偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

田中角栄「約束を守る政治家」

田中角栄(たなか・かくえい)略歴
1918年~1993年(大正7年~平成5年)内閣総理大臣(第64・65代)。新潟県刈羽郡で誕生。二田尋常高等学校卒。1934年、理化学研究所の大河内正敏所長を頼りに上京。住み込みなどを経て、建築設計事務所を開く。1936年、中央工学校土木科卒。1947年、2度目の立候補で衆議院議員に初当選。郵政相、蔵相、自民党幹事長、通産相を歴院。1972年、第64代内閣総理大臣。1976年、ロッキード事件で逮捕される。75歳で没

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田中角栄の知られざる逸話

平成22年10月31日
題名:「約束を守る政治家」
 



昨今、政治家の言葉が軽くなったといわれる。どんないい政策を口にしようと結局のところ信用がなければ実現は難しいのではなかろうか。与野党の政治家とはず、約束は守る。言ったことは実行する。こういったあたり前のことの積み重ねがあって初めて国民が信用し発言にも重みが出て、政策の実行に移せるのではなかろうか。昔の政治家の方がこのことに重きを置いていた、例えば故・田中角栄がそうであった。

自民党副総裁まで登り詰め、87歳まで現役であった二階堂進(にかいどうすすむ)は「趣味は田中角栄」と言い放ったのは有名な話であるが、田中の方が9歳も年下である。9歳も年下の男をそこまで言い放つとはよほどの惚れ込みようといえるが田中との最初の出会いがそうさせたのかもしれない。

二階堂が衆院商工委員長に就任したのは当選5回(旧鹿児島3区)の時で、1963年(昭和38年)池田政権下であった。就任早々、1964年度予算の編成がはじまった。そんな時二階堂のもとにジェトロ(日本貿易振興会)会長の杉道助(すぎみちすけ)が訪れて来た。ジェトロは前々から5億円の政府出資を強く求めていたが、毎年、大蔵省査定(現財務省)はゼロ。杉は、「これだけは是が非でも獲得してほしい。私の冥土のみやげにしたい」と懇願してきた。杉は大阪商工会議所会頭を長年つとめた関西財界の重鎮、ジェトロ生みの親でもある。この時既に79歳の高齢であるがジェトロにかける杉の情熱に心打たれた二階堂は「引受けました」と承諾する。そして若き大蔵大臣(現財務大臣)であった田中角栄を訪ね直談判する。田中は「わかりました。約束しましょう」とあっさりとOKした。「それは男の約束ですね」と二階堂は念を押して別れた。しかし事務次官折衝の段階で削られ、ジェトロ担当官庁の通産省(現経剤産業省)も降りてしまっていた。予算案ができあがり、閣議にガリ版刷りが持ち込まれる直前に、杉会長から「5億円が入っていません」と電話がかかった。二階堂は慌てて大蔵大臣室に駆け込んで「ジェトロの5億円は、男の約束だったのではないか。一体どうしたのか」と詰め寄った。田中は「そうか。すまなかった」と言うなり、直ぐに主計局長を呼び「大臣命令だ」と5億円の計上をその場で指示したのである。この書類訂正のため、予算閣議が約1時間遅れた。

杉は翌年死去し言葉どおり冥土のみやげになった。「あの時の男の約束が田中さんと私の最初の人間的な出会いであった」と後に二階堂は述懐する。竹下登が創政会を旗揚げした時も二階堂はこれに与せず最後まで田中を支えた。

また、休日の東京・目白の田中邸には朝から各界、各層の陳情客が100人単位で列をなしていたというが、田中は一人一人順番に陳情の内容を聞き「よし分かった」「それは出来る」「それは出来ない」とその場で陳情をさばいていった。田中が「分かった」と言ったものに関しては100%実行されたという。

この時代、大勢の聴衆の前で演説をしても私語がなく黙って話を聞かせられるのは田中角栄と中曽根康弘といわれたが、言ったことは守る政治家という認識があるから真剣に話に耳を傾けるのだろう。昨今、大勢の聴衆の前で話しを黙って聞かせられる政治家は残念ながらいないかもしれない。
 
文責 田宮 卓

参考文献
岩見隆夫 「政治家に必要なのは、言葉と想像力と、ほんの少しのお金」毎日新聞社
小林吉弥 「究極の人間洞察力」 講談社
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  1. 2010/10/31(日) 21:16:31|
  2. 田中角栄内閣総理大臣(第64・65代)
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久原房之助(鉱山王)と原安三郎(日本化薬元社長)と電通鬼十則

久原房之助(くはら・ふさのすけ)経歴
1869年~1965年(明治2年~昭和40年)久原鉱業創業者。山口県萩市生まれ。慶応義塾卒。森村組を経て藤田組小坂鉱山の再建に成功。明治38年独立して久原鉱業所日立鉱山を経営。のちに石油、海運、造船、製鉄、商事その他の分野に進出し、大正9年合名会社久原本社を設立。昭和期に入って政界に転じ、政友会幹事長。昭和21年公職追放。昭和30年中・日・ソ国交回復会議議長。「怪物の生涯」をまっとうして96歳で没。

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平成22年10月23日
題名:「久原房之助と原安三郎と電通鬼十則」
   


