偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

田中角栄「凄い男」

田中角栄(たなか・かくえい)略歴
1918年~1993年(大正7年~平成5年)内閣総理大臣(第64・65代)。新潟県刈羽郡で誕生。二田尋常高等学校卒。1934年、理化学研究所の大河内正敏所長を頼りに上京。住み込みなどを経て、建築設計事務所を開く。1936年、中央工学校土木科卒。1947年、2度目の立候補で衆議院議員に初当選。郵政相、蔵相、自民党幹事長、通産相を歴院。1972年、第64代内閣総理大臣。1976年、ロッキード事件で逮捕される。75歳で没

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田中角栄の知られざる逸話

平成22年8月15日
題名:「凄い男」


10数年前、衆議員議員の宿舎でアルバイトをしてた時、また国会議員の秘書をしていた時に、故田中角栄と実際に接したことのある人達から田中角栄の話を多く聞く機会があった。話を聞いてみると今でも神様みたいに思っている人が多い。金脈政治と一つの面だけをとらえて評価するのにはあまりにも惜しい人物である。面倒見の良さや人望といった人間力を取り上げれば、田中角栄に匹敵する人物は今も昔も恐らくいないであろう。ここでは田中角栄にまつわる話で一番印象に残っていることを紹介したい。

故佐藤栄作元首相の秘書の経験をされたことのある女性の経営者とお話をする機会があった。佐藤栄作のことを色々と聞かせていただいた後、田中角栄の思い出話をしてくれた。

年の暮れ、都内のホテルで佐藤首相(当時)と田中幹事長(当時)とが会談をした。会談が終わり、田中幹事長がホテルを出られるので玄関までお見送りにいったところ、田中幹事長の車の窓があき、こちらに手招きをしている。なんだろうと思って近づいて行くと、田中幹事長が「年は越せるかい」と声をかけてきたと言う。「はい」と答えると「何かあったら何時でも私のところに言ってきなさい」と言われたという。それ以来、私(女性経営)はどんなに辛いことがあっても、これ位のことで田中先生にお願いしては申訳ない、そう思い歯を食い縛って今日まで頑張ってきました。と眼に涙を浮かべながら話をされた。今でも田中先生の言葉が自分の支えとなっており感謝をしていると述べられた。

この話には私もとても感動した。今まで聞いた田中角栄の話で一番印象深い。佐藤栄作の秘書さんにも声をかける優しさだけでなく、たった一言がその人の生涯の励みになるのだから本当に凄い男であったのだなとつくづく感じた。


文責 田宮 卓
 


 
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  1. 2010/08/15(日) 21:22:44|
  2. 田中角栄内閣総理大臣(第64・65代)
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吉田茂(元内閣総理大臣)

吉田茂(よしだ・しげる)略歴
1878年~1967年(明治11年~昭和42年)。外交官、政治家。内閣総理大臣。位階は従一位。勲等は大勲位。神奈川県出身(東京生まれ)。東京帝国大学法科卒。外務大臣(第73・74・75・78・79代)、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、 第一復員大臣(第2代)、 第二復員大臣(第2代)、農林水産大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、などを歴任した。89歳で没。

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吉田茂の知られざる逸話

平成22年8月5日
題名:「人の上に立つ人は腰が低い②」



青山に国会議員が寝泊りする宿舎がある。私はそこの宿舎で学生時代(1999年頃)、青い制服を着て守衛のアルバイトをしいた。受付で座っているだけの暇な仕事であった。夜勤であったが夜は衆議員の職員(守衛)を定年退職されて再雇用となった人と2人で警備をする。警備といっても特にすることはなく事務所の中でよく2人で話をしていた。暇なこともあり政界のよもやま話をさんざん聞くことが出来た。その中で一つ印象深い話がある。

わしが新人の頃、国会で警備をしていた時、吉田茂首相が廊下を歩いていて近づいてきた。そしたら手を上げて「やあ、御苦労さん」と声をかけてくれる。ワンマン宰相と言われていたが、吉田茂は我々下々の人間にはとても優しかったと懐かしそうに初老の大ベテランの男は語ってくれた。

中途半端に偉い人ほど偉そうにする。守衛をやっているとそのことが良く分かる。挨拶しても挨拶をしない人。上から目線で守衛等、人間とは思っていない人等、様々だがこれだけは言えるのは本当に立派な人物、人の上に立つ人は腰が低い。 

