偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

高峰譲吉(第一三共創業者)

高峰譲吉(たかみね・じょうきち)略歴
1854年~1922年(嘉永7年~大正11年)三共商店(現・第一三共)創業者。加賀藩典医、高峰精一の長男として、現在の富山県高岡市に生まれる。1873年、工部大学校(現・東大工学部)に入学。1880年、英国留学。1884年、帰国後、米国ニューオーリンズ万国に事務官として出張。1890年、高峰式元こうじ改良法で特許。米国移住。1892年、高峰式のウイスキー製造実験に成功。1899年、日本での同酵素製造販売のため、三共商店(現・第一三共)設立する。67歳で没。

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高峰譲吉(第一三共)創業者の知られざる逸話

平成21年7月25日
題名:「今こそパイオニア精神を」



わが国で研究開発型ベンチャーの草分けは誰かと聞かれれば、私は真っ先に高峰譲吉(たかみね・じょうきち)の名前を挙げるが今、彼の名前を知っている人がどれほどいるであろうか。決して忘れてはいけない誇り高き日本人の一人だと思います。

ニューヨークのブロンクスに広大で有名なウッドローン墓地というのがありますが、その案内書によると「科学・発明」の分野でここに眠っているのはたった4人、そのうちの二人が日本人で野口英世ともう一人が高峰譲吉である。案内書には高峰は「近代バイオテクノロジーの父」と紹介されております。

高峰譲吉は、安政元年(1854年)越中国(現在の富山県)に生まれた。明治12年(1897年)、工部大学(現在の東京大学工学部)応用化学科を卒業し、翌年イギリスに留学、その間高峰の脳裏には「欧米に大きく遅れた日本の化学工業をいち早く立ち上げる」という使命感がついて回ったという。帰国後、農商務省に入った。農商務省に職を得た高峰は、肥料による日本の農業改良に乗り出します。高峰がただの頭でっかちの科学者と違っていたのはこれからの動きである。単に日本の土壌にあった肥料を探したり研究するだけでなく、製造、販売を目的とした会社設立を考えた。産業界の重鎮である、渋沢栄一や三井物産の益田孝に対して、わが国の農業経営の特徴からみた人造肥料の効果と意義を力説し、彼らも高峰のビジネスプランに賛意を示し渋沢栄一を社長にした東京人造肥料株式会社を設立した。この会社が日産化学工業株式会社として現在に至っている。

その後アメリカに渡米して研究を続けることになるが「タカジアスターゼ」という消化酵素を発見します。これをデトロイトの医薬品会社パーク・デービスが消化薬として商品化した。胃のもたれがなくなると全米で大評判になりまたたく間に世界に広がった。

高峰は日本での販売権だけを契約から除外しておいた。その2年後、明治32年(1899年)に、日本でタカヂアスターゼを販売する三共商店(旧三共、現第一三共)が塩原又策、西村庄太郎、福井源次郎の3人によって設立され、1913年(大正2年)に三共株式会社となり、高峰は初代の社長となった。これが、世に言う「三共胃腸薬」の第一歩であった。

その後、高峰は医学界の大発見といわれる「アドレナリン」を発見する。「アドレナリンなくして医学会なし」と言われたほどの「世紀の発見」であった。

彼が発見した「タカヂアスターゼ」は100年経った今も胃腸剤、消火剤として使われ、日本だけで年間100万トン生産されていると言われます。もう一つの大発見 「アドレナリン」は、世界最初のホルモン物質(内分泌物質)である。これも今もなお医療の最前線で使われる新薬でその強い止血作用は手術の現場では不可欠だという。これを使うと出血はそれまでの10分の1で済み。「奇跡の薬」「世紀の薬」と称される。

高峰は化学技術を産業に結びつけた最初の日本人であり研究開発型ベンチャーの草分けである。

医薬品の開発はハイリスクハイリターンと言われます。またジェネリック医薬品のグローバル化が進んでおりますが、日本の製薬メーカーはそれに負けることなく高峰のようにパイオニア精神を持って新薬の開発をすることで世界の外資系製薬メーカーと堂々と戦ってほしいものです。


 
文責 田宮 卓
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  1. 2009/07/25(土) 14:46:26|
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山本為三郎