「仕事は自ら創る可(べ)きで与えられる可(ベ)きではない」
これは電通「鬼十則」の第1章を飾るあまりにも有名な言葉である。この電通「鬼十則」は、電通中興の祖と言われる吉田秀雄が、昭和26(1951年)年に社員のために書き留めたビジネスの鉄則、つまり原理原則であるが、世界のGE(ゼネラルエレクトロニック社)でも英語で翻訳され飾られているほどのものである。

世の中、指示待ち人間は幾らでもいるがいわれたことをきっちりやる、これも一つの能力かもしれない。しかしその他大勢から抜きんでる人は決して指示待ち人間ではない。将来大物になる人物はやはり新人の頃から電通鬼十則にあるように主体的に創造的に仕事をしている。
 
1889年(明治22年)慶応義塾大学を卒後した男が慶応の同窓の森村市左衛門(もりむらいちざえもん)が経営する森村組に入社した。配属先は神戸支店の倉庫番であった。新入社員が倉庫係に命じられること自体は珍しいことではないが、この男の場合その仕事ぶりが一味違っていた。

倉庫係の一員になってみると、倉庫には売れないもののストックや半端もののストックが沢山あり、整理されないまま山積みになっていた。その姿を見てこの男は「これはひどい」と思った。そこで「どうしてこんなものがあるのですか。おかしいじゃないですか」と、倉庫の主任に尋ねると「これは売れないから放ってあるのだ」という返事であった。新入社員であれば「ああ、そうですか」で済ますことも出来るが、この男はこのままでは倉庫が狭くなるばかりで、会社としても大きな損失になると思いそういう態度をとらなかった。ではどうしたか。放置されてあるストックの山をいちいち自分で調べていった。そして、これはこうしたらいい、あれはああしたらどうかとその処分方法を自分で考え、それを支店長に提言していった。すると支店長も「なるほど、これまで私も忙しいのでついつい倉庫に入ることなく気づかなかったけれども、確かに君の言うとおりだ」ということになって、倉庫の整理がされるようになった。売れるものはある程度値引きしてでも売る、仕入れ先に返品できるものは返す、また処分するしかないものはこの際思い切って処分していった。しばらくすると、倉庫の中はすっかり整理され、ストックは全て良品となった。しかもそれと同時に、その支店全体の経営精神がすっかり変わって、ピシットした仕事が行われるようになる。新入社員のこの男の提言によって何をどう売らなければならないかを十分に吟味して仕事が進められるようになり、その結果一年ほどの間にその支店の成績はすっかり変わった。

この男は久原房之助(くはらふさのすけ)といい、後に日立鉱業を買収し久原鉱業を創業し鉱山王と言われる人物である。新興財閥久原鉱業は日立製作所、日産自動車など、直系、停系合わせて150社を擁する「日産コンツェルン」の母体にもなった。

1912年(大正元年)、原安三郎(はらやすさぶろう)という男が早稲田大学商学部を首席で卒業した後、日本化薬の前身である日本火薬製造会社に入社した。化学会社に就職したのに、配属された先が飯場の炊事係であった。思ってもなかった職場であるが原という男は腐らなかった。米の仕入れ一つにしても「どこの米がうまいか」「米の値段にどういう違いがあるのか」「品質のちがいとどう関係があるのか」「どういう流通経路で来るのか」「肥料には何をつかっているのか」等々、調べる気になれば勉強する材料はいっぱいあった。そして、勉強していくと、次から次へと、また勉強の材料が出てくる。そして最初はつまらないと思っていた日々の仕事にもはりが出てきたといいます。
この原は後に日本化薬の社長にまで登りつめその後、幾多の経営不振の会社を再建し、「会社更生の名医」と賞賛されるようになる。1970年には勲一等瑞宝章を受賞する。 


文責 田宮 卓

参考文献
松下幸之助 「折々の記」PHP
植田正也 「電通鬼十則」 PHP文庫
城山三郎 「打たれ強く生きる」 新潮文庫
日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人」日経ビジネス文庫
  1. 2010/10/23(土) 23:11:00|
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田中角栄のお金の使い方

田中角栄(たなか・かくえい)略歴
1918年~1993年(大正7年~平成5年)第64代内閣総理大臣。新潟県刈羽郡で誕生。二田尋常高等学校卒。1934年、理化学研究所の大河内正敏所長を頼りに上京。住み込みなどを経て、建築設計事務所を開く。1936年、中央工学校土木科卒。1947年、2度目の立候補で衆議院議員に初当選。郵政相、蔵相、自民党幹事長、通産相を歴院。1972年、第64代内閣総理大臣。1976年、ロッキード事件で逮捕される。75歳で没

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田中角栄の知られざる逸話

平成22年10月22日
題名:「お金の使い方で分かる人物の大きさ」
 
    

お金の使い方によってその人物の大きさが分かと言われるが、やはりケチケチしている人には人はついてこない。太っ腹な人についていく。自分の上司がケチであればその上司は生出しないだろうし、自分も太っ腹にならなければ出生できないともいえるかもしれない。

