偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

太田垣士郎(関西電力初代社長)

太田垣士郎(おおたがき・しろう)略歴
1894年~1964年(明治27年~昭和39年)関西電力初代社長。兵庫県城崎町(現・豊岡市)生まれ。京都帝大経済学部卒。日本信託を経て阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)に入社。小林一三の片腕として活躍し、昭和21年に社長。昭和26年九電力体制発足とともに関西電力初代社長に就任。昭和34年会長。関西経営者協会会長、関西経済連合会会長等を歴任。

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太田垣士郎(関西電力初代社長)語録  http://bit.ly/znoWUy





太田垣士郎の知られざる秘話

平成22年11月29日
題名:「決意が人の心を動かす」


従業員の士気を上げるには何をすれば良いか?給与を上げるのが手っとり早いが先行きの見えない不景気の今、そんなゆとりのある企業はないであろう。ではどうすればいいか。それはトップが腹を括ることである。何時の時代もトップの決意が人の心を動かす。
 
1962年(昭和37年)、キューバに旧ソビエトのミサイル基地の建設が進められている事実をアメリカが知った時、ときの大統領ケネディはどうしたか。ミサイル基地はすでに90%まで出来上がっていた。一刻も猶予のならない緊張状態である。ケネディは敢然と立ちあがった。そしてソ連のフルシチョフ首相に対して、キッパリと言い放った。

「アメリカとの目と鼻の先のところに、ソ連のミサイル基地がつくられていることを黙認出来ない。アメリカとして許容出来ない。だから、その基地をソ連の手で撤去してほしい。もし、ソ連の手で撤去しないのであれば、アメリカの手で撤去する」この敢然たる通告に対して、ソ連のフルシチョフはどう対応したか。結論として、そのミサイル基地をソ連自身の手で撤去したのである。一兵を損せずして、アメリカは自分の主義を通した。ケネディの断固たる決意がソ連を動かし、アメリカの望むとおりの決定をさせたのである。

トップの決意が国を動かした一例だが、当然普段の企業活動においてもトップの決意が大きく影響する。

関西電力初代社長に就任した太田垣士郎(おおたがきしろう)は大型水力発電所の建設に踏み切った。当時、関西方面は深刻な電力不足に見舞われ、たびたび停電が発生する惨憺たる状況だったからだ。これが有名な黒部川第4発電所(いわゆるクロヨン)である。

1956年(昭和31年)、太田垣の決断で関西電力が黒部川第4発電所(クロヨン)の建設を着手した時、日本アルプスの山脈をぶち抜いて建設資材の運搬道路(現・関電大町ルート)をつくり、そのうえで黒部川の上流に世界最大級のアーチ式ダムを建設するという超ビックプロジェクトは世界で反響を呼び、やがて無謀そのものという非難の集中砲火を浴びることになった。着工して8ヶ月後、心配していた破砕帯(はすいたい)に遭遇。大量の冷水が吹き出して工事は中断を余儀なくされた。内部は滝か川かとみまがうばかり。地下水の噴出を止める手当てはことごとく失敗する。「クロヨン絶望か」「関電、経営危機」などと報道された。計画中止もやむ無しの状況であった。しかし太田垣は腹を括り計画続行を決断するのだがこの後の太田垣の行動が現場で働いている作業員の士気を上げた。現場はトンネル崩壊の危機に浮足だっていたが、なんと社長自らが現地入りし、制止を振り切り危険な破砕帯にずぶ濡れになりながら足を踏み入れていった。「でかい仕事に困難は当たりまえじゃないか。私は絶対に諦めない。クロヨンはあなたがたにかかっている。一緒に苦労して、一緒に喜びあおう」太田垣は作業員の肩をたたき励まして廻った。2時間もトンネルから出てこなかった。忙しい中5日間も現場にとどまったという。この社長の捨て身の行動に作業員の士気は一気に高まった。

クロヨンは1963年(昭和38年)に完成へとこぎつけた。総工費513億円と延べ一万人の労力を注ぎ込み、さらに167人もの犠牲者を出すという、8年間に及んだ難工事の末での完成であった。
 

文責 田宮 卓

参考文献
日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人」 日経ビジネス文庫
青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社
ビジネス哲学研究会【編著】 「心を強くする指導者の言葉 逆境に克!」PHP
松下幸之助 「人を活かす経営」PHP文庫
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  1. 2010/11/29(月) 08:01:29|
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三洋電機誕生秘話

