創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!
山内健二(やまのうち・けんじ)略歴
1899年~1969年(明治32年~昭和44年)山之内製薬(現・アステラス)創業者。兵庫県加古郡(現・加古川市)に農家の五男として生まれる。大正9年、大阪貿易語学学校卒業後、高木商会へ入社。大正12年、大阪市西区に山之内薬品商会を創立。「ゲリゾン」、「アルバジル」などをヒットさせる。昭和15年、社名を「山之内製薬」とする。69歳で没。
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偉人の名言格言集 http://bit.ly/o1ny2l」平成21年8月9日
題名:「真に社員を大切にする経営者」山之内製薬(現・アステラス)の創業者、山内健二は社員のモチベーションを上げる天才であった。幾つか実際の社員の証言でそのことを記してみよう。
山之内製薬の福岡支店に勤務していた社員が1962年(昭和37年)8月の人事異動で、札幌支店の営業管理課長を命ぜられた。赴任の途中、本社への挨拶を終え、翌19日(日曜日)、社員とその家族4人が札幌行きの1時38分日本航空に乗るため羽田空港改札口の雑路に立っていると、突然、山内社長が現れたという。「大変だね」と社長に声をかけられた社員は、お客様のお見送りかお出迎えのために見えたものと思い、「社長のお客様は何時でございますか」と尋ねてみた。すると社長は「いや、今日は君の見送りに来たんだよ。」と言われたという。社員は感激してお礼を言って改礼を通り、大分歩いて曲がり角に来たので後ろを振り返ると、社長はまだ手を振っていたという。
若い新任の課長のために、会社の社長が日曜日にわざわざ羽田空港までお見送りに来てくれた感激は生涯忘れないという。この社員が大いにやる気になって札幌に向かったことは言うまでもない。
ある部下は東京の経堂に下宿をしていた頃、役員会が長引いて遅くなったので新宿まで山之会長(当時の肩書)の車に同乗させてもらった。すると山内会長はついでに君の下宿まで送ろうと言って、わざわざ遠回をして送ってくれたという。その時会長に「万一、君が病気になった時、下宿先ぐらい知らないようでは困るから」と言われたという。この部下は会長の親心に似た優しさをこの時ほど胸にしみたことはないという。
また山内社長は、平社員の名前も覚えており機会あるごとに「君の誕生日は何月であったな」「君の子供は元気か」と声をかけたという、新入社員に対してもエレベータに乗ってくると「○○君、今日から出社かね」と声をかける。無論、声をかけられた社員は感激し期待にこたえようと大いに頑張る気になったという。
そして山内社長は直筆の手紙で部下、社員に対して常に祝いの手紙、慰労の手紙を具体的なことを言及して送り続けたという。
当時、山之内製薬では山内社長に一言声をかけられることで大いにやる気になり、生涯その言葉が励みになったという社員が沢山いたといいます。
明治、大正、昭和の経営者には山内社長のように社員を本当に大切にし、心を捉えることが出来る人物が多かったです。そういう経営者は社員から信頼されて慕われておりました。今の自分があるのはあの方のお陰、あの方の期待にこたえるために頑張ろうと思ってくれる社員に経営者は支えられておりました。
現在このようなタイプの経営者は少なくなっている気がしますが非常に残念です。
文責 田宮 卓
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- 2009/08/09(日) 15:51:39|
- 山内健二(アステラス製薬創業者)
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山内健二(やまのうち・けんじ)略歴
1899年~1969年(明治32年~昭和44年)山之内製薬(現・アステラス)創業者。兵庫県加古郡(現・加古川市)に農家の五男として生まれる。大正9年、大阪貿易語学学校卒業後、高木商会へ入社。大正12年、大阪市西区に山之内薬品商会を創立。「ゲリゾン」、「アルバジル」などをヒットさせる。昭和15年、社名を「山之内製薬」とする。69歳で没。
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平成21年8月8日
題名:「発展する会社はどんな人にも丁寧な対応をする」「会社へ出入りする人は皆、お得意様と思え」これは山之内製薬(現アステラス製薬)の創業者、山内健二が常に社員にいい聞かせていた言葉であったという。
ある時は朝の訓示で「会社に出入りする人は清掃屋さんもお得意様と思え」と述べる。清掃屋さんも商品を使って下さっているかもしれないし、今後使って下さるお客様に成りえるかもしれないということなのでしょう。
またある時は玄関に入ってくる人に対する社員の心構えとして「第一に玄関を入ってくる人は全てお客様である。得意先はもちろんであるが、山之内に商品を納入している仕入先(原材料)、食事を提供する弁当屋さん等、あらゆるサービスを提供してくれているために山之内の企業が成り立っているわけである。一つがかけても仕事に支障をきたし会社の運営がうまくいかなくなるのである。以上の心構えで会社に訪問する人に接して欲しい」と述べる。
購買部には購買の心構えとして「購買部というところは家に例えるなら、営業部が表玄関なら購買部は裏玄関に当たる。従ってそれだけ重要なところだから、それ相当な心配りで当たりなさい。いやしくも物を買ってやっているという気持ちを持ってはいけない。当社の製品は取引先のお蔭でできるのだから、相手様に対しては物を売ってもらっているという気持ちで接しなさい。」と述べる。
当時の山之内の大阪店の受付嬢の丁重な対応ぶりは、道修町界隈で評判であったという。
後発である山之内製薬が発展しえた要因の一つには会社に関わる人を全てお得意様と思い接するということが、社員の末端にまで浸透していたこではないだろうか。そのような会社が取引先や業者さん、消費者から信用を得られない訳がありません。