故・田中角栄元首相は人を泣かせるお金の使い方をしたことで有名である。
例えば田中派以外の代議士で、選挙の後始末でどうしても最低でも300万円が必要だった人物がいた。300万円にいくらかでも上乗せがきくなら、なおさら助かる。彼は考えた。大平正芳(元首相・故人)のところへ行けばどうなるか。「300万円」と切り出せば、多めに見積もってきたなと思われ、たぶん200万円を出すに違いない。彼は考えた末に、大平のもとへは行かず、田中角栄の事務所を訪れた。話を聞き終わった田中は、なんとポンと500万円を差し出したのである。彼は、当然300万円と思っていたから驚きの表情を見せた。田中が言葉をついだ「残ったカネで、選挙で苦労した連中にうまいものでも食わせてやれ」と。この代議士は、夜、布団をかぶって泣いたという。

またこんなエピソードもある。田中派時代、派内の若手の議員が女の不始末の清算で、今日中にどうしても100万円が必要ということになった。ところが、すぐ現金で百万円を揃えることができない。やむなくその議員は田中のもとに電話をかけ、100万円の借金を申し込んだ。話半分まで聞いていた田中は「わかった」と一言。「カネは直ぐに届けさせる」と約束した。30分もすると、田中事務所の秘書が紙袋を届けにきた。その議員が開けてみると、本人が申し込んだ額よりも多いなんと300万円の現金が入っていた。そして田中の筆による一枚のメモが入っていた。
一、 まず100万円でけりをつけろ
二、 次の100万円でお前の不始末で苦労したまわりの人たちに、うまいものでも食わせてやれ
三、 次の100万円は万一の場合のために持っておけ
四、 以上の300万円の全額、返済は無用である。

その若手議員は、涙しながらそのメモを読んだ。そして、その後、田中派内で竹下登の創政会の旗揚げ問題がクローズアップされた時でも、ビクとも動かなかった。あの時の300万円の一件で、田中という人物に殉じるハラを固めたという。

実に粋なお金の使い方である。金権政治家と見る人もいるかもしれないが、一般社会でも実際にお金の援助で助かる人がいる。例えば商売をしている人であれば「頑張れよ」「心から応援している」と口だけで言われるのと実際に資金的な援助をしてくれるのとでは大違いである。

第3代日銀総裁の故・川田小一郎(かわだこいちろう)は法皇と言われる程のワンマンであり威張りちらしていた人物として知られるがお金の使い方は実に太っ腹であった。

かつては三菱で同じ釜の飯を食った仲間の朝吹英二(あさぶきえいじ)が零落して日銀にやってきた。昔はオレ、お前の仲でも、地位に隔たりが出来ると門前払いを食わす人は幾らでもいるが、川田は快く面会した。金に困っているのを知るとなんと月給袋をそのまま朝吹にくれてやった。月給袋の中を見て何枚かを抜き出して渡す人はいるかもしれないが、袋ごとそのまま渡すとは何とも太っ腹な人物である。朝吹が喜んだのはいうまでもない。
 

文責 田宮 卓

参考文献
小林吉弥 「田中角栄経済学」 講談社+α文庫
小林吉弥 「田中角栄の才覚 松下幸之助の知恵」 光文社
小島直記 「スキな人キライな奴」 新潮文庫
  1. 2010/10/22(金) 13:59:10|
  2. 田中角栄内閣総理大臣(第64・65代)
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東芝の悲劇

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土光敏夫(経団連第4代会長)語録集(率先垂範編)http://bit.ly/qN4vdU




平成22年10月22日
題名「東芝の悲劇」


   
雑誌「財界」の創業者、故・三鬼陽之助(みきようのすけ)が「東芝の悲劇」(光文社)を出版したが当時ベストセラーになった名著である。今読み返してみても企業の病根というものは現代も、昔も変わらないと思うのでどの業界の経営者、経営幹部が読んでもきっと勉強になるだろう。

この本は当時(昭和41年頃)無配転落になっていた東芝の起源から調べ、競合の日立、三菱、松下(現パナソニック)と比較し、石坂会長・岩下社長の確執がもたらした経営陣の内紛、時機を逸した設備投資、重電、軽電の派閥抗争、甘い販売政策、仕入れ政策、外国技術編重など名門といわれた東芝の病根となる原因をあらゆる角度から分析した内容の著書であるが、病根の原因の一つが名門意識が強く消費者の声や、下から上がってくる情報をキャッチしないことにあると指摘している。このことは当時の東芝に限らず現代のどの大企業にもいえることではなかろうか。

「東芝の悲劇」の中で三鬼は情報をキャッチしないのは東芝の名門意識からくる奢りとして指摘している個所があるので要約引用してみる。

石坂が社長の時代、友人であるリコーの創業者、市村清が、石坂に忠告したことがある。その場に三鬼もたまたま同席しており話を聞いていたという。「市村が三越に行き、電機製品を購入しようと、日立、東芝、松下と並ぶなかで、物色していたところ、三越の店員が、しきりに松下の製品をすすめたのである。市村は、石坂に師事している関係もあり、この光景に憤慨した。天下の三越ともあろうものが特定の製品を優先推奨することに、ある種の疑惑を持ったからである。と同時にいまさらながら、東芝の商売ベタにあきれた。」そこで石坂に直訴したのである。石坂は、市村の直訴に、素直に耳を傾け、おおいにうなずいていた。石坂のこと、自分もその種の体験をしたといった得意な方言をしていた。

