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偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

高畑誠一(双日創業者)

高畑誠一(たかはた・せいいち)略歴
1887年~1978年(明治20年~昭和53年)現・双日の創業者。愛媛県生まれ。1909年神戸高商(現神戸大学)卒。鈴木商店に入社。20代後半でロンドン支店長。15年間ロンドン在勤のあと1926年帰国。一年後に鈴木商店倒産で日商設立。この日商が後の日商岩井、現双日となる。本国を介さない三国間貿易を日本人として最初に始めた商社マンとしても知られている。91歳で没。

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高畑誠一(双日創業者)語録 http://bit.ly/qMzDWZ

高畑誠一(双日創業者)の逸話他
■「失敗を肥やしに」http://bit.ly/zyoCMT






高畑誠一の知られざる逸話

平成22年12月25日
題名:「苦境の時にも志を失わないのが本物の経営者」




「資源のない日本が世界に伍していくためには、工業と貿易の興隆が不可欠。それは日本にとっても海外諸国にとってもメリットがある」―「貿易立国日本」貿易が国を栄えさせるという揺るぎない志、信念を失意のどん底でも持ち続けた商社マンがかつて日本にいた。私は彼ほどかっこいい日本の実業家を知らない。

1909年(明治42年)神戸高商(現神戸大学)を首席で卒業した高畑誠一(たかはたせいいち)は得意の英語を活用出来る貿易商、中でも一流の三井物産への就職を希望したがこの年不景気で三井物産は採用を行っていなかった。結局、神戸高商の水島校長の勧めがあり神戸の新興ベンチャー鈴木商店に就職することになった。水島校長が鈴木商店の大番頭金子直吉と親しかったことがあり鈴木商店への就職を勧めたのであろう。

入社してから高畑は猛烈に働き、得意な英語をさらに磨いて鈴木商店では一番の英語力を身につけるまでになり一目置かれるようになった。25歳の頃、英語力を買われ当時世界の政治、経済、金融、商業の中心地であった英国のロンドン支店に配属される。ここで高畑はメキメキと頭角を現す。

金融、産業などの経済問題はもちろん、国際政治の動き、天候にいたるまで情報収集を活字だけではなく、得意の英語力を活かし、各国大使館の大公使、軍人、モルガン、ロスチャイルド、グレンフェル、その他多くのマーチャントバンカー筋に直接会い第一級の情報を仕入れていく。この実行力は凄い。この情報収集の成果は第一次世界大戦が勃発した時に発揮された。

1914年(大正3年)第一次世界大戦前夜、英国人のほとんどは「欧州で戦争が始まっても、永続きしない」とみていた。しかし高畑は欧州の世論、社会情勢のほか、情報収集を十分にした結果そうはならないとみた。開戦になったら欧州での経済、とりわけ各国の物資の調達はどうなるかといった点も考えて戦争で値上りが予想される食糧や鋼材などの物資を一早く猛烈に買い付けた。買い占めた物資は予想通り暴騰した。その物資をヨーロッパ列強に売り付けたのだ。大英帝国に売込んだ小麦粉は500万袋、満州小麦50万トンというケタ外れの取引を次々に成立させていった。  

この活躍が認められ高畑は29歳の若さでロンドン支店の支店長に就任する。その時にはほとんど無名に近かった鈴木商店は三井物産を抜き売上げ日本一の商社になっていた。

極東の小国である日本の20代の若い商社マンが世界の経済・金融の中心地のロンドンでヨーロッパ列強を相手に大型取引をどんどん成功させていったのだから驚きである。また高畑は本国を介さない三国間貿易を日本人として最初に始めた商社マンとしても知られている。

しかしいいことばかりは続かない。その後、一時は三井、三菱に並ぶほどの勢いのあった鈴木商店であったが1927年(昭和2年)の昭和恐慌の時に投機的経営が仇となり倒産してしまう。高畑40歳の時であった。当時海外の駐在員も含めて本社にざっと一千人ぐらいいたが、そのほとんどの人が、本社の斡旋で鈴木系列の神戸製鋼所、帝国人造絹糸(現帝人)などに移っていった。しかし数十人が再就職をせずに再起を期して頑張っていた。日本国内だけでなく、英国のロンドン、インドのボンベイなどの海外支店にも、これら「再起組」が何人かとどまり、残務処理を進めるかたわらで、取引先に事情を説明して、何らかの形で将来商売が再開できるよう頼みこむなど再出発の時に備えていた。この再起を目指す仲間を代表する形で高畑は新会社の設立の準備にとりかかることになる。

