偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

川田小一郎(日銀総裁3代)の知られざる逸話

川田小一郎(かわだ・こいちろう)略歴
1836年~1896年(天保7年~明治29年)日銀総裁(3代)10月4日土佐国土佐郡旭村(高知県高知市)生まれ。土佐藩に出仕後、三菱財閥の創業者となる岩崎弥太郎を知り、九十九商会時代から弥太郎の配下で管事となって事業を助け、三菱財閥創業期の功労者となる。鉱山、炭鉱関係の事業を推進し三菱の基礎を築いた。岩崎弥太郎の死後三菱の第一線から退き、明治22年、第3代日本銀行総裁に就任。さらに帝国議会開設と同時に貴族院勅選議員になった。日銀総裁在任中に急死。61歳で没

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xLH35E
偉人の名言格言集  http://bit.ly/o1ny2l





川田小一郎(日銀総裁3代)の知られざる逸話

平成22年9月25日
題名:「法皇として君臨できる理由」

  
昔は○○法皇、○○天皇などと呼ばれて業界に対して絶対的な力を持っていた人物が数多くいた。しかしただワンマンであった訳ではなく人一倍部下に対する面倒みがよく部下思いであるという面も持ち合わせていた。帝人に20数年社長として君臨した大屋晋三は大屋天皇といわれる程ワンマンであったが、人一倍部下に対する面倒見が良かったと聞く。日本銀行の第3代総裁の川田小一郎(かわだこいちろう)も法皇といわれる程のワンマンであったが人一倍部下思いであったようだ。

明治22年(1889年)後に第20第内閣総理大臣となる高橋是清(たかはしこれきよ)は、南米ペルーでの銀山開発で騙され負債を整理するため自宅の家屋敷をも売払い直ぐ裏の家賃6円の長屋に引っ越しをした。女房と二人の息子をかかえ生活はどん底まで落ちていた。

そんな時に日本銀行の法皇といわれた第3代総裁の川田小一郎(かわだこいちろう)が高橋の高潔な人物を認め長屋で浪人させておくのはもったいないと、ちょうど空席だった山陽鉄道の社長のポストを差し出す。当時の山陽鉄道の社長は今のJR西日本よりもはるかに大きい会社の社長といってもいいであろう。しかし高橋はこの話を断る。「ペルーの銀山で失敗し、ヤマ師とまで言われかねない経歴を持った人間を社長にして下さるお気持ちは大変うれしい。しかし、もし私が社長として失敗したら、天下の日銀総裁がその不明を恥じることにもなります。私は鉄道の社長など自信がありませんし、自信がないことは良心が許しません。私は自惚れを捨てたところから出発したいと思っています。どうか、丁稚小僧からやれる仕事を探していただきたい」川田はますます高橋が気に入り、「ではワシのところで玄関番をやってみるか」とたたみかけると高橋は「喜んでやらせていただきます」と答えた。そこで「日本銀行建築所主任」という端役ポストが用意された。しかし一つだけ問題があった。その建築事務所の所長は辰野金吾と言い、以前高橋が英語学校で英語を教えていた時の教え子である。川田は「教え子の下では、ちと、まずいかな」と問うたが、高橋は「そんなことはありません。喜んで辰野さんの下で働きます」と答えた。どこまでも無欲でポストや地位に頓着しない高橋は立派であるが、その後の川田の行動にも驚かされる。日銀で高橋に職を与えたのはいいが、大蔵省(現財務省)の田尻稲次郎が、「高橋のような山師を、信用を重んじる日銀に入れたのはけしからん」と陰口をたたいたのだ。

その陰口を知った川田はおおいに怒り、夜中の1時頃だというのに、二頭立ての馬車を仕立てさせて、田尻の家に乗りこんだのである。田尻は慌てて床から起き出して、川田を書斎に迎え、来意の目的を尋ねた。川田は口を開き「拙者は見るところがあって高橋を採用したのだ。監督官たる貴公が、これに異議があるとのことだが、それでは拙者は日銀総裁たる職責を全うすることができぬから、ただいまかぎり辞職する。」とぶちまけた。田尻はびっくり仰天、言下に失言を取り消して陳謝したが、川田はきかない。とうとう詫び証を一礼入れてようやく一件落着となった。

