの人々が私を慕ってついてきてくれたのだ。それをむざむざと見捨てて行けるか」という意味で、孔明は玄徳の器の大きさに改めて感じ入り、己の不明を恥じたとされる。

明治維新の立役者で国民的人気がある西郷隆盛は島流しにあい、その後、釈放の使いが来たとき。西郷はそばの島に流されている後輩の村田新八(しんぱち)を、藩命を無視して助けた。村田のところには釈放の使いが来ていなかった。そこで西郷は自分を連れに来た釈放船を村田のいる島に強引につけさせ、村田を救出したのである。無論これは越権行為であった。

しかし西郷には「同じことをしたのに村田を置いたまま自分だけ助かるわけにはいかない」と思った。村田は感動し「これからは、西郷さんのために俺は命を棄てる」と決意したという。

西郷はこういう温かい大きな心を持っているからこそ、命をかけてくれる部下がおり国民的人気があるのであろう。

日本の経営者にも昔は劉備玄徳や西郷のように心の大きな人がいたが最近はめっきり少なくなったかもしれない。こういう経営者の代表ともいえるのが、出光興産の創業者、出光佐三(いでみつさぞう、明治18年~昭和56年)であろう。
 
空襲で完全に焦土化した東京のど真ん中、銀座近くにあった出光興産の5階建て社屋は1階が焼けただけで奇跡的に残った。終戦からちょうど1ヶ月目、その2階に店主出光佐三と、東京在住の重役たちが集まった。今後の会社のことを話し合うためである。

明治44年(1911年)に出光佐三(いでみつさぞう)が創業した出光石油は、戦時中は、朝鮮、満州から華北、華中、華南、南方地方地域まで、手広く営業活動を行っていたが、敗戦でその拠点の全てを失った。投じた資金も無に帰した。残ったのは250万円ほどの借金だけである。

一方、内地にあった営業施設は、政府の統制機関に接収されたままで、出光の自由にはならなかった。つまり、この時の出光は、仕事の口を全て奪われた、いわば開店休業の状態であったのである。

敗戦とともに海外基盤が全て吹き飛びそこから800人もの社員が引き揚げてくる。殆ど仕事のない状態では、その人たちに給与を払っていくことは出来るわけがない。「大量解雇はやもえない」という意見が幹部の中で飛び交ったのは当然であった。
しかし黙って重役たちの話を聞いていた出光佐三は目を開き言葉を発する。
「私は、君らの意見に賛成できない。馘首(かくしゅ)してはならないと思う。特に海外から引き揚げてくる者を整理しようとする考えには、反対だ」視線が、佐三に集まり、釘付けになった。

「彼らがどんな気持ちで、危険な外地へ出て行ったのかを、今一度思い起してほしい。会社を信用すればこそだろう。万が一の時には、会社が骨を拾ってくれるという気持ちがあったから、危険を顧みなかったのだ。文句を言わず、よく行ってくれたと私は今でも、彼らに感謝している。そういう人達を首になど、私にはできん」しかし「首を切らなければ、共倒れですよ」となお粘る幹部もいたが、佐三は一歩も引かない。「社員はみんな家族のようなものだ。きみらは、食い物が足らんからと、家族の誰かを追い出したり、飯をやらないようにしようと言うのか。そんな薄情なことができるのか。事業は飛び借金は残ったが、会社を支えるのは人だ。これが唯一の資本であり今後の事業を作る。仕事がないなら探せばいい。仕事をつくればいい。それをせずに、安易に仲間の数を減らして、残った者だけで生き延びようとするのは卑怯者の選ぶ道だ。もしその努力をみんなで精一杯やって、それでも食っていけなくなったら、その時は、みんな一緒に乞食にならおうじゃないか」

佐三の思いはただ一つ。内地と併せて1000人になる社員とその家族を、荒波の中に放り出すことが出来ないということであった。どんなことをしてでも、石にかじりついてでも、みんなを食べさせていかねばならぬ、この一念に凝り固まっていたのであった。
 
