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偉人のエピソード逸話集

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石橋湛山

石橋湛山(いしばし・たんざん)略歴
1884年~1973年(明治17年~昭和48年)内閣総理大臣(55代)。ジャーナリスト。東京都生まれ。山梨県南巨摩郡出身。早稲田大学文学部卒。東京毎日新聞社を経て東洋経済新報社に入社。1941年に代表取締役社長に就任。総選挙に出馬して落選するも大蔵相に就任。衆議院議員当選。通産相、内閣総理大臣などを歴任。88歳で没。

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石橋湛山の知られざる逸話

平成22年5月24日
題名:「大器晩成」

1884年東京都麻布区で仏門の息子として生まれた石橋という男は学生時代優秀とはいえなかった。甲府中学を2回落第し、卒業して一高を受験するも2回スベっている。2回浪人して早稲田大学に入学する。大学こそ首席で卒業するが就職浪人をして東京毎日新聞に入社。しかし社内で内紛があり在職8ヶ月で退職。学生時代、社会人のスタートはどう見ても順調とは言えなかった。

しかし、石橋はその後東洋経済新報社に入社するとジャーナリストとしてメキメキと力をつけます。あっというまに社長にまで登りつめ日本の言論界のリーダーとなります。戦後はジャーナリストから政治家に転身し、第1次吉田内閣蔵相(議席はなかったが)、鳩山内閣通産相を歴任。この石橋という男がその後日本の総理大臣になる石橋湛山です。

人間の一生には学校の点数とは別の要素も必要なようです。石橋の場合その第1に「出会い」がありました。中学を2回落第したことが幸いをもたらし最終学年で大島正健校長と出会うことができます。大島校長は札幌農学校の第1回卒業生でクラーク博士の教えを受けておりました。大島校長からクラーク博士の教訓を聞くことができ、これが石橋にとって一生を支配する影響だったといいます。大島校長に出会えたことで学問や生活の覚悟なりを全て切り換えたという、つまり生きるための指針、羅針盤を得ることができたのである。2回落第をしたことで出会えたのだから人生どこでどんな偶然があるか分かりません。

第2に大学を卒業してからの本格的な勉強があります。東洋経済新報に入社して経済記者になってから猛勉強をはじめます。通勤電車の中で、経済学の原書を読了していきます。経済学文献、古典まで読破していきました。この根気と情熱があったために昭和時代「金解禁」論争がおきた時、文字どおりのオピニオンリーダーになりました。

学校秀才であれば将来性があり、そうでなければ望みがないと一般的に思われがちですが、他にそれ以上に大事な要素があるようです。もちろん学校の成績が悪い方がいいとは言いませんが、エリートコースを只管歩んできた人が人生の後半で晩節を貶すことや、失敗をして立直れなくなるケースが多いのも事実であります。

人生早咲きする必要はありません。花を咲かせるのは遅くても構わないのでそれまで自分を磨きあげることが大事でしょう。何れ花が咲くとき大きな可憐な花が咲くか、小さなみすぼらしい花になるかはそれまでどれだけ自分を磨いてきたかにかかわるでしょう。
  

文責 田宮 卓
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  1. 2010/05/24(月) 06:58:11|
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