しかし、その後、三鬼がこの市村の直訴を石坂以外の首脳部にも伝え、反省を求めたが、表面、しごくもっともと言いながら、それを実現に移す努力をしなかったとある。「要するに、わが社の製品は、ナショナルに比較、いちだんと優れているのだから、買わないほうが間違っているという思想がある」「もっとつき進むと、ナショナルは、製品に自信がないから、販売にかくべつの手段を用いているのだというのである」これはある同業者の述懐である。過般、東芝とのあいだに、紛糾が生じ、解決の手段として、石坂の次に社長になった岩下に、このことを内容証明的な文章で送付したところ、岩下は、その事件自体をぜんぜん知らなかったといわれている。この事件は、相手が日立、松下なら即刻、すくなくとも数時間以内にその首脳者の耳に到達することは間違いないと三鬼は指摘する。
具体例として、大日本製糖(現大日本明治製糖)元社長の藤山愛一郎(日本商工会議所会頭、外務大臣も経験)が、ホテル・ニュージャパンを創立するさい、エレベーターは日立製品を使わず、三菱電機から買ったとき、日立の倉田(2代目社長)が、その経緯を研究、反省したことがあるという。この謙虚さは、遺憾ながら大東芝には見出しがたいと三鬼は指摘している。

では松下はどうか。イトーヨーカドーの創業者、伊藤雅俊が書いた「商いの道」(PHP研究所)にこんなエピソードが紹介されている。

昭和53年(1978年)当時、札幌にある百貨店・松坂屋さんの中に松下電器(現パナソニック)さんのショウルームがありました。その松坂屋さんとイトーヨーカドーが業務提携を行うにあたり、松下電器さんのショウルームが撤退されることになりました。その時の撤退の仕方が、次に使用する人のことを考え、破損箇所の修理はもとより、清掃まできっちりとした心のこもったものであったとの報告を担当者から受けた、松下電器さんの日頃の社員指導による社風の表れであると非常に感銘を受けたのです。そこで早速その気持ちを手紙に綴り、松下幸之助さんに出しましたところ、次のようなお手紙をいただきました「当然のことをごく自然に行っただけにもかかわらず、お褒めの言葉をいただき、ありがとうございました。そんなことがご多忙を続けておられるあなた様のお耳にまで入るということは、経営において最も大切な、社内における円骨な意思疎通が立派に行われていることの証だと思います。それが今日の御社を築き上げられたのだと感じ入っています。お手紙は、わが社の社長をはじめ経営幹部に見せまして、経営強化の貴重な教材に活用さていただく所存です。」伊藤はこの返事に改めて松下幸之助の凄さを感じて早速社内報に「商売の原点を学ぶ」というタイトルでこの手紙の経緯を紹介し、さらに幹部に対しては「経営の原点」という冊子をつくり部下の育成に活用させたという。

日立、松下ならば即刻首脳者に報告が上がることを、名門意識の驕りから報告が入らなくなったのが凋落の原因の一つという三鬼の指摘は実に正しいといえるだろう。現代の経営者、経営幹部も参考になる話であると思う。 
 
文責 田宮 卓

参考文献
三鬼陽之助 「東芝の悲劇」 光文社
伊藤雅俊 「商いの道」PHP研究所
  1. 2010/10/22(金) 12:43:12|
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鮎川義介

鮎川義介(あゆかわ・よしすけ)略歴
1880年~1967年(明治13年~昭和42年)日産コンツェルン創業者。山口県山口市生まれ。明治36年、東京帝国大学工科大学機械工学科卒、芝浦製作所に職工として入社。明治43年、戸畑鋳物(現・日立金属)設立。昭和2年、久原財閥の再建を委託される。久原鉱業を公開持株会社日本産業に改組改称する。昭和8年、日産自動車設立。昭和18年、貴族院議員。昭和28年、参議院議員。87歳で没。

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鮎川義介の知られざる逸話

平成22年10月13日
題名:「恵まれた環境でも等身大で生きる凄い男」



経営者でも、政治家でも2代目、3代目になると初代の苦労を知らず、恵まれた環境で育つようになるので、どうしても考えが甘くなり何よりも精神力が脆くなってしまう人が多い。恵まれた環境の中でさらに努力すれば、初代や2代目よりもさらに発展することができるはずなのだが、なかなかそういう人物は出てこない。恵まれていると逆にハングリー精神を持てないのであろう。

しかし明治時代には、恵まれた環境の中でも誰よりも努力し勉強をして肩を並べる人がいないぐらいのとんでもない大物になった人物がいた。

1880年(明治13年)、山口県の士族の長男として生まれた男は母親が維新の元勲井上馨
(いのうえかおる、三井財閥顧問)侯の姪という何とも恵まれた家系であった。この男は大叔父の井上馨から「将来お前は技術畑に進み、エンジニアになれ」と勧められ山口高校を卒業後、東京帝国大学(現東京大学)の機械工学科に進学した。1903年(明治36年)、
4番という優秀な成績で卒業して彼が就職先に選んだのは、現在の東芝の前身の芝浦製作所であるが、何と一介の見習い職工として雇われたのである。東京帝国大学の工学科卒は現在の博士号より遥かに権威があり、ましてや親戚のコネを使えば財閥系でもどんな企業にも入れたろうに。それも帝国大学工学科卒を隠しての職工としての入社であった。

