偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

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岩田弍夫(東芝元社長)

岩田弍夫(いわた・かずお)略歴
1910年~1992年(明治43年~平成4年)東芝元社長。2月18日愛知県生まれ。昭和9年東大法学部を卒業。同年、東京電気(現・東芝)に入社。昭和51年、社長に就任。不採算部門の見直し、関連会社の経営刷新などで同社の基盤を強くした。昭和63年、日本たばこ産業の初代会長。82歳で没。

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岩田弍夫(東芝元社長)の知られざる逸話

平成23年1月23日
題名:「その場で日本一になれば必ず道は開ける」
  

 
「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」これは阪急グループの創業者、小林一三(いちぞう)の言葉であるが私はこのフレーズが好きである。昔のあらゆる実業家、経営者の人生を調べてきたが道を切り開いて来た人のほとんどが、不本意であっても与えられた職場で何かを掴み次のステージに進んでいる。この生き方は現在にも通じることだと思うが、状況によっては環境を変えた方がいい場合、環境を変えて成功するケースもあるだろう。しかし先人のケースを見る限りはほとんどのケースが逃げ出さずに、その場で何かを掴みとり這い上がってきている。

1934年(昭和9年)、岩田弍夫(いわたかずお)という男は東京大学法学部を卒業した。成績があまり良くなかったことから官吏や財閥系の企業への就職は諦め、東京電気という会社に入社した。後に芝浦製作所と合併して東京芝浦電気(現東芝)となるが当時はエレクトロニクスが産業の中心になるとは誰も予測は出来なかった。

岩田は早くからプリンスと言われ注目された。トントン拍子に出生をしていき重役候補である本社の部長まで登りつめたが、歯に衣きせず思ったことをずばり言う性格が災いし、幹部と激突して左遷をくらってしまった。本社の部長から子会社の副部長への降格であった。上司は岩田の性格を気に入らず放り出したのだが、岩田はもう辞めてしまおうと辞表を認めた。しかし先輩に「理想の職業など、最初からあるものではない。それは自分でつくりだすものだ」と説得され破棄する。

そして心機一転新たな職場で真面目に働きはじめた。廻りからは岩田は再起不能と見られていたが、元々得意であった経理、財務のスキルを東芝で誰にも負けないぐらいになろうと徹底的に磨いた。それから数年が経つと東芝本体が一時財政危機に陥る。すると今度はこの危機を救えるのは岩田しかいないということになり、急に本社に呼び戻され財務部長に抜擢された。そして東芝の財務を立て直した岩田は同期で一番で取締役になる。その後2年で常務を飛び越え専務に昇進。4年後に副社長とスピード昇進していき、あれよあれよという間に社長にまで登りつめた。

1912年(大正元年)、原安三郎(はらやすさぶろう)という男が早稲田大学商学部を首席で卒業した後、日本化薬の前身である日本火薬製造会社に入社した。化学会社に就職したのに、配属された先が飯場の炊事係であった。思ってもなかった職場であるが原という男は腐らず逆に徹底的に勉強した。米の仕入れ一つにしても「どこの米がうまいか」「米の値段にどういう違いがあるのか」「品質の違いとどう関係があるのか」「どういう流通経路で来るのか」「肥料には何をつかっているのか」等々、調べる気になれば勉強する材料はいっぱいあった。そして、勉強していくと、次から次へと、また勉強の材料が出てくる。最初はつまらないと思っていた日々の仕事にもはりが出てきたと言う。

この原という男は後に日本化薬の社長にまで登りつめる。1935年(昭和10年)に同社の社長になると会長になるまでの38年間社長を務めるというレコード記録まで作る。また幾多の経営不振の会社を再建し、「会社更生の名医」と賞賛された。1970年(昭和45年)には勲一等瑞宝章を受賞する。 


文責 田宮 卓

参考文献
ビジネス哲学研究会【編著】 「心に響く名経営者の言葉 決断力と先見力を高める」PHP
伊藤 肇 「瀬戸際で問われる経営者の倫理」ごま書房
城山三郎 「打たれ強く生きる」 新潮文庫
城山三郎 「静かなタフネス」文春文庫
城山三郎 「サラリーマンの一生 対談」 角川文庫
城山三郎 「ビジネス・エリートの条件」 講談社文庫
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  1. 2011/01/23(日) 06:33:12|
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土光敏夫