井植歳男(いうえ・としお)略歴
1902年~1969年(明治35年~昭和44年)三洋電機(現パナソニック)創業者。兵庫県生まれ。大正6年浦村立小学校高等科を卒業して義兄松下幸之助が創業した松下電器(現パナソニック)に入社。昭和10年同社専務。昭和21年松下電器を退社して、翌年三洋電機を設立。昭和43年会長。66歳で没。著書に「八千万人の人生経営」他。

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井植歳男(三洋電機創業者)語録 http://bit.ly/qPe1qb
井植歳男の知られざる逸話 http://bit.ly/xDzWkj




平成22年11月21日
題名:「三洋電機誕生秘話」



2009年(平成21年)12月にパナソニックの子会社となった三洋電機の創業者、井植歳男(いうえとしお)が松下幸之助の義理弟であったことは知られているが、井植は松下電器(現パナソニック)を創設した時の創業メンバーでもあった。創業以来、井植は松下の片腕となって松下電器の発展に貢献していった。しかし終戦後の1946年(昭和21年)松下電器の専務の立場にあった井植は突如退社し翌年に三洋電機を創業することになる。

何故突然、井植は松下電器を辞めたのか日本経営史の大きな謎の一つであった。松下と急に不仲になったともGHQの公職追放指定に伴うものともいわれるがはっきりしたことは分からなかった。

ところが一冊の書物がその謎を簡単に解いてくれた。雑誌「経済界」の創業者、佐藤正忠(さとうせいちゅう)の著書「蘇る秘訣」(経済界)に井植の三洋電機創業の動機が記されていた。

佐藤正忠は井植歳男に息子のように可愛がられていた。ある時、井植が「三洋電機が成功したのは、女性が原動力なんだよ」と言ったことがあったという。むろん。女性が原動力といってもこの場合、女性社員の力という意味ではない。松下電器で専務として松下幸之助を補佐していた井植であったが、秘書として井植を助けていた女性に惚れてしまったのだ。井植には妻子はいたが彼女も物にしたかった。専務といっても当時の松下電器の給料では、二軒の家を維持することはできない。そこで「えいっ」と独立を決意したという。「ホンマ言うとな、女がいなかったら、三洋電機はできなかったよ・・・」と佐藤に語ったという。ところが、もう一人彼女が出来てしまい彼女にも家を与えることになる。それでは終わらず井植には5人の彼女を出来てしまい皆に家を与えることになる。井植の凄いところは、彼女をつくるには女房を、経済的にもセックスの面でも不自由させてはいかん。だから大変だよ」といい。一旦付合った彼女は決して途中で切ったり捨てたりせずに最後まで面倒をみたところだ。女性に対するのと同様、男に対しても誠実であった。井植は女を幸せにするため必死に働き、その結果が三洋電機を東証一部上場にまで育て上げたのである。佐藤が直接、井植から聞いた話であり、公にはあまりしずらい内容であることから、経営史の謎とされてきた井植の松下電器からの独立は、女が原因であったことは恐らく真実であろう。

それはさておき昔は女性に対して実に面倒みが良く度量の大きい経営者や政治家が多くいたものだ。自由民主党結党による保守合同を成し遂げた最大の功労者である大物政治家、三木武吉(みきぶきち)のこんな話もある。

義理人情の政治家三木武吉は演説名人で知られていた。戦後間もなくの総選挙でのこと。立会演説会をしている三木に向かってある婦人団体の代表者が質問をしてきた「三木先生、ただ今のお話をお伺いしてますと、まことに結構なお話のように承わりますが、先生には5人の妾(めかけ)さんがいらっしゃると聞いております。この先生の行動と今のお話には矛盾があるのではないでしょうか」なんとも痛い質問である。ところが三木はこう切り返えした「ただ今の質問には数字的に誤りがあります。このような公の場で間違ったことを言ってもらっては困ります。私に妾が5人おると申されましたが、5人ではなく7人であります。しかも皆幸せに暮らしております。今日では彼女達も老来廃馬、もはや役には立ちません。と言うても、彼女達を捨て去るという不人情はこの三木にはできません。従っていまもなお面倒をみておるのであります!」これには聴衆も拍手喝采であり返って人気が上昇した。

政治家が女性スキャンダルで失脚するようになるのは宇野宗佑(うのそうすけ)元首相の女性スキャンダル事件の頃からではないかと思うが、手切金をケチったり、女性に恨みや妬みを買うようでは大器の器とはいえないのであろう。   