文責 田宮 卓

 
  1. 2010/08/05(木) 14:39:25|
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江戸英雄(三井不動産元社長)

江戸英雄(えど・ひでお)略歴
1903年~1997年(明治36年~平成9年)三井不動産元社長。茨城県生まれ。昭和2年、東大法学部卒業後、三井合名に入社。昭和22年、三井不動産に移る。昭和30年社長。昭和49年会長。94歳で没。

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江戸英雄の知られざる逸話

平成22年8月3日
題名:「朝の来ない夜はない」



朝の通勤電車に乗ると、本を読んでいる人、新聞を読む人、マンガを読む人、ゲームをする人、寝てる人、何もしてない人と様々だが普段の心がけと勤勉性が大きなチャンスを掴めるかどうかの鍵を握るようだ。

昭和2年(1927年)、東京大学に入学出来たものの、結核を患い学校にもほとんどいけず留年しながらも何とか卒業した江戸英雄は三井合名に入社した。配属されたのは不動産課であった。不動産についての法律を研究するというのが名目であったが実際はコンニャク版をとらされたり書類を整理したりの雑用係だった。江戸は不器用で雑用を手際よく処理する才覚は全くなく女性の事務員にも笑われるようなヘマばかりをしていた。さらに面白くないことに当時毎年一名位しか入社しない東大出ということで、現場からの叩き上げの連中に東大出ても雑用も出来ぬ役立たずと苛められた。これではとてもやっていけないと2ヶ月目で辞表を書いたが先輩に厳しくいさめられる。1年後にもう一度辞表を書くが今度もいさめられた。

二度目の辞意を思いとどまった後、こんどは断然サラリーマンに徹することを江戸は決心する。誰よりも早く出勤し雑用を進んで引き受けた。会社が終わると神田の夜学の簿記学校に通い、簿記とソロバンを身に付けた。英文タイプ、邦文タイプも身に付けた。法律を勉強しようと学校時代の友人と判例研究会を作り、月1~2回のペースで法律の勉強会をした。入社して約10年間は雑用しかさせてもらえなかったが、ずっと続けていた判例研究会での法律の勉強が大いに役立つ時が来た。

三井家の問題で相続の問題が起きたのだ。年取った弁護士が手続きを間違えて非常に大きな税金がかかるようになった。老大家もお手上げ状態であった。そこで判例研究会のメンバーでこの相続の問題を検討してみたら救済の方法があることを発見できた。早速この対策を上部に進言した。会社では投げていたものだから出来るのならやってみろ、ということになった、策は予定通りの結果となり見事にやり直しに成功した。若者の大手柄であった。江戸は三井合名の社長に呼び出され「ご苦労であった」と分厚い札束を渡された。後で確かめてみると何と3千円の大金であった。当時の3千円というと家の一軒が買えた。今の金額に直すと1億円前後であろうか。

報われる、報われないに関係なしに勉強をしていたことが役だったのだ。それ以来江戸は重要な仕事をどんどん任されるようになり、めきめきと出生していき三井不動産の社長に登りつめる。日本初の超高層ビルであった霞ヶ関ビルやディズニーランド、新宿の三井高層ビルの建設など大きな仕事を成し遂げていった。

晩年、江戸は若者へのアドバイスとして語っている。会社に入ってからも弛まず勉強努力を怠らぬこと。サラリーマンとして最終的に力を発揮するのは、地道な勉強で身に付けた正確な知識と判断である。なんでもいい、一つ自分で好きな道を選んで、それについては誰よりも豊富な知識と知恵を身に付けることだ。そうして身に付けたものが、仕事の上で役立つ日がくるかこないか、それは誰も保障できないが、自己形成に役立つことははっきりしている。とすれば、そのような自己を持つサラリーマンこそ、機会があればすぐにも十分に仕事の上でも力を発揮できる、期待されるサラリーマン像といえはしないか。それに万事に志を遠大にして、社会的なひろがりのなかで前向きに取り組むことだ・・・。 
 
そして江戸はサインを求められると書く言葉が表題の「朝の来ない夜はない」である。

最後に私が好きなリンカーンの名言を紹介しよう

「私は機会の到来に備えて学び、いつでも仕事にかかれる態勢を整えている」 
アブラハム・リンカーン(アメリカの第16代大統領)

文責 田宮 卓
  1. 2010/08/03(火) 00:28:40|
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