土光敏夫(どこう・としお)略歴
1896年~1988年(明治29年~昭和63年)東芝元社長。石川島重工業(現IHI)元社長。経団連第4代会長。岡山県生まれ。東京高等工業(現・東京工業大学)卒。同年東京石川島造船所に入社。昭和25年石川島重工業社長。昭和40年東京芝浦電気(現・東芝)社長。昭和49年経団連第4代会長に就任。昭和56年第二次臨時行政調査会会長。昭和58年行革審会長。横浜市鶴見区の自宅から社長時代もバスと電車で通勤していたといわれる。91歳で没。著書に「経営の行動指針」


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土光敏夫の知られざる逸話他
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土光敏夫語録集
経営編 http://bit.ly/ArNdyD
仕事編 http://bit.ly/oiNTxb





土光敏夫の知られざる逸話

平成23年1月7日
題名:「再建時に必要なトップの条件(公明正大)」



会社であれ、行政であれ、再建、改革をするのにトップに立つ人間が最も必要とする要素は公明正大さである。まして痛みを伴うものであればトップに一点の曇りもあってはならない。そのお手本となる人物で真っ先に名前があがるのは土光敏夫(どこうとしお)であろう。 

土光敏夫(どこうとしお)(明治29年~昭和63年)は石川島播磨重工業(現IHI、)東芝の社長となり再建を成功させ第4代経団連会長を務めた後、臨時行政調査会会長に就任「増税なき財政再建」を基本理念とした最終答申を出して解散後、臨時行政改革推進審議会の会長を務めた。財界の頂点に君臨した男であったが、横浜市鶴見区の自宅は古色蒼然とした平屋でとても財界人の家とは思えなかった。質素な生活は有名で経団連会長時代でも月10万円で過ごしたという。社長になってもバスと国鉄(現JR)で会社まで通勤した。贅沢をすることはなく歯ブラシも戦前から50年以上使っていたといわれる。土光ほど公明正大で公私混同がなく私欲のない男はいなかった。だからこそ従業員もついてきて会社の再建を成し得たといえる。

1954年(昭和29年)4月、土光に思わぬ災難が降りかかってきた。政財界を震撼させた造船疑獄事件を起きて、土光は東京地検に逮捕された。石川島重工業社長であり日本造船工業会副会長だった土光は、飯田海運にリベートを贈り、そのリベートが時の自民党幹事長佐藤栄作(後に首相)に渡ったという容疑であった。造船疑国事件は、海運、造船業界ぐるみで政界と癒着した典型的な構造汚職であり、検察側が取り調べた政・官・財界人は8200余名にのぼり、逮捕者は100名を超えた。

当時、造船会社から海運会社へのリベートを支払うのは慣例となっており、しかもリベートは、会社の正規の帳簿には載らず、決算の対象にはされない。いわゆる裏経理、裏勘定の扱いであった。従って、会社社長や幹部たちが、政界への贈賄資金に当てようが、私腹を肥やそうが、まったくの自由であった。しかし土光にとってこの逮捕は不当であった。私生活をみてもとても私腹を肥やすとは考えられない。

4月2日午前6時半、東京地検の捜査官は横浜市鶴見区の土光宅にやってきた。土光の寝込みを襲う作戦であったのだ。ところが検事は土光宅を見て驚く「これが一流企業の社長の家か」門を叩くとエプロン姿の女の人が出てくる。検事はてっきりお手伝いさんだと思い「奥さんか社長さんはいませんか」「私が土光の家内ですが何か・・・」「社長にお目にかかりたいのですが」「主人は出かけたばかりでいません」「?」検事たちは青ざめた。てっきり捜査の手が伸びたのを感づかれて逃げられたと思ったのである。「どこに行きましたか」口調を厳しくする。「会社です」「えっ、こんなに早く、会社に車で・・・」「とんでもない。今出かけたばかりですから、近くのバス停でバスを待っているかも知れません」検事たちは慌てて近くのバス停に向かった。そこに土光は立っていた。それが石川島重工業の社長だとは信じられなかった。土光はバスで鶴見駅まで出て、国鉄に乗り換えて東京駅まで通勤していたのである。この土光の姿をみて検事は「この人はやってないと直感した」という。