文責 田宮 卓

参考文献
佐藤正忠 「蘇る秘訣」 経済界
小林吉弥 「総理になれなかった男たち」経済界
  1. 2010/11/21(日) 01:54:48|
  2. 井植歳男(三洋電機創業者)
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小渕恵三

小渕恵三(おぶち・けいぞう)略歴
1937年~2000年(昭和12年~平成12年)内閣総理大臣(第84代)。)、群馬県吾妻郡出身。早稲田大学第一文学部卒。昭和38年、衆議院議員選挙初当選(12期)。総理府総務長官、沖縄開発庁長官、内閣官房長官、外務大臣、内閣総理大臣などを歴任。総理在任中に脳梗塞で倒れ死去。62歳で没。

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小渕恵三語録 http://bit.ly/yklzEG





小渕恵三元首相の知られざる逸話

平成22年11月19日
題名:「人を見かけで判断すると大損をする」


人は見かけによらない。しかし人の8割はパット見で判断するといわれるので自分自身が第一印象をよくすることは大事であろう。だが、決して自分が見かけで人を判断してはいけない。何故ならパットしないなと思ったやつが将来とんでもない大物になることがよくあるからだ。

森喜朗(もりよしろう)元首相は早稲田大学時代に多くの政治家を輩出している雄弁会に所属していた。ある時、新入生が入部してきた。地面にくっつきそうな長いコート、それもあまり上等でなさそうなものを身につけた野暮ったい男である。将来なんになりたいか尋ねたら「政治家」と答えるからびっくり。少々頭がおかしいのではないかと思い何処の選挙区から出馬する予定かと聞くと福田赳夫(ふくだたけお)(後に首相)、中曽根康弘(なかそねやすひろ)(後に首相)の両巨頭がいる群馬3区(旧選挙区)だと言うからますます頭のおかしいやつだと思ったという。この野暮ったい男が将来総理大臣となる小渕恵三(おぶちけいぞう)であった。森もまさか自分より早く総理大臣になるとは夢にも思わなかったであろう。小渕の父親は群馬を地元とし、6回衆議員議員選挙に出馬し2回しか当選出来なかったが、尋常小学校卒ながら製紙や電気関係の事業を幅広く手がけた立志伝中の代議士であった。そのことを知っていればまた見方は違っていたであろうが。

ジャーナリストの田原聡一朗(たはらそういちろう)が1980年(昭和55年)、アメリカのビル・ゲイツを訪ねたときのこと。面識がないので当時、アスキーの社長でマイクロソフト極東担当副社長をしていた西和彦(にしかずひこ)にお願いし、ビル・ゲイツを紹介してくれるように頼んでいた。マイクロソフト社は、とても小さなビルで、たまたま玄関で見かけたアルバイトに「西君に会いたい」と告げて、案内してもらった。西に会い「ビル・ゲイツに会わせてくれ」と言うと、西はなんとさっき案内してくれたアルバイト君を指して「彼がビル・ゲイツその人ですよ」と笑いながら紹介した。改めて見ても彼はTシャツに下はジーンズで髪はもじゃもじゃで童顔。どこから見てもアルバイトにしか見えなかったという。 
 
文責 田宮 卓

参考文献
浅川博忠 「小説角栄学校」 講談社文庫
田原聡一朗 「面白い奴ほど仕事人間」青春出版社
  1. 2010/11/19(金) 08:12:03|
  2. その他
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森喜朗

森喜朗(もり・よしろう)略歴
1937年~(昭和12年~)内閣総理大臣(第85代・86代)、政治家。石川県能美郡根上町(現・能美市)生まれ。早稲田大学商学部卒。産経新聞記者を経て、衆議院議員秘書。昭和44年、衆議院選挙に無所属で出馬しトップ当選。文部大臣、通産大臣、建設大臣、内閣総理大臣(85代・第86代)などを歴任。

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森喜朗元首相の知られざる逸話

平成22年11月19日
題名:「人を見かけで判断すると大損をする」


人は見かけによらない。しかし人の8割はパット見で判断するといわれるので自分自身が第一印象をよくすることは大事であろう。だが、決して自分が見かけで人を判断してはいけない。何故ならパットしないなと思ったやつが将来とんでもない大物になることがよくあるからだ。