山本為三郎(やまもと・ためさぶろう)略歴
1893年~1966年(明治26年~昭和41年))実業家。ビール王、ホテル王と呼ばれた。大阪市中央区船場生まれ。明治42年、旧制北野中学校(現、北野高校)在学中、家業早期継承のため父が隠居、家業を継ぐ。昭和24年、朝日麦酒(現・アサヒビール)社長に就任。その後、新大阪ホテル、大阪ロイヤルホテルを設立。昭和30年、東京交響楽団理事長に就任。昭和41年、実業家として現役のまま、72歳で死去。

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山本為三郎の知られざる逸話

平成21年7月17日
題名:「今こそ共存共栄の精神を」


1963年(昭和38年)洋酒大手の寿屋(サントリー)社長の佐治敬三はビール事業進出を決断していたが、ビール市場は朝日麦酒(アサヒビール)、日本麦酒(サッポロビール)、麒麟麦酒(キリンビール)3社の寡占市場であった。

全国の卸屋(東京・横浜は除く)はすべて、キリン、サッポロ、アサヒ何れかのビールの特約卸売店に指定され、しかもそのほとんどが専売契約に縛られて一社の製品しか扱えなかった。蟻の這いいる隙間もない状況でした。実際に数年前、宝酒造が新規参入を試みましたが撤退を余儀なくされている。

佐治は意を決して、朝日麦酒社長の山本為三郎の門をたたきました。山本は佐治の父親の信治郎(寿屋の創業者)とは同じ大阪の船場の育ちで竹馬の友でした。佐治は無理を承知で頭を下げると、意外にも山本は「よし、わかった。うちの販売網を貸そう」と言ってくれた。「わが国のビール生産者は世界に類を見ないほど数少ない。業界の健全な発展のためには一つくらい新しい会社が育つようにしてやらなくてはならない」これが山本の門戸開放の弁であった。

山本の家は生粋の大阪町人である。大阪人を知りたければ山本の家にいけば一番正統な大阪が残っていると言われるぐらいであった。大阪商人の商人訓で「近所に同業ができたら誼みを厚くして相励め」というのがあります。同業は競争者ではないという精神である。 
「大阪の道修町の街は端から端まで薬屋が並んでいるが食うか食われるかの激しい競争ではなく共存共栄の精神で徹してきたのだと思う。これが本当の大阪商人である」と山本は生前語っていたという。

サントリーにビールの門戸開放を決断したのも山本が大阪商人の共存共栄の精神を受けついでいたからではないかと思います。

またパナソニックの創業者、松下幸之助は仕入先との共存共栄を常に考え自分のところだけ儲けることはしなかったと言われています。仕入先に値下げをお願いする時は、仕入先の工場を見せてもらい、この点を改善すればもっと安く出来るのでないかと先方と一緒に検討し、十分得心してもらってから値下げをしてもらっていたそうです。

しかし今はどうでしょうか。少しでもコストを削減したいがために一方的に発注者側が価格を叩くということが行われていると思います。発注先が損をしてもそんなことは気にもしないのでしょう。

この不景気でどこも苦しいのは同じです。私はこれから自分だけ生き残ればいいという発想の会社は行き詰り、苦しい時こそ共存共栄の精神で取組んでいける会社が生残るのではないかと思います。
 
文責 田宮 卓
  1. 2009/07/17(金) 22:57:43|
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市村清(リコー創業者)

市村清(いちむら・きよし)略歴
1900年~1968年(明治33~昭和43年)リコー創業者。佐賀県生まれ。中央大学法学部卒。銀行員、保険代理店経営を経て、昭和8年理化学興業入社。昭和11年理研光学(現・リコーの前身)社長。戦後、三愛石油、三愛計器、三愛商事等を設立してリコー・三愛グループを形成した。他方、市村学校と称して若手経営者の指導にあたった。68歳で没。著書に「欧米見聞記」他。

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市村清(リコー創業者)語録 http://bit.ly/n3lEI1

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■諦めない人が道を開く http://bit.ly/wEOebi
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市村清の知られざる逸話

平成21年7月5日
題名:「従業員は使用人ではない事業の協力者だ」



終戦直後の1945年、リコーの創業者市村清は「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」という三愛主義を揚げ「三愛商事」を設立した。銀座4丁目の交差点に食糧品店の開業を計画したのだ。

しかしこの土地には皇后様の足袋を御用達している老舗の足袋屋があり、この土地の所有者である老未亡人原田せいは「先祖伝来の土地を売るわけにはいかない」の一点張りで頑なに土地を手離そうとはしなかった。それでも諦めきれない市村は大雪の日、世田谷に住まいしている老未亡人の家に訪ねるが未亡人は市村に会おうともしない。