翌日から佐三自らが仕事探しに奔走した。電気の修繕、農業、漁業、印刷、醤油や食酢の製造。ラジオの修理、販売、業種や仕事内容には拘らない。石油統制が解除になるまで社員一丸となって歯をくいしばって頑張った。極めつけきが旧海軍のタンク底に残る石油回収であった。戦後放置してあったタンクは雨と泥をかぶり、ガス爆発の危険を伴う汚れ仕事。担い手のない作業だが「誰かがやらねばならない仕事」と引き受けた。全国8ヶ所での作業は一年数ヶ月を要したが、難作業の完遂は社員に自信を与え、自助の精神を植え付けた。以後、困難に直面した時「タンク底に帰れ」が出光社員の合言葉になる。

安易に整理解雇がされる昨今とは対極的だが出光興産は出光佐三のもと社員全員が結束して命がけで危機を乗り越えていった。

以上
文責 田宮 卓
参考文献
辻本嘉明 「馘首はならぬ仕事をつくれ」叢文社
日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人」 日経ビジネス文庫
船井幸雄 監修「ビジネスマンが読んでおくべき一流のあの選択、この決断」三笠書房
  1. 2011/02/20(日) 06:18:20|
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後藤新平「人材育成」

後藤新平(ごとう・しんぺい)略歴
1857年~1929年(安政4年~昭和4年)都市計画の先駆者。南満州鉄道総裁、外務大臣、東京市長歴任。陸中国胆沢郡塩釜村(現岩手県水沢市)生まれ。1874 年福島県須賀川医学校に入学。1881年愛知県医学校長兼病院長。1890年ドイツに留学。1892年帰国。内務省衛生局長に就任。1898年台湾総督府民政局長、後に民政長官に就任。1906年南満州鉄道初代総裁に就任。1908年逓信大臣に就任。初代の鉄道院総裁を兼務。1916年内務大臣兼鉄道院総裁。1918年外務大臣就任。1920年東京市長就任。1923年内務大臣兼帝都復興院総裁に就任。関東大震災から帝都をいち早く復興させてその名を歴史に残す。71歳で没。

関連サイト
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後藤新平語録 http://bit.ly/wDs74n
後藤新平の知られざる逸話他
■ベンチャー企業を支援した政治家後藤新平 http://bit.ly/ACJzyp
■関東大震災から帝都を復興させた政治家(全7話)http://bit.ly/wnpLA4





後藤新平の知られざる逸話

平成23年2月11日
題名:「最大の経済対策は人を育てることである」



「人は無限大に能力を発揮する可能性を秘めている。だからこそ最大の経済対策は人を育てることである。」

後藤新平(ごとうしんぺい)(安政4年~昭和4年)という政治家は実に多くの実業家を育てたがその功績が語られることがあまりない。単純に研究者や作家で実業家を育てたという視点で後藤新平を捉えた人がいなかったからであろう。

後藤は内務大臣、外務大臣、東京市長等を歴任し行革と都市政策の先駆者としての功績で名を残しているが、ある時、後藤は「金を残して死ぬのは下だ。事業を残して死ぬのは中だ。人を残して死ぬのが上だ」と語ったとされる。この言葉通り後藤は多くの実業家を後世に残した。

後藤の関与を受けた実業家を上げればきりがないが、西武王国を築くルーツとなる軽井沢の沓掛(くつかけ)地区の開発を「今は経営者にしても気宇広大な奴がおらん。この軽井沢あたりも君のような若い者が50年ぐらいの計画で開発したらいい」と、堤康次郎(つつみやすじろう)(西武グループ創業者)に勧めたのは後藤であった。堤がまだ30歳にも満たない時である。

読売新聞の再建を頼まれた正力松太郎(しょうりきまつたろう)を支援したのも後藤であった。正力に「10万円(今なら数億円)貸してほしい」とお願いされた後藤は「新聞経営は難しいと聞いている。失敗しても未練を残すなよ。金は返す必要はない」と言い10万円をポンと貸したという。当時、正力は政治家のことだから、どこかから都合したのだろうと思った。しかし、後藤の死後、実は後藤が自宅を抵当に入れ、無理して借金をした金であることを遺族から聞かされて知ることになり、正力は号泣したという。