森喜朗(もりよしろう)元首相は早稲田大学時代に多くの政治家を輩出している雄弁会に所属していた。ある時、新入生が入部してきた。地面にくっつきそうな長いコート、それもあまり上等でなさそうなものを身につけた野暮ったい男である。将来なんになりたいか尋ねたら「政治家」と答えるからびっくり。少々頭がおかしいのではないかと思い何処の選挙区から出馬する予定かと聞くと福田赳夫(ふくだたけお)(後に首相)、中曽根康弘(なかそねやすひろ)(後に首相)の両巨頭がいる群馬3区(旧選挙区)だと言うからますます頭のおかしいやつだと思ったという。この野暮ったい男が将来総理大臣となる小渕恵三(おぶちけいぞう)であった。森もまさか自分より早く総理大臣になるとは夢にも思わなかったであろう。小渕の父親は群馬を地元とし、6回衆議員議員選挙に出馬し2回しか当選出来なかったが、尋常小学校卒ながら製紙や電気関係の事業を幅広く手がけた立志伝中の代議士であった。そのことを知っていればまた見方は違っていたであろうが。

ジャーナリストの田原聡一朗(たはらそういちろう)が1980年(昭和55年)、アメリカのビル・ゲイツを訪ねたときのこと。面識がないので当時、アスキーの社長でマイクロソフト極東担当副社長をしていた西和彦(にしかずひこ)にお願いし、ビル・ゲイツを紹介してくれるように頼んでいた。マイクロソフト社は、とても小さなビルで、たまたま玄関で見かけたアルバイトに「西君に会いたい」と告げて、案内してもらった。西に会い「ビル・ゲイツに会わせてくれ」と言うと、西はなんとさっき案内してくれたアルバイト君を指して「彼がビル・ゲイツその人ですよ」と笑いながら紹介した。改めて見ても彼はTシャツに下はジーンズで髪はもじゃもじゃで童顔。どこから見てもアルバイトにしか見えなかったという。 
 
文責 田宮 卓

参考文献
浅川博忠 「小説角栄学校」 講談社文庫
田原聡一朗 「面白い奴ほど仕事人間」青春出版社
  1. 2010/11/19(金) 07:57:24|
  2. その他
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東郷平八郎

東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)略歴
1847年~1934年(弘化4年~昭和9年)連合艦隊司令長官。海軍大将。薩摩出身。ウースター商船学校中退。1863年(文久3年)には薩英(さつえい)戦争、明治元年には阿波沖海戦、同二年に宮古沖海戦に従軍する。明治時代、日本海軍の司令官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた。日露戦争では連合艦隊を率いて、日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破り世界の注目を集めた。88歳で没。

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東郷平八郎語録 http://bit.ly/yB812q





東郷平八郎の知られざる逸話

平成22年11月14日
題名:「外国人を唸らせたかっこいい日本人④」



元外交官で現在外交評論家の岡崎久彦(おかざきひさひこ)は今から50年以上前に外務省からイギリスのケンブリッジに留学していた。あまりにも優秀なので教授たちが舌を捲いたほどで、その俊秀の噂がなんとオックスフォードまで聞こえていたという。しかも日本が敗戦して10年そこそこ「いまだに戦後」と言ってもよい時代の話である。その頃同じイギリスに留学していた日本人は旧敵国にいて肩身の狭い思いをしていたが岡崎の俊秀の噂に勇気づけられたという。

旧敵国の地で外国人を唸らせた岡崎は凄いが、さらに80年程昔に同じイギリスに留学しており、商船学校の校長の目にとまった特筆すべき日本人がいた。その名は日露戦争の日本海海戦で連合艦隊司令長官として日本を勝利に導いた東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)である。 

1873年(明治6年)、明治国家の希望をになった国費留学生として東郷はイギリスの商船学校に入学した。東郷が26歳の時であったが年齢を10歳ごまかしての入学であった。なんでも商船学校の入学者はだいたい16歳から18歳くらいであったからのようだ。極東の無名の国から来た東郷は「ジャニー」「ジャニー」とからかわられ、苛(いじ)めにあったという。異国の地で10歳も年下の子供に苛められるのだから辛かったであろう。しかし当時の校長の東郷に対する評価が面白い。才能「ability」は単なる「Good」可もなく不可もなくといったところであろうか。ところが「お行儀」「品行」「注意力」といったものは「V.Good」つまり規律は最高点であったのである。当時の校長は東郷のことを「彼は素晴らしい青年であった。最初彼を苛める者がいたが、やがて誰も苛めなくなった」という。苛めを引っ込めさせたのはきっと東郷の気魄と人柄なのであろう。