一職工になった理由をこの男は「いずれは自分で経営をしたい。そのためには現場を知りたいので、一から出発したほうが良い」と考えたというのだ。
 
この男は職工をやりながら休日になると弁当を持って、東京周辺の工場を見学して歩いた。当時の技術水準、企業経営、工場管理のことを徹底的に研究して廻った。約2年間、工場の実態を見学し、調査を続けて得られた結論は「日本の機械技術は欧米からの輸入で、殆ど独自のものはない。だから日本で勉強しても、最新の機械技術に接することはできない」ということであった。そして彼は思うだけでなく実行に移しアメリカに渡る。実地に新しい技術を学ぶためである。

しかしこの男はここでもコネは使わない。井上の顔を利用すれば政府出先機関や三井関係事業所もあり、容易に留学ができたはずなのだが、鋳物(いもの)工場の見習工になるため、バッフォロー市郊外の可鍛鋳鉄(かたんちゅうてつ)製造会社のグルド・カプラー社に週休5ドルの見習工になる。そこで現地の大男に混じって鋳物の湯運びをするのである。大変な重労働である。火傷をすることも一度や二度ではなかったであろう。この男は「日本人として根を上げたらみっともない」と思い頑張ったという。そこで約2年間職工生活をして当時の最新鋳物技術であった可鍛鋳鉄を習得して帰国する。

そして1910年(明治43年)、北九州の戸畑(とばた)に日本初の可鍛鋳鉄会社、戸畑鋳物(とばたいもの)を設立する。この会社が現在の日立金属の前身となる会社である。この男の名は鮎川義介(あゆかわよしすけ)といい、戸畑鋳物を皮切りに次々と会社を設立し日産コンツェルンと呼ばれる大財閥を築き上げる。今日の日立、日産グループの土台を一代でつくりあげたのだから恐れ入る。 

文責 田宮 卓

参孝文献

小島直記 「スキな人キライな奴」 新潮文庫
小島直記 「鮎川義介伝」 ケイエイ
春光グループの歴史 非売品
  1. 2010/10/13(水) 01:32:36|
  2. 鮎川義介(日産コンツェルン創業者)
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松永安左ェ門(電力の鬼)

松永安左ェ門(まつなが・やすざえもん)略歴(プロフィール)
1875年~1971年(明治8年~昭和46年)電力中央研究所所長。長崎県壱岐郡生まれ。慶応義塾中退。日本銀行員、石炭商等を経て明治42年に福博電気軌道の設立に加わり、電気事業経営に関係。その後、九州電燈鉄道(現・九州電力)、旧東邦電力の経営に参画。戦後、電気事業再編成審議会会長に就任、国営電力会社を分割し、民営による九電力体制を築きあげた。トインビー「歴史の研究」の翻訳も手掛けた。95歳で没。署書に「松永安左ェ門著作集(6巻)」

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松永安左ェ門の知られざる秘話

題名:「明治の義理堅い男たち」



昨今、自分の身が危なくなると「部下がやったこと」、「秘書がやったこと」で自分は何も知らなかったといい逃れをするトップが多い。そもそも不正はあってはならないことなのだが、せめて身内や仲間を庇うことぐらいは出来ないのであろうか。責任を他人に押し付けて平気な顔をしているのは何とも人間が小さく恥ずべきことである。そういった面では明治の人達は実に義理堅く人物が大きかったといえる。

1948年(昭和23年)奥村綱雄(おくむらつなお)が45歳の若さで野村證券の社長に就任した時に、「電力の鬼」松永安左エ門(やすざえもん)のところへ就任の挨拶に行った。松永はこの時73歳。「人間は3つの節を通らねば一人前ではない。その一つは浪人、その一つは闘病、その一つは投獄だ。君はそのどの一つも経験していない」と一発かまされた。これには、意気軒昂(いきけんこう)の奥村もシュンとなったという。松永は確かに浪人、闘病、投獄の全てを経験している。

松永は1907年(明治40年)、32歳のとき、株式大暴落でスッテンテンになり家まで焼けた。神戸の灘の住吉の呉田の浜の家を借りて、二年分の家賃を前払いして籠城したことがある。 「闘病」は1890年(明治23年)15歳の頃、慶応大学在学中にコレラにかかって生死の境をくぐった。

「投獄」は1910年(明治43年)35歳の時であるがこの時の話が思わず凄いと思ってしまう。投獄の経緯はこうだ。当時、大阪市民の間に市政刷新の声があがり、それは司直を動かして、市助役などの実力者の身辺が洗われた。それで「箕面有馬(みのうありま)電軌」の市内引込線問題にからむ収賄事件が発覚し同社専務の小林一三(阪急グループ創業者)とともに松永は大阪警察に逮捕され、堀川の未決監に放り込まれたのである。松永は小林の2歳下でともに慶応義塾に学んだが学生時代は知り合いではなかった。小林が三井銀行に勤めるようになると共通の先輩で三井銀行の大阪支店長だった平賀敏という男がいてこの先輩の紹介で最初に知合った。

電車の市内乗り入れには、大阪市会の承認がいる。そこで小林はどうすれ承認が得られるか平賀に相談した。すると「市長はロボットに過ぎない。実権は、助役の松村敏夫、七里清介、天川市会議員の三人が握っている。この連中を動かせばうまくいくかもしれない」そして平賀はこの3人に親しいのは以前紹介した松永だというのだ。そこで小林は承認を得られるように工作をして欲しいと松永にお願いをしたのだが、結果的に二人とも逮捕されることになってしまった。