後藤は元々医者であったことから医薬産業に携わる実業家も育てた。星一(はじめ)が星製薬株式会社を設立するのを支援し、漢方薬の津村順天堂(現ツムラ)の創業者、津村重舎(つむらじゅうしゃ)を可愛がった。

また神戸のベンチャー企業、鈴木商店の番頭、金子直吉(かねこなおきち)の支援もした。後藤が台湾総督府民政長官の時、台湾の樟脳油65%の販売権を与え、鈴木商店大飛躍のきっかけをつくった。鈴木商店は三井、三菱と肩を並べるほどの大商社に発展する。 

しかし鈴木商店は昭和2年の金融恐慌の煽りを受けて倒産してしまう。だが鈴木商店が関係した会社は今も健在しているものが多く、神戸製鋼所、帝人、日商岩井(現双日)、豊年製油(現J-オイルミルズ)、石川島播磨(現IHI)、クロード式窒素工業(現三井化学)、帝国麦酒(現サッポロビール)等、全て金子が種を蒔いた事業である。

そして金子はまさに後藤の言葉通り「人を残して死んだ」実業家であった。金子の薫陶を受けた人は、高畑誠一(旧日商岩井の創業者)、大屋普三(帝人社長、吉田茂内閣の商工大臣、運輸大臣歴任)、杉山金太郎(豊年製油【現J-オイルミルズ】)社長、田宮嘉右衛門(神戸製鋼所の実質的創業者)、北村徳太郎(播磨造船所【現IHI】支配人、芦田均内閣の運輸大臣、大蔵大臣歴任)等、実に多くの人を育てた。

後藤が育てた人からまた人が育ち、今日に至るまで経済や雇用や税金の面で貢献する会社が数多く残った。

1938年(昭和13年)、総力戦遂行のため国家のすべての人的、物的資源を政府が統制運用できる旨を規定した「国家総動員法」が制定された。それと同じくして限られた資本と、少ない資源で出来るだけ多くのモノを作ろうと考え規格大量生産体制が確立される。官僚主導であらゆる生産が規格化された。これらの体制は国の資源や労働力のすべてを戦争目的のために仕向けるために作られたものであった。

さらに教育で規格大量生産体制に適した人材をつくることが行われた。学校制度を拡げ、規格大量生産の現場に適した「協調性と辛抱強さに富み、個性と独創性の乏しい」人材の養成を行なったのだ。

そして戦後は敗戦の原因の一つに物量戦で負けたという考えがあり、規格大量生産体制に適した人材育成により力を入れられた。試験勉強で同じ知識を詰め込み、「協調性があり、個性や独創性が乏しい」人材を育てた。こうした人材が大手企業に集まり、官僚主導のもと、規格大量生産体制が実現し日本の経済は見事に復興を果たすことが出来た。

規格大量生産体制のもと、大量生産、大量販売を原理に生産コストを下げ売値を下げ大量に販売をしていく。このことを「規模の経済」というが、これが発揮されるのが自動車業界、鉄鋼業界、電機業界になり、これらの業界が戦後の日本の経済発展に大きく貢献したことは誰もが認めるところであろう。日本人は世界で最も規格大量生産体制に向いた国民であったといえる。

しかし地球の資源は有限である。環境破壊を土台に成立する規模の経済化は限界に来た。21世紀は規模の経済を追求しなくても利益を出せる体制を確立する必要が出てきた。そのためには今度は「個性や独創性」があり自ら仕事を創り出せる人材が必要になってきたといえよう。

ところがここ最近ずっと政治や政府が行ってきたことは無駄な公共事業や天下り先となる特殊法人や外郭団体を作ることであって人を作ることを怠ってしまった。その付けが今一気に来てしまったといえる。

菅総理は6月までに財政、社会保障、税制の議論をして纏めたいと言っているが、同時に人を育てることの議論も行ってほしいものである。本当の意味での経済対策をこれ以上ほったらかしにしてはいけない。 

 文責 田宮 卓

参考文献
堺屋太一 「次はこうなる」 講談社
小島直記 「伝記に学ぶ人間学」竹井出版
郷 仙太郎 「小説 後藤新平」 人物文庫 学陽書房
桂 芳男 「幻の総合商社鈴木商店」 現代教養文庫
野口悠紀雄 「1940年体制」 東洋経済
  1. 2011/02/11(金) 21:03:10|
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伊庭貞剛(住友総理事)