高畑は鈴木商店の子会社であった日本商業 を日商と改め最出発させる。鈴木商店の元従業員を中心にたった40名程でのスタートであった。「貿易が日本を栄えさせる」この志を高畑はこの逆境でも失うことはなかった。そして鈴木商店倒産の悲壮を強く味わっていたことから「スモール・スロウ・バット・ステディ」(ちっぽけで、歩みも遅くても仕方がない。堅実に行こう)をモットーに社員を奮い立たせる。元々仕事に対する情熱という点では世界のどこの商社マンにも引けをとらぬ兵(つわもの)ばかりであった彼らは一致団結し再建をはかり、会社は順調に発展していく。この日商が現代の大手総合商社、日商岩井「現双日(そうじつ)」である。



文責 田宮 卓

参考文献
日本経済新聞社 「私の履歴書 経済人15」日本経済新聞社
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  1. 2010/12/25(土) 10:12:17|
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杉山金太郎(J-オイルミルズ創業者)

杉山金太郎(すぎやまきんたろう)経歴(プロフィール)
1875年~1973年(明治8年~昭和48年)豊年製油(現・J-オイルミルズ)創業者。和歌山県出身。大阪市立大阪商業学校卒。米国の貿易会社に就職。1924年、豊年製油(現J-オイルミルズ)社長。1954年に会長。97歳で没。

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杉山金太郎語録 http://bit.ly/yasTka




杉山金太郎の知られざる逸話

平成23年12月24日
題名:「苦境の時こそ誤魔化さない(士魂商才の実践)」



「商売人は、ときとすると、駆け引きをし、嘘をつくことを商売の常道と考えがちであるがこれはとんでもないあやまちだ。世の中に立っていく以上は、士魂商才の精神を持って進まなくてはならない。」杉山金太郎 豊年製油((現J-オイルミルズ)中興の祖 

苦境になればなるほど企業は、都合の悪いことは隠し誤魔化そうとする傾向があるが これは大きな間違いである。目先、切り抜けても結局信用を勝ち得ることは出来ず逆効果であることを知るべきである。 

1924年(大正13年)、都内の三河台町の御屋敷で井上準之助(日銀総裁、大蔵大臣を歴任)は神戸の大商社となっていた鈴木商店の大番頭、金子直吉を杉山金太郎という男に引き合わせた。

関東大震災後の不況で業績不振となっていた鈴木商店の整理をすることを、メインバンクである台湾銀行副頭取の森広蔵と井上蔵相とが話合い決まっていた。

そこで鈴木商店の三大事業(他は帝国人絹・現帝人、神戸製鋼所)の一つである製油事業の会社の経営を杉山に任せることにしたのだ。杉山は紀州和歌山で百姓の子として生まれ主に貿易会社で働いていたが当時はまだ無名のビジネスマンであった。金子と会った杉山は直ぐに製油事業の会社の社長を引き受けることにした

苦境に陥っていた会社を立て直すために杉山はまずは正金銀行に融資を頼むことにした。実情を一切隠さず、ずばり助けてもらいたいと語った。銀行側に担保となるものはあるかと聞かれたが、担保物件として提供出来るものは何もなかった。そこで杉山は「私の首を担保におくから面倒を見てほしい」と懇請した。
最初は融資を渋っていた銀行だが「杉山君の人格を信頼して融資をしてやろうじゃないか」という意見でまとまり融資に踏み切ることになった。

融資を受けることに成功した杉山は製油会社を見事に立ち直らせ大きく発展させていく。この会社が製油最大手の豊年製油(現J-オイルミルズ)である。杉山は豊年製油中興の祖であり近代的製油工業の先駆者として世の中に貢献した立志伝中の人物となる。杉山は若いころから「商売人は、ときとすると、駆け引きをし、嘘をつくことを商売の常道と考えがちであるがこれはとんでもないあやまちだ。世の中に立っていく以上は、士魂商才の精神を持って進まなくてはならない」と考えこれを信念として実行してきたという。
 