当時、東郷と接していたイギリス人はまさか東郷がイギリスのネルソン提督とならぶ世界の海軍2代英雄になるとは思わなかったであろう。異国の地で10歳も年下に苛められながらも規律で最高点だった東郷はなんとも立派であり、頭が下がる思いだ。
 
 
文責 田宮 卓

参考文献
岡崎久彦 「尊敬される国民 品格ある国家」ワック 渡部昇一 共著
司馬遼太郎「明治という国家上下」NHKブックス
  1. 2010/11/14(日) 23:31:43|
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小平浪平(日立創業者)

小平浪平(おだいら・なみへい)略歴
1874年~1951年(明治7年~昭和26年)日立製作所創業者。栃木県下都賀郡中村生まれ。東京帝大工科大学電気科卒。藤田組小坂鉱山、広島水力電気、東京電燈を経て、明治39年1月、久原鉱業所日立鉱山工作課長。明治43年、国産第一号の電動機試作に成功。大正9年、株式会社日立製作所設立で専務に就任し、昭和4年同社社長。77歳で没。

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小平浪平(日立創業者)語録 http://bit.ly/As5ZOH




小平浪平の知られざる秘話

平成22年11月11日
題名:「国産技術を確立した男」




「日本の工業を発展させるためには、それを用いる機械も外国から輸入するだけでなく、自主技術、国産技術によって製作するようにしなければならない。それこそ日本が発展していく道だ」
 
黒船が江戸湾に出現し、それを沿岸から望見しただけで、その船を3年後に造りあげてしまった日本人。また明治に入り洋傘を輸入するようになった。1876年(明治6年)の輸入統計を見ると、洋傘が輸入のベストテンに入っている。ところが驚くべき事にそれから数年もたたないうちに洋傘は輸入品リストから姿を消し、輸出品となる。日本人は短期間に製品構造を呑み込み、作り方を習得し、西洋諸国より一段と安い価格でアジア諸国向きに輸出を始めたのだ。マッチもそうであったらしい。

日本人ほど物真似が得意な国民もいないといわれる。それも立派な能力であろうが独自性に欠けると揶揄される。しかし明治時代に国産技術に挑戦し続けた偉大な日本人もいた。
 
1908年(明治41年)、日本は重工業が芽生えかけている時代であった。一人の青年技師が当時まったくの寒村だった茨城県の人里離れた鉱山の草深い谷間に粗末な丸太小屋をつくった。久原鉱業の作業所である。小屋は40坪足らずで、杉皮葺(すぎかわぶき)の屋根に壁なし。ガラスのない窓には、カーテン代わりにキャラコ布がつるされたものであった。冬の寒さは身にしみた。しかし、工作課長でありこの小屋の主であるこの青年技師は意気盛んで、5人の職工たちの陣頭指揮に立ち、奮迅の働きを続けた。それもそのはず、発電機を国産技術で製作するという日本初の事業に挑戦し自分の成功を確信していたからだ。

この青年技師は1900年(明治33年)、東京帝国大学電気工学科を卒業し幾つかの水力発
電の会社に勤めた後、東京電灯(現東京電力)に入社。富士山を水源とする駒橋発電所の建設に取り組んだ、東洋一の出力を持つ発電所を建設することで東京に電力を安定供給しようという国の一大計画であった。ところがこの青年技師がそこで見た光景は強い失望感を覚えさせるものであった。発電機はドイツのシーメンス製、変圧器は米国のゼネラル・エレクトロニック(GE)製、水車はスイスのエッシャウイス製・・・現場でも外国人技術者が要所を取り仕切っており日本人はこき使われていた。この衝撃が青年技師に「自主技術、国産技術によって製作するものでなければ日本の発展する道はない」という強い信念を持たせる。

その後、この青年技師は久原鉱業を運営する久原房之助(くはらふさのすけ)から鉱山への誘いを受けた。仕事は新たに鉱山の動力源を確保するため、新たに発電所を建設することであった。外国製の発電機を使わない発電所など、当時荒唐無稽な話であったが青年技師は久原の支援を受けて願ってもないチャンスと思い果敢に挑戦した。電気修理のかたわら、丸太小屋で発電機の製作が始まった。「最初モーターはなかなか回らなかった。何度も失敗し、やっと回るとモーターの周りを皆で手をつないで嬉し泣きした」この苦闘を経て、わずか5馬力ながらも国産初のモーター3台の完成にようやくこぎ着けた。