逆に営業の電話がかかってくると無愛想に電話を切る会社は多いと思います。電話をかけた人はもしかしたらその会社の製品のユーザーであるかもしれません。また上場企業であれば株主であるかもしれませんし、将来株主になってくれる人かもしれません。しかしそのようなことを意識して電話に出る会社の社員がどれだけいるでしょうか。営業の電話をかけた人にしろ、出入りする業者さんにしろ、無愛想な対応や横柄な対応をされればその会社のことに決していいイメージを持ちません。その会社の製品やサービスを使わないし結果評判も落とすでしょう。
経営者の姿勢がそのまま社員に反映される要素が大きいでしょうが、日々どのような気持ちで会社と関わる人達と接するかが会社の興廃に大きく影響するでしょう。
文責 田宮 卓
- 2009/08/08(土) 23:57:28|
- 山内健二(アステラス製薬創業者)
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山内健二(やまのうち・けんじ)略歴
1899年~1969年(明治32年~昭和44年)山之内製薬(現・アステラス)創業者。兵庫県加古郡(現・加古川市)に農家の五男として生まれる。大正9年、大阪貿易語学学校卒業後、高木商会へ入社。大正12年、大阪市西区に山之内薬品商会を創立。「ゲリゾン」、「アルバジル」などをヒットさせる。昭和15年、社名を「山之内製薬」とする。69歳で没。
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山内健二の知られざる逸話他
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平静21年8月2日
題名:「後発企業が新規参入するための方法」新規参入事業には当然、当該業界の先発組が存在します。新規事業のシェアを伸ばして、新しく利益を確保するためには先発組が占拠している「聖域」「牙城」と目されているところを、果敢に攻めて取り崩していく作業をしなければなりません。では後発で市場に参入するにはどのように先発組の大手企業の牙城を崩せばいいのか? 過去の事例として山之内製薬(現アステラス製薬)の創業者、山内健二が行った戦略を取り上げて一例を示してみたいと思います。
1922(大正12)年、山内健二は高木商店(薬品部に所属)を辞し、仲間とともに大阪市西区に小さな店を構えました。山之内薬品商会は第一歩を踏み出します。「山之内」としたのは、「山内」が「やまうち」とも「やまのうち」とも読めることから、混乱するのを避けるためでした。山内が24歳の時であった。
まず手がけたのは鼻炎治療剤「清鼻液」の製造販売。しかし、できたばかりの小さな会社の薬を扱ってくれる代理店や薬局はそうはありません。当時業界では、大阪に本拠を置く江戸時代から続く武田長兵衛商店(武田薬品工業の前身)や、田邊屋五兵衛商店(旧田辺製薬の前身)、塩野義商店(塩野義製薬の前身)などがしのぎを削っており、老舗の多くは問屋から出発しただけに流通経路をがっちり握り、新参者の会社の製品を扱ってくれるところはおいそれと出てこなかった。
1924年(大正14年)にロイマチス治療剤の「カンポリジン」が発売され、後に長寿商品となりますが、これがヒットしていなければおそらく山之内薬品商店の発展はなかったでしょう。
開拓すべき行く手にはすでに先発組があり、後発で資金力の乏しい商会がどのようにこの難関を突破すればよいかを考えた。山内が最初に行ったのは月1回のダイレクトメールである。部下に全国の病院リストを作らせ、そして自らペンを取り、「カンポリジン」の説明や使用法などを入れた通信文を書きあげた。山内はこれに1cc入りのアンプルを沿え、全国の病院に郵送した。今でいうPR用のニュースレターのようなものと試供品を送ったのだ。通信文には、毎号山内が自ら書いた新たな治療例が記載された。このユニークなダイレクトメール作戦の効果はすぐさま現れ、しだいにあの薬はどこで手に入るのか、という問い合わせが相次ぐようになってきたのだ。
そして山内は新薬の製造、販売に的を絞り、社員には徹底して、新薬に関するヒントや情報の収集をすることを命じます。アメリカの大学にも聴講生を派遣して情報の収集を当たらせる程の徹底ぶりであった。
それだけではなく、医師と直接会話をするために卸の営業担当者に山之内の社員を同行させ、社員の口から製品の説明をさせるようにしました。現在ではMR(医薬情報担当者)が病院・医院の医師に面会して新薬に関する情報提供・収集を行うのが医薬品業界の重要な営業活動となっていますが、卸の営業担当者に社員を同行させることで直接ユーザーである医師からニーズを聞き出すようにしました。
そしてこれらの情報をまとめて即決で新薬の開発に取り組み他社よりも早く新薬を市場に流通させることに成功させます。
まず初めに解熱消炎利尿剤「タカローゼ」が大当たりし山之内商会の製品二本柱になりました。またドイツのドマーク博士が新しい化学療法としてズルフォンアミド剤「プロトジール」を創製し、その効力が世界的に知られるといち早く情報をキャッチして、自ら陣頭指揮をとりわずか1ヶ月余りでその合成に成功します。「ゲリゾン」の名で世に送り出され一大センセーションを巻き起こしました。次に「ゲリゾン」より幅の広い菌に優れた効果のある二基ズルフォンアミド剤「アルバジル」の製造を発表します。この発表で山之内の名は日本中に広まることになりました。
大手企業になるほど意志決定に時間がかかるようになります。また、会社の看板、信用に胡坐をかいてお客様の要望を真剣に聞かなくなります。そこに油断があり牙城が崩れる隙が出来ます。
後発ベンチャー企業はお客様のニーズを素早く吸上げ他社よりも一日も早く商品化して市場に流通させるスピード力こそが、先発組の牙城を崩す一つの成功モデルになるのではないでしょうか。それも山之内薬品商会のように一気呵成に取組むことが大事で、スピード力がないとたちまち大手企業に真似をされて市場から撤退させられることになりかねません。
文責 田宮 卓
- 2009/08/02(日) 23:43:07|
- 山内健二(アステラス製薬創業者)
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