先行きの見えない不況で経営者は生残るためとはいえ、苦し紛れに嘘をついたり、誤魔化したりしたくなる気持が出てくるかもしれないが、これをしてしまっては全てが終わってしまうことを知るべきである。最後に杉山の言葉をもう一つ紹介しよう。「嘘をつかなければならないような経営は心から慎め――と、企業の大小の問題ではない。長い間には、たとえ一時逃れとわかっていても、嘘をついて、その場をおさめたいときもあるだろう。しかし、それは所詮、一時しのぎの手段でしかない。いや、そのために、あとあとになって、思いがけない故障を招くかも知れない。逆に正直でさえあれば、よけいな“つくろい”をしなくてすむだけでも、いいではないか」

文責 田宮 卓
参考文献
日本経済新聞社 「私の履歴書 経済人2」日本経済新聞社
日本経済新聞社 「経済人の名言・上」 堺屋太一 監修
  1. 2010/12/24(金) 02:43:41|
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奥田硯(トヨタ自動車元社長)

奥田硯(おくだ・ひろし)略歴)
1932年~(昭和7年~)トヨタ自動車元社長。日本経団連初代会長。三重県津市出身。一橋大学商学部卒業後、昭和30年にトヨタ自動車販売入社。マニラ駐在、経理部長などを経て昭和57年にトヨタ自動車取締役。平成7年に社長。工販合併後、初の豊田家以外からの社長。グローバル戦略や国内シェア回復に尽力した。平成11年、日経連会長。平成14年、日本経団連初代会長。

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奥田硯(トヨタ自動車元社長)語録 http://bit.ly/wXRO10





奥田硯の知られざる逸話

平成22年12月15日
題名:「左遷は飛躍のチャンス」


 
久原(くはら)鉱業を創業し鉱山王の異名をとり、政界にも進出し逓信大臣、立憲政友会の総裁を歴任した久原房之助(くはらふさのすけ)(明治2年~昭和40年)は波乱万丈な人生を振り返り「人間は、一度へこたれたら、それでもうおしまいだ。ただ、へこたれるということは自分の心が決めることで、他人の決めるところではない。人が何と言おうが、自分の心がへこたれなければ、へこたれたことにはならない」

どんな状況でもへこたれたと思わなければへこたれたことにはならない。ごもっともである。明治の人は何と逞しい精神力であろうか。
 
サラリーマンにとって左遷は生き地獄であるかもしれないが、久原のようにそう思わなければ地獄ではなくなり飛躍のチャンスとなる。全ては自分の心がけ次第ということであろう。

一橋大学を卒業し豊田自販(現在はトヨタ自動車工業と合併しトヨタ自動車)に入社して経理マンとなった奥田碩(おくだひろし)(トヨタ元社長、経団連元会長)は個性が強く約束は必ず守り仕事はきちんとするが、上司に臆せずはっきり物を言うのでうとまれる存在でもあった。

1972年(昭和47年)、奥田はマニラに赴任することになった。経理部での上司との折り合いが悪く、事実上マニラに島流しにされたのだ。普通であればここでサラリーマンの人生は終わりであろう。よほどの奇跡でもなければ、本社勤務に戻され、さらに昇進することは不可能だ。

しかし奥田は落ち込むのではなくこのピンチをチャンスに変えようと必死に仕事に取り組んだ。奥田の仕事は、当時トヨタ車組立工場を経営していた地元デルタ・モーター社の未回収になっている代金の回収で、これまで前任者が誰もが成功しなかった仕事である。デルタ・モーター社のオーナーは当時のマルコス政権にも通じるリカルド・C・ルベリオ。広大な農園を所有するフィリピンきっての政商としても知られていた。ルベリオはその影響力をバックになかなかトヨタ側の支払い要求に応じなかった。奥田は考えた。「それならルベリオのバックにいるマルコス大統領と仲良くなればいい」