この青年技師は小平浪平(おだいらなみへい)といい、日立製作所の創業者となる男である。世界の日立製作所は鉱山の作業所であるなんと丸太小屋がスタートであった。

そして、国産技術をさらに実現するため作業所を電気機器の製作工場に転換する計画を練って、久原を口説く。こうして1910年(明治43年)11月、4千坪の土地を入手し、日立製作所として本格的に製造工場を建設することになった。さらに1912年には、久原鉱業からの分離独立を果たす。 

しかし全てが順調ではなく1918年(大正7年)、思わぬ火災で日立工場が全焼したことがあった。この時に東京進出論が浮上した。だが小平は一人猛然と反対する。「この地を離れて会社はない。だいいち営々と培ってきた日立精神はどうなるのだ。行きたい者は東京に行け。私は一人になってもこの地で工場を再建してみせる」気魄に充ちた小平の言葉に東京進出論は泡と消えた。小平は何故田舎に拘ったか後年理由をこう語っている。「田舎におれば、たしかにいろんな面でマイナス要素がある。東京を本拠にすれば経営効率は確かに上がるだろう。が、私はそれよりも肝心要の日立精神(小平精神ともいう)が薄れることが怖かった。財閥系ではなく、これといった資本の背景がない。となれば、そのハンディを補うのは、なんとしても国産技術を確立するのだという初心―これが日立精神であり、これを忘れて日立はありえない」  


文責 田宮 卓

参考文献
司馬遼太郎「この国のかたち」文春文庫 (四)
高坂正堯 「不思議の日米関係史」PHP
青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社
池田政次郎 「経営者の器 あの人あの言葉」東洋経済
日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人」 日経ビジネス文庫
  1. 2010/11/11(木) 01:20:00|
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奥村綱雄(野村證券元社長)

奥村綱雄(おくむら・つなお)略歴(プロフィール)
1903年~1972年(明治36年~昭和47年)野村證券元社長。滋賀県生まれ。京都帝国大学経済学部卒後、野村證券に入社。調査、企画各部長。取締役京都支店支配人。昭和23年同社社長。経団連評議員副議長等経済界の要職のほか、日本ボーイスカウト連盟理事長他を歴任。69歳で没。著書に「僕のダイヤモンド経営」「わが半生涯」

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奥村綱雄(野村證券元社長)語録 http://bit.ly/yplZvo




奥村綱雄の知られざる秘話

題名:「逆境が人を大きくする」



自伝、他伝などの多くの伝記を読んでいて感じることは、凡そ大成した人物で最初から最後までずっと順調だった人がいるであろうか、恐らくいないであろう。誰でも逆境の時は必ずあり、それを乗り越えることで人間が大きくなり、何よりも人情の機微にたけ人を励まし勇気づけることが出来るようになるのではなかろうか。

雑誌「経済界」の創業者であり主幹の佐藤正忠(せいちゅう)は1969年(昭和44年)の衆議員選挙に郷里の秋田から出馬して落選した。選挙違反というおまけまでついて、短期間ながら刑務所にもぶち込まれたことがある。

佐藤は暗澹たる気持ちで野村證券本社に以前から付き合いのあった奥村綱雄(おくむらつなお)元社長を訪ねた。奥村は佐藤の顔を見るなり目に涙をいっぱい浮かべて「おめでとう正忠君!これで君もやっと一人前になる。今日はおめでたい日だ。いいかね、気を落とさずに頑張るんだぞ」奥村は常々「人間が一人前になるには、大病をするか、刑務所に入るか、放蕩をするか、いずれかの苦労をしなければいけない」と言っていたという。その第2の刑務所に入る経験をしたのだから「君はこれでものになるぞ」と奥村は励ましたのであった。佐藤は私のように逆境のどん底に落とされた人間にとって、「地獄で仏に会った」とはまさにこのことだという。このエピソードは佐藤正忠本人の著書「わが戦後財界秘史①身命、果てるとも」(経済界)の中に書かれているのだが、奥村の台詞を読んで私は思わず「を?」と思い可笑しさが込み上げてきた。