その後高橋は川田の期待に応え、日銀の総裁まで登り詰め、大蔵大臣(現財務大臣)7回と内閣総理大臣を務め日本の特筆すべき財政家として名前を歴史に残すこととなる。

文責 田宮 卓

参考文献
小林吉弥 「高橋是清と田中角栄 経済危機編」 光文社
小林吉弥 「高橋是清と田中角栄 不況脱出編」 光文社
小島直記 「スキな人キライな奴」 新潮文庫
スポンサーサイト
  1. 2010/09/25(土) 15:13:47|
  2. その他
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

高橋是清(第20代内閣総理大臣)

高橋是清(たかはし・これきよ)略歴(プロフィール)
1854年~1936年(安政元年~昭和11年)日銀総裁、大蔵大臣、第20代内閣総理大臣歴任。江戸生まれ。1875年、東京英語学校教師となる。1881年、農商務省工務局に入る。1892年、日銀に入る。1911年、日銀総裁となる。1913年、大蔵大臣、1921年、第20代内閣総理大臣。総理大臣辞職後も農商務相、大蔵大臣を歴任。1936年、2・26事件。赤坂の私邸で反乱軍の襲撃を受け、青年将校に射殺される。83歳で没。

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xlkcNu
高橋是清語録 
仕事編 http://bit.ly/x82u3I
経済編 http://bit.ly/yzpYml 
人生編 http://bit.ly/wLeH1b
高橋是清の知られざる逸話他 
■官僚に何故自殺者が多いのか http://bit.ly/zYUGTk




高橋是清の知られざる秘話

平成23年9月24日
題名:「ポストに執着しない男」




菅第2次内閣がスタートしたが、閣僚人事には妬みややっかみがつきものであるといわれる。自民党政権の時もそうであったが、このことは何も政界だけに限ったことではなく、官僚の政界でも民間企業の世界でも同じであろう。

しかし昔は私欲がなくポストにどこまでも執着しない恬淡(てんたん)とした人物が多くいた。そのうちの一人が日本銀行の歴代の総裁で唯一その肖像がお札(昭和25年から昭和32年にかけて発行された50円札)として使用された高橋是清(たかはしこれきよ)であろう。高橋は第20代内閣総理大臣も務めた。

高橋は安政元年(1854年)に生まれ昭和11年(1936年)に亡くなるまでのその83年の生涯は実に波乱万丈であった。芸者の箱屋(三味線運び)、アメリカでの奴隷から総理大臣にいたるまで、最下層から最上層に及ぶまで経験し、転職はゆうに20数回を数えるがポストや地位に関しては一貫して無欲であった。

明治22年(1889年)高橋は、農商務次官の敬愛する先輩から南米ペルーで銀を掘ってはどうかと話を持ちこまれる。資源小国の日本にとって労働力の吸収も見込める銀山の開発は大いなる魅力があると思い、初代特許局長の座をさっさと捨ててペルーのカラワクラ銀山経営のために自らも全財産をなげうっての出資、資本金50万円で日秘工業(にちひこうぎょう)株式会社を設立、その社長に就任する。しかしこのペルー銀山開発はとんでもない結果を招く。まず、日秘鉱業株式会社をつくるにあたり、カラワクラ銀山への下見調査に東京帝国大学卒業の田島某という技師をやったが、この技師がとんだ食わせ者でニセの報告書をデッチ上げていた。迂闊にもこれを高橋は信用してしまった。この技師はのちに詐欺罪で有罪判決を受ける。当時そんな裏事情は知らずに社長であった高橋は技師や、鉱夫を引き連れ、成功を夢見て現地入りした。ところが、アンデス山中を登って現地に着いてみると、なんと銀山は廃鉱であった。高橋は騙されたのである。普通ならここで夜逃げをしたくなるところだが、高橋は違った。まずは自宅を売り払い現地へ連れていった技師や、鉱夫への賃金を清算、さらに負債を整理し、自ら売り払った家屋敷の直ぐ裏の家賃6円の長屋に引っ越してしまった。