ところが当時の法律では、贈った方は罪にはならない。松永も小林も自分のことだけ考える人間であるならば、ありのままを白状すれば解放されたことであろう。しかし二人ともそうはしなかった。「どうだ、贈賄しただろう」と係官は攻め立てる。「はい。やりました」と言えば助役たちの罪を確定させることになる。二人が口を割らなかったのはそのためであったが、それが検事を怒らせた。「証拠はあがっているのだ。当人たちは貰いましたと白状している。それをあくまでも、やっておらぬとシラをきるのであれば偽証罪だ。これだと懲役2年だぞ」と脅す。が、二人はそれでも口を割らない。1週間も2週間もたってもカタがつかない。貰った本人が白状してしまっているのにそれでも頑なに口を割らないのである。

結局、松永の兄貴分である福沢桃介(ふくざわとうすけ、実業家、福沢諭吉の婿養子)が東京から飛んできて、小林の親分、岩下清周(いわしたせいしゅう、大物銀行家)とともに「代理自白」ということをやった。「あの二人に、他人を傷つけるようなことを言わせるのは無理ですから、われわれ二人が代わりに自白します。小林と松永がやったにちがいありません。現に会社の帳簿を見ればはっきり分かることです」検察側も弁護側も福沢のいったことを認めるようにと、二人にすすめる。「認めぬとあれば、福沢、岩下を偽証罪で逮捕するぞ」との脅しもついていた。これには松永も小林も参ったようだ。なお、3日間、2人は考えたが、松永は「考えてみても小林としてはいえないことだ。自分が口を割れば、小林は救われるのだ」松永は覚悟を決め福沢の証言書に判を押した。そこでやっと監獄を出され、やがて30分後におくれて小林も解放されて一件落着となった。

文責 田宮 卓

参孝文献

小島直記 「逆境を愛する男たち」 新潮文庫
小島直記 「鬼才縦横 小林一三の生涯中巻」PHP文庫
  1. 2010/10/09(土) 15:32:46|
  2. 松永安左ェ門(電力の鬼)
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岡崎久彦(外交官)

岡崎久彦(おかざき・ひさひこ)略歴
【1930年~2014年】外交官。元タイ大使。大連生まれ。東京大学法学部在学中に外交官試験に合格し、外務省入省。ケンブリッジ大学経済学部卒業。情報調査局長、在サウジ・アラビア大使。在タイ大使などを歴任。千代田化工建設特別顧問、博報堂特別顧問。作家、外交評論家として活躍した

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岡崎久彦語録 http://bit.ly/SGx8Is




岡崎久彦の知られざる逸話

平成22年10月6日
題名:「外国人を唸らせたかっこいい日本人③」



外国人を唸らせたかっこういい日本人を財界人から石坂泰三(いしざかたいぞう)(第2代経団連会長)http://bit.ly/xy4ULH、平山外四(ひらやまがいし)(第7代経団連会長)http://bit.ly/y6vbtE の2人を今まで取り上げたが、外交官にも外国人を唸らせたかっこいい日本人がかつてはいた。それは現在、外交評論家の岡崎久彦(おかざきひさひこ)である。

今から50年以上前のオックスフォードで、一人の日本人が噂になっていたという。何でもケンブリッジに留学している日本人があまりにも優秀なので、教授たちが舌を捲いているというのである。ケンブリッジの俊秀の噂がオックスフォードまで聞こえてくる、ということはそうざらにあることではない。しかも日本が敗戦して10年そこそこ「いまだに戦後」と言ってもよい時代の話である。この優秀な日本人が、外務省から留学していた岡崎久彦であった。

岡崎は国際情勢判断の大家といわれ、外務省では調査企画部の分析課長、調査課長、調査室長、さらに調査企画部長、初代情報調査局長を歴任し、ほぼ一貫して情報屋で通した。ソビエト連邦が崩壊することを箴言したことでも知られる。

そして何よりも彼の著書が優れている。現近代史を知りたい人は岡崎の書著を読むことをお勧めする。歴史家顔負けの歴史の詳しさと外交官ならではの視点で書かれているところが面白い。

余談になるが、岡崎はタイの大使を最後に1992年(平成4年)に外務省を退官している。その後は博報堂の特別顧問になっている。電通と通産省(現経済産業省)、博報堂と大蔵省(現財務省)とのつながりが深いことは知られている。役員を見るとそれぞれの役所から天下っているのが分かる。万博やオリンピック等の国際行事の仕事を貰うためというのは容易に想像がつくが、何故外交官が博報堂の特別顧問なのか不思議に思い博報堂の創業家一族(3代目)の瀬木(せき)(当時相談役)に会った時に聞いてみたことがある。「岡崎タイ元大使が御社の特別顧問をやっていたことがあるが何故か?」「君はよくそのことを知ってるな。しかしその質問には答えることは出来ない」結局質問に答えてはくれず疑問は解消できなかった。何か公に出来ない理由があるのだろう。
 
岡崎久彦の書著お勧め本
「尊敬される国民 品格ある国家」ワック 渡部昇一 供著
「どこで日本人の歴史観は歪んだのか」海竜社
「百年の遺産 日本近代外交史73話」産経新聞社
「陸奥宗光」上下 PHP文庫 
「小村寿太郎とその時代」PHP文庫
「幣原喜重郎とその時代」PHP文庫 
「重光・東郷とその時代」PHP文庫
「吉田茂とその時代」PHP文庫 
 