何故なら、この台詞は奥村が45歳の若さで野村證券の社長に就任した時に、「電力の鬼」松永安左エ門(やすざえもん)に言われた台詞そのままであったからである。

奥村綱雄は1948年(昭和23年)4月から1959年(昭和34年)6月までの11年2ヶ月、45歳で社長に就任し56歳まで社長を務めたのだが、社長就任時に「電力の鬼」松永安左エ門のところへ就任の挨拶に行った。松永はこの時73歳。「人間は3つの節を通らねば一人前ではない。その一つは浪人、その一つは闘病、その一つは投獄だ。君はそのどの一つも経験していない」と一発かまされた。これには、意気軒昂(いきけんこう)の奥村もシュンとなったという。松永は確かに浪人、闘病、投獄の全てを経験している。奥村は補欠入社、左遷、部長代理で各地を転々とし、サラリーマンとしては決して順調な道を歩んできたわけではないが、あらゆる修羅場をくぐり抜けてきた大先輩からのこの言葉には返す言葉はなかったであろう。

しかし奥村は社長の座にあった間にダイヤモンド経営の名の下に、「投資信託運用部」「外国部の創設」「ニューヨーク支店の開設」「社員の海外留学制度の実施」などを手掛け今日の野村證券の礎を築き「野村證券中興の祖」といわれるようになった。社長としては成功者といっていいであろう。

奥村は後に作家の山崎豊子に松永とのこのエピソードを「確かに私は、浪人生活も、闘病生活も、投獄生活も経験していない。だが社長在任11年間、社長室に座っているときは、日々之(これ)牢獄の思いで過ごしてきた」と答えたという。それだけ社長業は浪人、闘病、投獄の全てあわせ持ったほど過酷なものなのであろう。

文責 田宮 卓

参孝文献
小島直記 「逆境を愛する男たち」 新潮文庫
小島直記 「野村王国を築いた男」 集英社文庫
佐藤正忠 「わが戦後財界秘史①身命、果てるとも」経済界
  1. 2010/11/10(水) 10:49:07|
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宮沢喜一

宮沢喜一(みやざわ・きいち)略歴
1919年~2007年(大正8年~平成19年)内閣総理大臣(第78代)、政治家、大蔵官僚。東京生まれ(本籍地は広島県福山市)。東京帝国大学法学部政治学科卒、大蔵省入省。昭和28年、大蔵省を退官し広島地方区より参議員選挙に出馬し当選。経済企画庁長官、昭和42年、衆議院議員選挙で初当選。通産大臣、外務大臣、内閣官房長官、大蔵大臣などを歴任し、平成3年、第78代内閣総理大臣に就任。内閣不信任案可決により衆議院を解散するも総選挙に敗れ内閣総辞職。その後、財務大臣(初代)などを歴任。87歳で没。

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平成22年11月8日

宮澤喜一元首相の知られざる逸話

題名:「宮澤喜一元首相の意外な一面」


 
人は頭が良すぎると、本人に意識がなくともそれを鼻にかけていると思われたり、何処か親しみにくいという損な面がある。その典型が故・宮澤喜一元首相であったと思う。

各国と交渉する時も通訳が必要のないぐらい語学堪能だった故・宮澤喜一(みやざわきいち)元首相。それでいて中国の古典にも通暁していた。頭脳明晰で教養も深く、財政、経済、国際情勢に明るい政治家であったことは誰もが認めるところであろう。

宮澤は東大法学部を1941年(昭和16年)に卒業すると大蔵省(現財務省)に入省。エリートコースを歩む。終戦で東久爾内閣(ひがしくにないかく)が出来ると島寿一蔵相(現財相)の秘書官に抜擢される。その後、渋沢敬三、石橋湛山(後に首相)、池田勇人(後に首相)と4代の蔵相秘書を務めるが、補佐官としての名秘書ぶりは際立っていたといわれる。歴代蔵相が宮澤を秘書官として重用したのは、抜群の政策理解能力と語学力であった。池田勇人にいたっては蔵相、通産相(現経産相)、首相とのぼりつめていく過程で、片時も宮澤を手放さなかった。講和条約、池田・ロバートソン会談、吉田茂・アイゼンハワー会談、池田・ケネディ会談など、戦後日米間の重要会議ではつねに宮澤がいて、むしろ主役以上の活躍をしていたといわれる。こうした宮澤の能力に対して池田は米政府の要人から「君は小さいけれどもよく光るダイヤモンドを持っていて幸せだ」と羨ましがられたほどであった。戦後の日米関係は宮澤の才能が構築させたともいえるかもしれない。