女房と二人の息子をかかえ生活苦はくるところまで来てしまったが、捨てる神あれば拾う神ありで、高橋是清のような人物を、裏長屋で浪人させておくのはもったいないという声が起こる。北海道庁に勤めないか、群長はどうか、県知事はどうかと色んな話が持ち込まれてきたが、何とももったいないことに高橋はこれらの話を全部断ってしまう。その理由がこうだ「これまで私が官途についたのは、衣食のためにしたのではない。今日までは何時でも官を辞して差支えないだけの用意があったのである。従って、上官が間違っていて正しくないと思ったときは、敢然これと議論して憚るところがなかった。しかるにいまや、私は衣食のために苦慮せねばならぬ身分となっている。到底、以前のように精神的に国家に尽くすことができない」なんと私欲がないというか国家、公共のために尽くすという真摯な精神には頭が下がる。

そして今度は日本銀行の第3代総裁の川田小一郎(かわだこいちろう)が高橋の高潔な人物を評価し、ちょうど空席だった山陽鉄道の社長のポストを差し出す。当時の山陽鉄道の社長は今のJR西日本よりもはるかに大きい会社の社長といってもいいであろう。しかしこの話も高橋は断ってしまう。「ペルーの銀山で失敗し、ヤマ師とまで言われかねない経歴を持った人間を社長にして下さるお気持ちは大変うれしい。しかし、もし私が社長として失敗したら、天下の日銀総裁がその不明を恥じることにもなります。私は鉄道の社長など自信がありませんし、自信がないことは良心が許しません。私は自惚れを捨てたところから出発したいと思っています。どうか、丁稚小僧からやれる仕事を探していただきたい」川田総裁はますます高橋が気に入り、「ではワシのところで玄関番をやってみるか」とたたみかけるとようやく高橋は「喜んでやらせていただきます」と答えた。そこで「日本銀行建築所主任」という端役ポストが用意された。しかし一つだけ問題があった。その建築事務所の所長は辰野金吾と言い、以前高橋が英語学校で英語を教えていた時の教え子である。川田は「教え子の下では、ちと、まずいかな」と問うたが、高橋は「そんなことはありません。喜んで辰野さんの下で働きます」と答えた。どこまでも無欲、恬淡で私欲のない男である。

その後、高橋は清潔な人柄、人懐っこい性格、面倒みの良さ、仕事ぶり等が認められ日銀総裁まで登り詰める。山本内閣で大蔵大臣(現財務省)に就任したのをかわきりに蔵相を計7回務め、松方正義と並び日本財政史上の特筆すべき「二大財政家」と称される。7回とも大臣の要請があっても全て「ノー」、しかし国家のために尽くして欲しいと説得され結局引受ける。「御国のためだから」この言葉に高橋は弱い。7回目の蔵相は昭和9年(1934年)11月81歳の高齢であったが、折からの軍事費の増大に老体を張って反対、これが青年将校たちの怒りを招き、昭和11年(1936年)2月26日、いわゆる「二・二・六事件」により83年にわたる生涯を終えることになった。高橋は最後の蔵相を何故引き受けたか、その胸中を側近にこう語ったとされる「もっと歳が若くて、先へ行ってご奉公できるというのなら別だが、ワシはもうこの年齢だ。いま、ご奉公しなければする時がない。ワシは最後のご奉公と思って入閣した・・・」


文責 田宮 卓

参考文献
小林吉弥 「高橋是清と田中角栄 経済危機編」 光文社
小林吉弥 「高橋是清と田中角栄 不況脱出編」 光文社
小島直記 「スキな人キライな奴」 新潮文庫
  1. 2010/09/24(金) 16:53:22|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