こうして奥田は、正面からマルコス政権との人脈を築き上げ、デルタ・モーター社に圧力をかけ、同社に湧水のように経費が流れ込んでいた経理システムを撤廃することに成功。さらに当初の計画から大幅に遅れて完成したデルタ社製エンジンの契約に対し、奥田の交渉力によって、なんとフィリピン政府から巨額の賠償金を支払わせることにも成功したのである。この話が日本にいる豊田章一郎(当時トヨタ自動車工業副社長)の耳に入った。豊田章一郎は当時、アジア開発銀行に出向してマニラに駐在していた藤本進・厚子という娘婿夫婦と初孫を訪ねて、しばしばマニラを訪ねていた。藤本夫妻から自宅に招かれていた奥田と初めて話をした豊田章一郎は、奥田のマルコス政権への人脈や仕事ぶりに驚かされる。「こんな逸材がマニラにくすぶっているのか。本社の人事は何をしているのか!」やがて奥田に帰国命令が届いた。6年半の左遷であったが本社勤務に復帰するだけでなく、豪亜部長への栄転であった。その豪亜部長を足がかりに、奥田はトヨタ社内で出世街道をひた走ることになった。
 
文責 田宮 卓

参考文献
水島愛一朗 「豊田家と松下家」 グラフ社
奥田碩/安藤忠雄共著「日本再生への道」NHK出版

 
  1. 2010/12/15(水) 09:00:42|
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浜口雄幸内閣総理大臣(第27代)

浜口雄幸(はまぐち・おさち)略歴
1870年~1931年(明治3年~昭和6年)内閣総理大臣(第27代)。土佐国長岡郡五台山(現高知市)出身。東京帝国大学卒、同年大蔵省入省(現・財務省)。1914年、大蔵次官。立憲同志会に参加し、1915年に衆議院議員に初当選し、以後6回当選。大蔵(現・財務)大臣(第29・30代)、内務大臣(第43代)、内閣総理大臣(第27代)などを歴任した。61歳で没。

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浜口雄幸語録 http://bit.ly/z8akWV





浜口雄幸の知られざる逸話

平成22年12月12日
題名:「命がけで約束を守った政治家」

 

伝記作家の第一人者、故・小島直記(こじまなおき)と財界きっての読者家といわれた故・平岩外四(ひらいわがいし)(東京電力会長、経団連会長)が雑談のなかで読書論となり、フランスの文豪メリメの作品の話になった。「カルメン」「タマンゴ」「エトルリアの壺」「マテオ・ファルコーネ」「それらの作品の中で一番お好きなのはどれですか?」と小島が聞くと「マテオ・ファルコーネです」と平岩が答えた。これには小島も思わず唸ってしまったという。何故なら小島の評価と期せずして一致したからだそうだ。

一般的にメリメの不朽の名作といえば「カルメン」であろう。私もカルメンは面白かったがそれ以外の作品は特に印象がない。「マテオ・ファルコーネ」はそんなに面白いのかと2度程読み直してみたがやっぱり良く分からなかった。コルシカ島が舞台で父親が教えを守らなかった10歳の一人息子を「裏切り者」といい銃殺してしまう話であるのだが、何でもあれだけの短編の中で「約束を守る大切さ」を教えているところがいいというのである。

あらゆる自伝、他伝を熟読している小島と財界総理といわれる経団連会長にまで登りつめた平岩の洞察だけに興味深い。人としても会社の経営をするにあたっても一番大切なことは「約束を守ることである」ということを深く感じていたからであろう。

かつて日本の政治家にも約束を守ることに命をかけた立派な人がいた。それは浜口雄幸(はまぐちおさち)元首相である。

浜口は「政治は国民道徳の最高水準たるべし」と主張していたが生き様もまさにそのとおりであった。

1930年(昭和5年)11月、浜口首相は金解禁に踏み切る前段階の財政緊縮政策として、徹底的な軍事費削減と官吏の減俸を行う。高級官僚が一割、総理自身は二割カット。しかも総理機密費はゼロ。総理警備費もゼロにした。しかしこれが仇(あだ)となり浜口はSPがつかなかったため東京駅で暴漢に襲われても彼を守るものはいなかった。この時に呟いたのが「男子の本懐だ」という有名な言葉であった。 

真正面から暴漢に3発撃たれた浜口は3回も大手術をし、一命を取りとめたが体は衰弱していた。しかし秋からの国会がずっと続いているので野党からは厳しい追及を受ける。「総理が撃たれたのは気毒だけれども、総理が国会に出られないようでは困る。総理が国会に来れない以上、政権を野党に渡せ」と要求される。これは当然の要求であったが、病状が少しよくなっていたので「今国会の会期中には必ず浜口は登壇する」と政権与党の民政党は答えた。ところが浜口の容態はまた悪化してしまい会期末まで絶対安静で起きられる状態ではなくなった。