だが、土光は逮捕され拘置所に21日間収容される。東京拘置所に収監された土光は厳しく取り調べられたが、質問に対しては毅然として迎合せず必要なことを的確に述べる。まことに立派な態度であったという。

土光は当然不起訴となったが「ボクは何も悪いことをしていないから、家宅捜索を受けようが身柄を拘束されようが全く不安はなかった」「しかし人生どんな思いがけない出来事が待ち受けているかわからない。日ごろから厳しく公私のけじめをつけ、いやしくもその行動を疑われるようなことがないようにしなければならない」この事件以来、土光は公私の区別をより厳しく行うようになった。

東芝は名門意識からくる奢りから経営が傾いていた。そこで再建を期待され土光は1965年(昭和40年)に社長に迎えられた。

前任の社長は11時出社するは、業者からリベートはもらうはで社内のムードは沈滞ムードであった。企業は人なりというがまさに土光が社長に就任すると大企業病が蔓延していた東芝の空気は一変した。

土光は就任早々の訓示で経営の責任は社長にあることを明言し「社員はこれまでの3倍頭を使え、重役は10倍働け。自分はそれ以上に働く」と宣言。土光は宣言通り誰よりも働いた。

まず土光は必ず7時には出社した。会社の始業時間は、9時から夕方5時までである。朝の7時から始業時間の9時までは「誰でも自由に俺の部屋に入って来い」といってオープンにした。実際に役職のない平社員でも来れば大真面目に話し合った。土光は自分が早朝出勤しても決して部下には強制しなかったが、社長が7時に来ているのに部下たちが9時に出社するわけにはいかない。自然と重役や幹部社員の出社時間も1時間ないし2時間近く早まったといわれる。土光は自ら率先垂範することで東芝から「重役時間」を追放してしまった。 

社長に就任して間もなくすると、ある専務が「石川島の造船所をみたい」と、土光にいった。「よし、今度の日曜日にボクが横浜造船所を案内してやろう。朝9時に、造船所正門の前で待っている」その専務は、東芝の社用車を自宅に呼んで現地へ向かった。ところが、土光は一足先に自宅からバスと電車で造船所に着き、門の前で待っていた。専務は「石川島の造船見学も、仕事のうち。まして日曜日に出かけるのだから、会社の車を使って当たり前」と考えていたのである。ところが土光は違った。「ボクは、石川島の役員も兼務しており、造船所に行くのは仕事といえるかも知れない。しかし、今日の工場見学はあくまでも個人的なもの。私用なのだ。そんなことに、会社の車を使ってはならない」と判断したのであった。

これを知った東芝の全役員は、土光の公私の峻別を目の当りにして震え上がった。以来、公私混同をしていることの多かった東芝の社風が改まった。役員の専用者も、合理化した。「重役が乗らないときは、部長に使わせろ。一日に一時間も乗らないのに、一台あてがう必要はない。そんなことをするから、公私混同するのだ」土光の裏も表もない徹底した公私混同のない姿を見て、もはや誰も後ろ指を指す人はいない。社長の姿を見て勝手に合理化は進んでいった。業績は回復していき土光は東芝の黄金時代を築いていく。
 
組織を再建、改革する時にトップは公私において一点の曇りもあってはならないが、一つだけ土光に注文をつけるならば、質素な生活はいいが財界のトップがこれでは下の者が夢を持てない。成功した後は多少の贅沢をしても良かったのではなかろうか。

文責 田宮 卓

参孝文献
佐藤正忠 「わが戦後財界秘史①身命、果てるとも」経済界
志村嘉一郎「土光敏夫21世紀の遺産」
宮野 澄 「土光敏夫次世代へ申し送りたく候」PHP
小堺昭三 「人望 この人間的魅力を見よ!」三笠書房
三鬼陽之助 「東芝の悲劇」 光文社
  1. 2011/01/07(金) 22:13:33|
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