ところが翌日の午後、浅草の理研本社に老未亡人が一人で訪ねてきた。雪道を歩いて来た老未亡人の足袋はびしょ濡れで、着物の袖には泥水がはねあがっていた。来社した老未亡人の足元をみた女性従業員はすぐさま自分のスリッパを履かせ、抱きかかえるように社長室に連れていった。社長室に入った彼女は今までとは違い、表情が明るかった。「市村さん。実は今日はお断りするつもりで参ったのですが、たったいま階段を上がってくる間に気が変わりました。このような会社に譲るのでしたら先祖も喜ぶでしょう。無条件でお譲りします」と言うのだった。女性従業員の温かい心遣いが老未亡人の心を打ったのだ。この女性従業員の対応がなければ、現在銀座4丁目にそびえる「三愛ビル」はなく市村の事業計画は頓挫していたであろう。

市村は初めて人を使う立場になった時、特別な学歴も人脈もない自分が今後伸びようとすれば従業員が心から協力してくれるかどうかにで決まると考え、子供に対する愛情を持って従業員に接してきたという。その結果が女性従業員の自然と心温まる行動につながったのであろう。まさに従業員は事業の協力者どころか貢献者である。従業員一人一人がこのような気持ちでお客様や取引先と接していれば会社の経営は間違いなく上向くだろうが、経営者が従業員を使用人扱いしていれば決して協力者にはなってくれないであろう。

文責 田宮 卓
  1. 2009/07/05(日) 16:16:23|
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市村清(リコー創業者)「諦めない人が道を開く」

市村清(いちむら・きよし)略歴
1900年~1968年(明治33~昭和43年)リコー創業者。佐賀県生まれ。中央大学法学部卒。銀行員、保険代理店経営を経て、昭和8年理化学興業入社。昭和11年理研光学(現・リコーの前身)社長。戦後、三愛石油、三愛計器、三愛商事等を設立してリコー・三愛グループを形成した。他方、市村学校と称して若手経営者の指導にあたった。68歳で没。著書に「欧米見聞記」他。

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市村清の知られざる逸話

平成21年7月4日
題名:「諦めない人が道を開く」




「成功の要諦は成功するまで続けることにある」成功したければ成功するまで続けるコッチャ。これはパナソニック(旧松下電器)の創業者、故・松下幸之助が生前成功の秘訣を聞かれた時に良く言っていた言葉であるが、あとちょっと頑張れば成功していたのに、もう少し辛抱していたら道が開けていたかもしれないのに、直前で諦めて努力を辞めてしまうことが多いのではなかろうか。成功するまでの最後の1%を諦めるか諦めずに頑張るかの紙一重で人生大きく変わるようだ。

1970年1月号の「小学1年生」などで連載が開始された。最後の最後まで投げ出さずに、考え続け、辛抱して生まれたアイデアが故・藤子・F・不二雄の代表作、「ドラえもん」である。閃いたのがなんと締切りの朝だったという。ギリギリの時間で無我夢中でペンを走らせたアイデアが後に世界中に広まるとは夢にも思わなかったことだろう。
 
9月半ば、ようやく無罪釈放となって上海を引き上げて来たが無一文からの出発であった。おいそれと職はない。仕方がないから富国生命の外交員をやる肚を固める。「乞食と保険屋は入るべからず」という貼り紙の流行していた熊本で、経験もコネもない男が、保険の外交員が務まるはずがなかった。給料は一銭もなく、出来高払いの具合性であった。市内の学校の先生、医者、弁護士・・・とインテリ層ばかり狙って歩きまくるがみな断られた。12月になり師走も押し迫った23日、家には一銭もなくついに「おい夜逃げをしよう」と妻にうなだれた。すると妻はけなげに「どうせ夜逃げをする気なら、恥も外聞もないでしょう? 大晦日までがんばったらどうかしら」と夫を激励した。

妻の言葉に奮起して逆に度胸が据わり、7度訪ねて断られた高等女学校の校長先生のことが頭に浮かび、「もう一度断られに行くか!」と玄関のベルを押すと「あら、外交員さん、旦那様がお待ちですよ」と愛相よく女中さんが言い直ぐに校長は会ってくれた。「あなたの根気に驚いた」となんと契約をしてくれた。そればかりか知人の五校教授にも紹介状を書いてくれたのだ。これを機に夜逃げどころか大晦日まで面白いように契約が決まっていった。最初のお客さんになってくれたこの校長は「僕は保険は嫌いだけど、でもあなたから頂いた7枚のハガキを見て、この人は何か理由があって外交員となってやっていると思った」と言って契約してくれたのだった。この男は断られても皆にハガキを送り続けていたのである。 