しかし浜口は娘を枕元に呼び「おまえに最後の頼みがある。自分は国会に出る。会期中に国会に出るという総理の約束は、国民に対する約束である。出るといって出ないのでは、国民を欺く。国民との約束を総理たる者が破ったら、国民は一体何を信用して生きていけばいいのか。だから自分は言い訳などしないで、死んでもいいから国会に出て、国民に対する約束を果たす。だからおまえ、お母さんやお医者さんを口説いてくれ」と目に涙を浮べながら懇願した。娘は母親と医者を口説いて国会に送ることにしたが、医者は「命は保障できません」という。それに対し浜口は「命にかかわるなら、約束を破ってもいいというのか。自分は責任を全うしたいのだ。それで安心立命を得ようとしているのだ。邪魔をしないでくれ」と言い、靴を履くと重くて倒れてしまうほど衰弱していたが靴なしで国会に行くわけにはいかない。そこで布を靴の形に切って墨を塗り、それを足に巻きつけ靴を履いているように見せかけて国会に立ち、およそ日本の国会史上ない悲壮さで、総理としての国民に対する約束を守り通した。そして浜口はまもなく亡くなった。実に立派な政治家であったといえよう。

 
 
文責 田宮 卓
  1. 2010/12/12(日) 17:05:19|
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永守重信(日本電産創業者)

永守重信(ながもり・しげのぶ)略歴
1944年~(昭和19年~)日本電産創業者。8月、京都に生まれる。昭和42年3月、職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校)電気科卒業。昭和48年7月、28歳で日本電産株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。平成10年東証1部上場。

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永守重信(日本電産創業者)語録集
経営編 http://bit.ly/x0mBho
技術編 http://bit.ly/zBegP2





永守重信の知られざる逸話

平成22年12月7日
題名:「出資をしてもらうには(情熱が人の心を動かす)」




一流の国際的な経営コンサルタント、浜口直太(はまぐちなおと)(株式会社JCI代表取締役)の講演を先日聞く機会があった。浜口は自身の体験を語っていた。ビジネスコンテストがありそこで自ら考えた事業計画をプレゼンしたところ、審査員をしていたソフトバンクの孫正義社長が絶賛し投資をしてもいいということになった。後で孫社長に何が良かったか聞いてみたら、「浜口さんの凄い情熱だ」と言われたとのこと。確かに情熱を持って熱く語ったが、事業計画の中身は何もなかったと浜口は笑いながら話をした。浜口自身もあらゆる経営者を見ていて、事業が成功するかどうかはどれだけの情熱を持って挑むかで決まるという。

どんなにいい事業計画があったとしても、それだけでは成功することはないのであろう。ましてや資金的な協力を得ようとするならば経営者が情熱を持っていることが必須となる。

精密小型モーターの開発・製造において世界一のシェアを誇っている日本電産であるが、創業当時はどのベンチャー企業と同じように資金繰りに苦労した。創業者の永守重信(ながもりしげのぶ)はある銀行の支店長に融資をお願いするが全く相手にしてくれない。まだ創業して一年もたっていないのだから無理はない。永守は粘るがどう話をしてもだめで、最後に「どうしたら貸してくれますか」というと「中小企業金融公庫が貸してくれたら、ウチが半分貸しましょう」といってくれた。無論断り文句であるのだが。

しかし永守は直ぐに中小企業金融公庫を訪ねる。中小企業金融公庫は役所と同じである。真っ暗な部屋の中で若い職員が何しに来よったとばかりジロリと見る。横柄な態度で「おたく、まだできて一年もたってないんでしょ。公庫は、過去2期分の決算書がないと貸せないという規則です」と、あっさり断られた。

だが永守は怒鳴り出したい気持ちをこらえ、熱心に頼みこむ。二人の声は自然と大きくなる。すると、その後ろにいた調査役が「やかましいが、何をいうとるんだ」永守は同じ説明を繰り返す。答えはやはり「規則だから」の一点張り。それでもさらに粘ると次は副長、最後には支店長が出てくる。この支店長が経済評論家となる加藤廣(かとうひろし)であった。加藤は「まあ、話だけは聞こう」と、支店長室に入れてくれた。そして、今までの経過を細かく話すと「実際は規則はそうなのだが、せめて審査ぐらいは出来ないか」と、他の人を集めて説得に当たってくれた。決算書すらなかったが、結局は、取引先であったNECなどからの評判をたずねてもらい、その信用で3000万円の金を借りることに成功した。