文責 田宮 卓

参考文献
「尊敬される国民 品格ある国家」ワック 渡部昇一 供著
  1. 2010/10/06(水) 05:45:52|
  2. その他
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平岩外四(東京電力元社長)

平岩外四(ひらいわ・がいし)略歴
1914年~2007年(大正3年~平成19年)東京電力元社長。経団連元会長。愛知県常滑市生まれ。東京帝国大学法学部法律学科(現・東京大学)卒業後、東京電灯(現・東京電力)入社。1941年召集され、中国および南方戦線へ。終戦後復員、復職。1976年、東京電力社長就任、以後、会長、相談役を歴任。1990年、経団連会長となり財界リーダーとして活躍。無類な読者家として知られ、蔵書3万冊に及んだ。92歳で没

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平岩外四(東京電力元社長)語録集(読書編)http://bit.ly/AyA4d1




平岩外四の知られざる秘話

平成22年10月5日
題名:「外国人を唸らせたかっこいい日本人②」
 


戦後のわが国での外務省の新人研修で「外交官というのは、外交、政治、経済、哲学、歴史、文学、芸術が分かって人間を完成させ、その人間的魅力で相手とわたりあう仕事である」と教えていたらしい。教養がない人とは話もしたくないという外国のエリートは多い。外国のエリートとわたりあうにはなによりも深い教養が求められ、それに基づく人間力が必要であるが、そういった点で外国人を唸らせた「かっこいい」日本人がかつての財界にはいた。

財界で外国人を唸らせた日本人に平岩外四(ひらいわがいし)(東京電力会長、第7代経団連会長、歴任)がいる。当時財界きっての読書家といわれた平岩は自宅の蔵書は2万冊を超え、床が軋み穴があきそうなくらいであったという。

日米貿易摩擦の問題でアメリカに行って、向こうの学者グループと会った時のこと。平岩は「自分はユリシーズ(アイルランド出身のジェイムズ・ジョイスの小説全18章)が好きで、その決定版がニューヨークの出版社から出たということを聞いたので買おうと思った。しかし、幾ら頼んでも日本では取り寄せられないので、ニューヨークにいる友人に頼んでやっと手に入れることができた。本国のイギリスでさえも出さないユリシーズを、アメリカが出されるというのは非常に偉い。敬意を払う。でも、そんなにいいものを出しながら、簡単に買えないところにアメリカの問題があるんじゃないですか」と言った。すると向こうはみんなシーンとなった。日本の財界人はユリシーズの決定版を探して買ってしかも原書を読むのかと見直し、二の句がつげなかった。以後向こうの態度がずいぶん変わったという。これがアメリカはけしからん。売るのが下手だという話から入れば態度が軟化することはなかっただろう。

また平岩がフランスに行った時のこと。ゴンク-ルの館というところで食事を御馳走になった。その時に日本美術の良き理解者であった作家・ゴンクールの作品は日本で訳されたことがあるかと訊かれた。ゴンクールの日記は全集としてあるのだが、平岩はこの全集を持っていた。そこで後日それを相手の経済人に全集を贈った。すると彼は別荘へそれを喜んで持っていって大事に飾ったという。 
 
文責 田宮 卓

参考文献
大野誠治「人間 平岩外四の魅力」中経出版
城山三郎(平岩外四)「人生に二度読む本」 講談社文庫
  1. 2010/10/05(火) 18:59:48|
  2. 平岩外四(東京電力元社長)
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石坂泰三(経団連2代会長)

石坂泰三(いしざか・たいぞう)略歴(プロフィール)
1886年~1975年(明治19年~昭和50年)経団連2代会長。東芝元社長。第一生命元社長。東京・下谷生まれ。東京帝国大学法学部卒後、逓信省入省。大正4年、第一生命入りし、昭和13年に社長に就任。昭和24年、東芝社長に就任して東芝再建に尽力。昭和31年、経団連会長。以降、6期12年間、財界のトップリーダーとして活躍し、財界総理と呼ばれた。88歳で没。

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石坂泰三(経団連2代会長)語録 http://bit.ly/xzOu7y





石坂泰三の知られざる秘話


題名「外国人を唸らせたかっこいい日本人①」

戦後のわが国での外務省の新人研修で「外交官というのは、外交、政治、経済、哲学、歴史、文学、芸術が分かって人間を完成させ、その人間的魅力で相手とわたりあう仕事である」と教えていたらしい。教養がない人とは話もしたくないという外国のエリートは多い。外国のエリートとわたりあうにはなによりも深い教養が求められ、それに基づく人間的魅力が必要であるが、そういった点で外国人から尊敬された「かっこいい」日本人がかつての財界にはいた。

財界で外国人に尊敬された日本人といえばまず名前があがるのが石坂泰三(いしざかたいぞう)(第一生命社長、東芝社長、第2代経団連会長、万国博会長等、歴任)であろう。世界各地に一流の人物を友人、知人に持っていた石坂は英語ならシェイクスピア、テニソン、エマーソン、カーライル、バイロン、スコット、ドイツ語ならゲーテ、シラー、アンデルセン等、全て原書を読破して教養を身につけていたという。