伊庭貞剛(いば・ていごう)略歴
1847年~1926年(弘化4年~大正15年)住友合資第二総理事。1月5日近江(滋賀県)生まれ。明治12年司法省から住友入りし、大阪本店支配人。1890年、滋賀県選出初の衆議院議員。別子鉱業所支配人を経て、明治33年に住友総理事。鉄剛への進出をはじめ、産業勃興期に住友財閥の基礎を築いた。明治37年、57歳で隠退。79歳で没。

関連サイト
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伊庭貞剛(住友総理事)語録 http://bit.ly/yclx5z




伊庭貞剛の知られざる逸話

平成23年2月3日
題名:「幹部社員育成の要諦」



どの経営者も頭を悩ませることの一つは次に会社を背負っていく人材をどう育成していくかということであろう。どうすれば人は育つのか、私はまず経営者が社員に信用されることではないかと思う。このことなくしてどんな社員教育も無意味であろう。

不祥事が起きると社長が「私は何も知らなかった」「社員が勝手にやったこと」とテレビの前で平気で語るシーンを見ることがあるが、こういう会社で人材は絶対に育たない。たとえ優秀な社員がいたとしても、とっとと見切りをつけて他の会社に移ってしまうだろう。

住友グループの礎を築いた第2代総理事の伊庭貞鋼(いばていごう)(天保8年~大正15年)は部下が持ってきた書類に目を通さずに判を押すことで有名であった。しかし判を押すが責任はとらないというのではない。ことごとく判を押すが一度押した書類については絶対に責任をとったといわれる。

この書類を見ないで判を押したことで何が起きたかといえば、住友グループの礎を築く人材が次々と育ったのである。部下は何を書いても判を押してもらえる。しかし、不備な書類のために問題が起きれば全て伊庭(いば)さんが責任をとらなければいけなくなる。これでは申し訳ないということから、どうせ判を押してもらえると分かっていても、部下たちは一生懸命調査や準備をし、絶対に間違いのないよう書類を書いた。そういうことから、おのれ自身が最高意思決定者のような立場で、仕事をする習慣ができ人材が育っていったのである。

愛媛県の別子銅山の運営だけを長年生業としていた住友であったが、伊庭が総理事に就任すると住友銀行(現三井住友銀行)を創設した他、現在の住友金属工業、住友軽金属工業、住友電気工業、住友林業の前身となる事業や住友倉庫を設立するなど、育てた人材とともに現在の住友グループの土台を築いた。

日本商工会議所の会頭、新日本製鐵会長を務めた財界の大御所、永野重雄(ながのしげお)(明治33年~昭和59年)の秘書を務めた武田豊(たけだゆたか)(大正3年~平成16年)は永野に富士製鉄時代(後に八幡製鉄と合併し新日本製鐵)、秘書課長に抜擢された時にこう言われたという。「武田君、秘書という仕事はうまくいったって誰からも褒められない。失敗したって誰も助けてくれない。社員たちは妬みを込めていうだろう。「秘書の奴め・・・」。「重役の奴め!」とはいわないんだ。重役は最終目標のシンボルだから、その権威を傷つけようとは考えない。しかし、秘書は役員ではない。重役への反抗心が往々にして秘書に向けられやすい。だから、君は四面楚歌(しめんそか)に陥って袋叩きにされるかもしれない。だが、どんな場合でも、俺だけは君の味方であることを心に刻みつけておいてくれ」

武田は永野のこの言葉に感激したという。「兵を営んで死地へ飛び込ませるのは、名将の一つの資格だといわれるが、私はこの時、永野の馬前に討死する覚悟を決めた」と述懐する。武田はその後、永野の名秘書として使え死ぬまで二人の師弟関係は続いた。そして武田も新日本製鐵の社長となり会社を背負っていく立場となった。


文責 田宮 卓

参孝文献
小島直記 「伝記に学ぶ人間学」竹井出版
伊藤 肇 「社長の決断」 徳間文庫
日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人Ⅱ」 日経ビジネス文庫



 
  1. 2011/02/03(木) 22:58:40|
  2. その他
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