この男が後にリコーの創業者となる市村清である。翌年は全国一の表彰を受け、その後理研感光紙(リコー)を扱い、三愛商事、三愛石油、日本リースを設立して行き道が開けていった。

市村は「わしがもし富国生命の外交員を諦めて夜逃げをしていたら、理研とのコネもつかなかっただろうし、あの理研の大河内正敏所長に目をかけられることもなかった。もちろんあの三愛だって誕生していない。」と述懐する。 

最後の最後で諦めるかやり通すかで大きく運命が開けるかどうかの鍵になるようだ。

文責 田宮 卓
  1. 2009/07/04(土) 22:04:14|
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市村清と館林三喜男

市村清(いちむら・きよし)略歴
1900年~1968年(明治33~昭和43年)リコー創業者。佐賀県生まれ。中央大学法学部卒。銀行員、保険代理店経営を経て、昭和8年理化学興業入社。昭和11年理研光学(現・リコーの前身)社長。戦後、三愛石油、三愛計器、三愛商事等を設立してリコー・三愛グループを形成した。他方、市村学校と称して若手経営者の指導にあたった。68歳で没。著書に「欧米見聞記」他。


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このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xLH35E
市村清(リコー創業者)語録 http://bit.ly/n3lEI1
市村清の知られざる逸話他
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市村清の知られざる逸話

平成21年7月3日
題名:「経営者の器量」


会社は経営者の器で決まる。経営者の器以上にはならないとよくいわれるが、では経営者の器、器量とは何であろうか。経営コンサルタントという仕事柄、何千人の経営者と膝を突き合わせて本音で語りあってきた船井総研の創業者、船井幸雄は経営の成果はトップ一人で99%以上が決まるように思えるが、ここでいうトップとはトップの人間性、その人柄がどれだけ世の中に受入れられ、認められ、慕わられるかだといいます。

確かに過去の例を見てみると人間性を第一に社長にすえて成功した例が結構あることが分かる。経営者を目指す、あるいは現に会社の経営をしていてさらに会社を大きくしていこうと思えば自身の人間性を磨いていくことが一番近道かもしれない。

リコーの創業者、市村清は専務であった実弟の市村茂人を後継者にはせず、アカの他人の館林三喜男を選んだ。館林は市村とは佐賀中学の同窓というだけの縁で血縁関係は全くなかった。館林は、東京大学を出て、戦前の内務省に入り、戦後は佐賀県の副知事を得て代議士となった。6回選挙をやり、3回当選し、3回落選している。その時も落選中で、金を出しやすいようにと三愛石油の副社長にしていた。信濃町の慶応病院に入院中でガンで余命いくばくもないことを知っていた市村は、この落第政治家の館林を後継者に指名したのだ。館林は数字の分からない、経営はズブの素人であった。

市村の側近が「あの館林さんで経営が出来るんですか。だって彼は経営には全くの素人ですよ。」と言うとベットから立上がった市村は「心配ない。彼は人間が確かだから」。人間が確かだから館林で十分、経営が出来ると市村は言い放ったという。誰もが後継者と思っていた実弟の茂人は三愛不動産の社長に出した。市村亡き後、リコーの社長に館林がなったが業績をみるみる伸ばしていったのだから、市村の眼に狂いはなかった。

昭和28年、松下幸之助は日本ビクターの経営を引受けることになった。日本ビクターは優れた技術を持ちながらも戦後の再建には遅れをとっていた。松下は再建にはかねてから清廉さと人物のスケールに強く敬意を抱いていた野村吉三郎に社長になることをお願いした。野村は海軍大将を務め、その後外務大臣、そして昭和15年には駐米大使を務めている。松下は野村の徳望の高い人格者に社長として中心に座ってもらい、精神的支柱となってもらえれば、再建は必ず成功すると考えたのだ。

ある重役会の席で、野村は「さっきから君たちはひばり、ひばりと、何の話をしているのだ」と聞いたという。なんと当時既に多くのファンを持っていた美空ひばりを知らなかったのだ。その話が外部に伝わり、批判もされた。しかし実際には、日本ビクターは急速に立直り、立派な業績を上げるようになった。それのみならず、野村の薫陶を受け、優れた人材が多く育っていったのである。

文責 田宮 卓
  1. 2009/07/03(金) 01:43:36|
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