その足で永守は銀行へ行く「支店長、公庫がOKでしたら貸してくれる約束ですよね。これが書類です」支店長は目を白黒させて驚く「本当に貸してくれたんですか?」と倒れそうになったという。ちなみにこの倒れそうになった支店長は後に日本電産で働くことになる。人との出会いめぐり合わせとは何とも不思議である。
  
文責 田宮 卓

参考文献
永守重信 「奇跡の人材育成法」PHP
  1. 2010/12/07(火) 22:41:27|
  2. 永守重信(日本電産創業者)
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土光敏夫(石川島再建)出資をしてもらうには(情熱が人の心を動かす)

土光敏夫(どこう・としお)略歴
1896年~1988年(明治29年~昭和63年)東芝元社長。石川島重工業(現IHI)元社長。経団連第4代会長。岡山県生まれ。東京高等工業(現・東京工業大学)卒。同年東京石川島造船所に入社。昭和25年石川島重工業社長。昭和40年東京芝浦電気(現・東芝)社長。昭和49年経団連第4代会長に就任。昭和56年第二次臨時行政調査会会長。昭和58年行革審会長。横浜市鶴見区の自宅から社長時代もバスと電車で通勤していたといわれる。91歳で没。著書に「経営の行動指針」

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土光敏夫(東芝元社長)のしられざる逸話他 
■再建時に必要なトップの条件(公明正大)http://bit.ly/zu2jB0

土光敏夫語録集
率先垂範編 http://bit.ly/qN4vdU
教育編  http://bit.ly/qpMifu




土光敏夫の知られざる逸話

平成22年12月6日
題名:「出資をしてもらうには(情熱が人の心を動かす①)」


一流の国際的な経営コンサルタント、浜口直太(はまぐちなおと)(株式会社JCI代表取締役)の講演を先日聞く機会があった。浜口は自身の体験を語っていた。ビジネスコンテストがありそこで自ら考えた事業計画をプレゼンしたところ、審査員をしていたソフトバンクの孫正義社長が絶賛し投資をしてもいいということになった。後で孫社長に何が良かったか聞いてみたら、「浜口さんの凄い情熱だ」と言われたとのこと。確かに情熱を持って熱く語ったが、事業計画の中身は何もなかったと浜口は笑いながら話をした。浜口自身もあらゆる経営者を見ていて、事業が成功するかどうかはどれだけの情熱を持って挑むかで決まるという。

どんなにいい事業計画があったとしても、それだけでは成功することはないのであろう。ましてや資金的な協力を得ようとするならば経営者が情熱や熱意を持っていることが必須となる。

土光敏夫(どこうとしお)(現IHI、東芝の社長歴任。第4代経団連会長)が石川島芝浦タービンの社長に就任した時、受注はしても運転資金がない状況であった。そこで土光は何とか銀行に融資をしてもらおうと不退転の決意で挑む。東京駅で駅弁をしこたま買い込んで、丸の内の第一銀行本店(現ミズホ銀行)に朝一かけつけた。正門が開くのを待ち受け、営業部次長の長谷川重三郎(後の頭取)の席に直行。長谷川はまだ到着していない。そこで近くの椅子でずっと待った。長谷川が出勤すると、開口一番「今日は、どうしても融資していただきたい」すると長谷川は「いつも来ていただいておりますが、こういうご時世なので、とてもご要望には応じかねます。どうぞ、お引き取りを」「いや、今日は帰らん。この通り、駅弁を買ってきた。貸してくれなければ、明日の夜明けまで頑張りますよ」土光はそういって営業部次長席の隣にどっかり腰を降ろしてしまった。長谷川は知らんふりして仕事をしているが、土光は動こうとしない。そのうち長谷川は外出した。帰ってみると、まだ座っている。昼が近くになった。「一緒に、駅弁を食べましょう」と、長谷川はじめ、営業部の面々に配る。午後になっても土光は動こうとしない。夕方になってついに長谷川が音を上げた。「いやあ、参りました。融資をいたしますからお引き取下さい」土光の気魄が銀行からの融資を引出すことに成功した。
 
文責 田宮 卓

参考文献
志村嘉一郎「土光敏夫21世紀の遺産」
  1. 2010/12/06(月) 13:47:56|
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