田口利八(西濃運輸創業者)

田口利八(たぐち・りはち)略歴
1907年~1982年(明治40年~昭和57年)西濃運輸創業者。長野県西筑摩郡読書村(現・南木曾町)生まれ。昭和5年、トラック運送業開業。昭和8年大垣に進出。戦後再発足して、昭和23年西濃トラック運輸(現・西濃運輸)を設立。同年業界初の長距離トラック運送を開始して現在の西濃運輸への足がかりをつかんだ。その後、全日本トラック協会会長等を歴任。昭和42年、福祉財団法人・田口福寿会設立。75歳で没。

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xLH35E
田口利八(西濃運輸創業者)語録 http://bit.ly/zPoKlJ




田口利八の知られざる逸話

平成22年9月23日
題名:「心を奮い立たせる花・福寿草」



「踏まれても、踏まれても強く野に咲く福寿草」この句の作者は月賦で買った中古トラック1台を持ってトラック運送業で身を起こし、西濃運輸を創業する田口利八(たぐちりはち)である。

「木曽路はすべて山の中にある・・・一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いた」これは、島崎藤村の「夜明け前」の書き出しであるが、この山深い長野の木曾谷(現南木曾町)で田口は明治40年(1907年)に生まれ育った。この付近に春一番に福寿草という花が咲くらしい。福寿草は長い冬の間、いくたびも雪に押しつぶされながらも、じっと耐え抜いて、やがて花を咲かせて人々に春が来たことを知らせる。この福寿草に自分の歩みを重ねて作ったのが上記の句である。

田口は23歳の時に中古トラック1台から運送業で身を起し、その後数々の苦境を乗り越えて業界トップ企業となる西濃運輸を育て上げた。戦時中は本社のある岐阜県大垣市が大空襲で焼け野原になった。本社構内の倉庫に2発、修理工場に3発を含め計42発の焼夷弾を落とされた。これを全員でぬれむしろでたたき消して戦火を免れた。

戦後はいち早く名古屋━東京間の長距離運送をはじめるため運輸省(現国土交通省)に免許の申請をする。今でこそあたりまえであるが当時は業界の常識を逸していた。長距離運送の行政は鉄道を中心に行っており、燃料も車も道も悪いこの時代にトラックの長距離運送は夢物語であった。運輸省に直談判するが当然取合ってくれない。しかしトラックの長距離運送の必要性を感じている田口は諦めない。また来たかといやな顔されても粘りに粘り、課長、部長、局長と厚い壁を一つずつ突破していく。通い詰めて20日ついに「まあ、検討してみるから正式申請を出すように」とついに運輸官僚を説き伏せて長距離路線の認可を勝ち取ることに成功する。かくして田口はわが国トラック業界の長距離輸送時代のパイオニアとして経済史に名を残すことになった。

「創業から今日まで、苦しいことの連続だった。それを克服することができたのも、あえて困難な道を選んだのも、春を告げる花・福寿草が教えてくれたものだ。踏まれれば踏まれるほど、たくましく育つ福寿草。私はこの野に咲く福寿草が、好きでたまらない」と後に田口は述懐する。 

福寿草精神の句は田口の生き方、歩んできた人生そのものが凝縮されていて何とも味わい深く心打たれる句である。私は福寿草の花を見るたびにこの句を思い出し心が奮い立たされる。

文責 田宮 卓


参考文献
青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社
日本経済新聞社 「私の履歴書 経済人15」日本経済新聞社
島崎藤村 「夜明け前 第一部(上)」 新潮文庫
  1. 2010/09/23(木) 05:14:29|
  2. その他
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