しかしあまりにも頭脳明晰で頭がいいゆえ、人のために汗を流さない、人情の機微に疎い政治家という印象を国民は受ける。実際、新聞記者と会ってもつまらぬ質問をすると人を小バカにするような表情になる。新聞記者の夜打ち朝駆けも一切受け付けなかったという。

ところがそれでは総理には成れないと思ったか、自宅を改造し立派な応接間をつくり、そこを新聞記者や鈴木派議員や政財官界の懇談の場として提供するようになる「皆さんどうぞ」といいながらお酌までするようになったというから凄い変わりようである。

またこんな意外な一面もあった。田中角栄元首相が倒れて入院した時、宮澤はそのことを自宅のテレビニュースで知った。すると直ぐに着替え、一人でタクシーをつかまえ東京逓信病院に駆けつけた。警護のSPも間に合わないくらい素早く、自民党大物のなかでは一番のりという快挙だったというから凄い。
やれば出来るではないか(笑)

文責 田宮 卓

参考文献
小林吉弥 「田中角栄の人を動かす」極意 光文社
  1. 2010/11/08(月) 22:28:02|
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中曽根康弘

中曽根康弘(なかそね・やすひろ)略歴
1918年~(大正7年~)内閣総理大臣(第71・72・73代)。政治家。衆議院議員連続20回当選(1947年~2003年)。群馬県高崎市末広町に生まれる。東京帝国大学法学部卒。内務省に入る。内務省を退職し、昭和22年、 衆議院議員総選挙で初当選。科学技術庁長官、運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、行政管理庁長官、内閣総理大臣などを歴任した。

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中曽根康弘の知られざる逸話

平成22年11月7日

題名:「政界で随一筆まめな政治家中曽根康弘」



松下幸之助が晩年私財を投げ打って設立した松下政経塾から多くの政治家を輩出している。野田佳彦財務大臣、前原誠司外務大臣、玄葉光一郎国家戦力担当大臣などみなそうであるが、松下幸之助が存命中、松下政経塾の塾生に一番始めに教えることが礼状を書くことであったといわれる。著名な先生が講師としてくるのだから当然かもしれないが、このことを社会に出てからもずっと続けるのとそうでないのとでは大きな違いがあるだろう。

政界で随一の筆まめといえば以外にも中曽根康弘元首相ではなかっただろうか。同期で当選した田中角栄元首相に比べると気配りや、人の心を掴むといった人間力の部分ではまるで劣ると思われがちだが、筆まめであることにかけては中曽根の方が上であったかもしれない。やはり総理になるだけのことはある。

経済小説作家のパイオニア、故・城山三郎(しろやまさぶろう)が中曽根総理(当時)とゴルフをしていたときのこと。ハーフが終わって昼食をとっている時に「城山さん、最近どういう本が面白かった?」と訊かれ「騎兵として軍隊にいった作家伊藤桂一さんの戦争小説【静かなノモハン】あれは面白い。それから、大江健三郎の【新しい人よ眼ざめよ】という、障害を持つ長男との生活を描いたものもよかった」と答えた。すると横のテーブルから紙ナプキンを持ってきて「へえ」といいながらメモしていたという。

それから1週間ぐらいするとハガキが届く「【静かなノモハン】を読んだけど、とても良かった。いい本を教えてもらった」とお礼の返事であった。城山は総理が本当に読むのかと思っていたので驚いたという。
 
雑誌、【経済界】の創業者の佐藤正忠(さとうせいちゅう)は中曽根が総理に就任してから何通も手紙を頂いたという。しかも代筆でなく全て直筆であるというから驚く。何もマスコミ対策のためにやっているのではない。その証拠に佐藤は中曽根が若いころよく遊説でご一緒することがあったが、飛行機の中、列車に中でも中曽根はハガキを出して太い文字で書いている「見せてあげようか」といわれ「はい。お願いします」といって見せてもらったら、その日にあったある著名人への礼状であったという。
中曽根から手紙やハガキを頂いたという話は沢山ある。この筆まめさが相手の心を捉え、宰相への地位におし上げていったのであろう。

文責 田宮 卓
参考文献
城山三郎 「逆境を生きる」新潮社
佐藤正忠 「佐藤正忠の経営辻説法」 経済界
  1. 2010/11/07(日) 20:34:33|
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