ある時、石坂がスコットランドを訪れた時のこと。石坂を招待してくれた英国の実業家と月夜の晩一緒に散歩をした。ゆっくりと歩きながら、石坂がスコットの「湖上の美人」の一節を朗々と吟じ出したので同道した英国人が驚嘆した。英国人でも滅多に諳んじている人がいないのに、東洋の実業家が英国の古典を朗々と吟じたのだから無理はない。逆に考えれば、こちらが外国人を地方に案内したら、その外国人がその地のゆかりの謡曲、民謡を唸りだすようなものだ。

スコットランドのような例はいくらでもあり、石坂はスイスではシラーの「ウィルヘルム・テル」の一節を披露し国際会議でやんやの喝采を受けたこともあった。かくして年ごとに、石坂の英語、ドイツ語の教養の深さは世界の実業家の間で有名であり、外国人に尊敬された日本での最高の国際人であった。 

文責 田宮 卓

参考文献
梶原一明 「石坂泰三 ぼくは仕事以外の無理は一切しない」 三笠書房
城山三郎 「もう、きみには頼まないー石坂泰三の世界」 文春文庫
  1. 2010/10/05(火) 05:45:52|
  2. 石坂泰三(経団連2代会長)
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安田善次郎と浅野総一郎と鶴見線

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安田善次郎(安田財閥創始者)語録 http://bit.ly/yMrevo
浅野総一郎(セメント王)語録 http://bit.ly/nap6K2




平成22年10月2日
題名:「安田善次郎と浅野総一郎と鶴見線」



今日は横浜市のJR鶴見駅に用があっていったので、ついでに前々から機会があったら乗ってみたいと思っていた鶴見線に乗った。鶴見線は横浜市鶴見区と川崎市川崎区の埋め立て地である京浜工業地帯を走る電車で乗客のほとんどが工場の従業員である。何故このローカル線に乗ってみたいと思ったか、それは「浅野駅」「安善駅」「武蔵白石駅」と駅名が日本の工業化に貢献した人達の名前に由来しており、その工業化の成立ちの歴史を感じることが出来ると思ったからである。

浅野駅は浅野財閥を築いた浅野総一郎、安善(あんぜん)駅は金融王(旧富士銀行、現みずほフィナンシャルグループの創業者)といわれた安田善次郎、武蔵白石駅は旧日本鋼管(現JFEスチール)の創業者、白石元治郎の名前にそれぞれ由来している。終着駅の扇駅は浅野家の家紋が扇であったことに由来している。何故彼らの名前が駅名になっているかといえばこの京浜工業地帯を造った生みの親だからである。つまりこの線の駅名が京浜工業地帯の成立ちの歴史を物語っているのだ。 

京浜工業地帯は浅野総一郎が構想した計画で安田善次郎が資金的なバックアップをしてつくられた。そして京浜工業地帯の代表的な企業が旧日本鋼管であるがこの会社を興したのが浅野の女婿の白石元治郎であった。

浅野は浅野セメント(現太平洋セメント)、海運、石炭、石油、水力電気、鉄道、電機、造船、鉄鋼、不動産と次々に事業を興し財閥を築いていったが、最後に手がけたのがこの臨海工業地帯の開発であった。明治43年(1910年)の初秋のこと、神奈川県の鶴見川の川口から川崎の沿岸にかけての浅場を埋め立てて一大工業地を造成しようという計画で、当時の経済常識では破天荒すぎる計画であったので最初は誰も協力者はいなかった。「また浅野の大ボラ吹きかと世間はせせら笑った。」が、驚くことにこの浅野の気字壮大な計画に「面白い」と支持し、さらに、すべての事業資金を無担保で提供しようという男が現れた。その男が安田善治郎であった。同じ越中富山の出身という同郷のよしみもあったであろうが、世間では「浅野にカネを出すのは狂気の沙汰、大金をドブに捨てるようなものだと」酷評した。しかし安田は「天下広しといえども浅野ぐらいの仕事師はいない。浅野でなくては大きな仕事は出来ぬ」と全面的に支援した。

安田の資金的支援があり浅野は日本初となる港湾と工場を一体化した臨海工業地帯の開発に成功し京浜工業地帯は日本の本格的重化学工業地帯となった。浅野は臨海工業地帯開発の父としても歴史に名前を残こすことになる。

安田は事業の成否について「一にも人物、二にも人物、その首脳となる人物如何によって決まる。経営にあたる人物が満腔(マンコウ)の熱心さと誠実さとを捧げて、その事業と共に倒れる覚悟でかかれる人か、否かだ」と語ったとされる。

今は先の見えない不景気。経済成長戦力を早く打ちたてろと財界は政府に要望するが、こういう時だからこそ政府に頼るのではなく、経営者は浅野のようにチャレンジ精神を持って事業にあたり、銀行家は担保に頼らず安田のように本物の事業家を見抜き全面的に支援をしていくことが大事ではなかろうか。

文責 田宮 卓

参考文献
田村 明 「都市ヨコハマ物語」 時事通信社
宇田川 勝 「日本の企業家群像」文眞堂
青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社
日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人」 日経ビジネス文庫
加来耕三 「日本創造者列伝」 人物文庫 学陽書房
  1. 2010/10/02(土) 16:05:22|
  2. 安田善次郎(金融王)
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