後藤新平とベンチャー企業

後藤新平(ごとう・しんぺい)略歴
1857年~1929年(安政4年~昭和4年)都市計画の先駆者。南満州鉄道総裁、外務大臣、東京市長歴任。陸中国胆沢郡塩釜村(現岩手県水沢市)生まれ。1874 年福島県須賀川医学校に入学。1881年愛知県医学校長兼病院長。1890年ドイツに留学。1892年帰国。内務省衛生局長に就任。1898年台湾総督府民政局長、後に民政長官に就任。1906年南満州鉄道初代総裁に就任。1908年逓信大臣に就任。初代の鉄道院総裁を兼務。1916年内務大臣兼鉄道院総裁。1918年外務大臣就任。1920年東京市長就任。1923年内務大臣兼帝都復興院総裁に就任。関東大震災から帝都をいち早く復興させてその名を歴史に残す。71歳で没。

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xLH35E
後藤新平語録 http://bit.ly/wDs74n
後藤新平の知られざる逸話他
■最大の経済対策は人を育てることである http://bit.ly/y0elfq
■関東大震災から帝都を復興させた政治家(全7話)http://bit.ly/wnpLA4





後藤新平の知られざる逸話

平成22年9月12日
題名:「ベンチャー企業を支援した政治家後藤新平」



昭和通り、日比谷通、墨田公園、墨田川の名橋これらの都市構造物は大正時代、東京市長の後藤新平が手掛けたものである。後藤は台湾総督府民政長官、南満州鉄道初代総裁、内務大臣、外務大臣、東京市長等を歴任、行革と都市政策の先駆者と言われた男であるが、
この後藤という政治家が異色だったのは実に多くの実業家を支援し育てたことではないだろうか。

後藤新平の関与を受けたという実業家を上げればきりがないが。鈴木商店の金子直吉は後藤が台湾総督府民政長官の時、台湾の樟脳油65%の販売権を取得し鈴木商店大飛躍のきっかけをつくった。

西武王国を築くルーツとなる軽井沢の沓掛(くつかけ)地区の開発を「今は経営者にしても気宇広大な奴がおらん。この軽井沢あたりも君のような若い者が50年ぐらいの計画で開発したらいい」と、まだ30歳にもみたない堤康次郎(西武グループ創業者)に勧めたのは後藤である。

読売新聞の再建を頼まれた正力松太郎が訪ねてきて「十万円(今なら数億円)貸してほしい」とお願いされた後藤は「新聞経営は難しいと聞いている。失敗しても未練を残すなよ。金は返す必要はない」と言い十万円を貸したという。当時、正力は政治家のことだから、どこかから都合したのだろうと思ったという。しかし、後藤の死後、実は後藤が自宅を抵当に入れ、無理して借金をした金であることを遺族から聞かされて知ることになり、正力は号泣したという。
また、後藤のもう一つの特徴は医療・医薬に携わる人達を支援したことであろう。星一(はじめ)が星製薬株式会社を設立する時支援をしている。

日本の細菌学者の父、北里柴三郎を支援したことでも知られ、漢方薬の津村順天堂(現、株式会社ツムラ)の創業者、津村重舎(ジュウシャ)をとても可愛がったといわれる。

株式会社クラレの前身となる倉敷絹織株式会社を創設した大原孫三郎が倉敷中央病院を創設すると、開院式にわざわざ岡山の倉敷まででかけて参加するなど、医療に携わる人達との交流にとても熱心であったようだ。

それはそのはずで後藤新平自身、元々医者であったので自然と医療・医薬に携わる人達の支援に力が入ったのだろう。明治15年(1882年)4月、自由民権運動を進める自由党総裁板垣退助が岐阜で演説中、暴漢に刃物で襲われ「板垣死すとも自由は死なず」と有名な言葉を叫んだ事件があったが、この時真っ先に岐阜に駆けつけ板垣の治療をしたのは実は後藤であった。 

業界団体や財界の利益誘導をして見返りに献金をもらう政治家はいても、後藤新平のようにベンチャー企業を支援する政治家はなかなかいないのではないか。

政権交代目前で大きく政治が変わろうとしている今、後藤のような政治家が出現することを期待したい。人材の育成こそが産業発展の要である。


 文責 田宮 卓
  1. 2010/09/12(日) 21:19:02|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0