偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

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杉山金太郎(豊年製油創業者)

杉山金太郎(すぎやまきんたろう)経歴(プロフィール)
1875年~1973年(明治8年~昭和48年)豊年製油(現・J-オイルミルズ)創業者。和歌山県出身。大阪市立大阪商業学校卒。米国の貿易会社に就職。1924年、豊年製油(現J-オイルミルズ)社長。1954年に会長。97歳で没。

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杉山金太郎語録 http://bit.ly/yasTka




杉山金太郎の知られざる逸話

平成22年6月27日
題名:「今こそ正直な経営を(士魂商才の実践)」



1924年(大正13年)、都内の三河台町の御屋敷で井上準之助(日銀総裁、大蔵大臣を歴任)は神戸の大商社となっていた鈴木商店の大番頭、金子直吉を杉山金太郎という男に引き合わせた。

関東大震災後の不況で業績不振となっていた鈴木商店の整理をすることを、メインバンクである台湾銀行副頭取の森広蔵と井上蔵相とが話合い決まっていた。

そこで鈴木商店の三大事業(他は帝国人絹・現帝人、神戸製鋼所)の一つである製油事業の会社の経営を杉山に任せることにしたのだ。杉山は紀州和歌山で百姓の子として生まれ主に貿易会社で働いていたが当時はまだ無名のビジネスマンであった。金子と会った杉山は直ぐに製油事業の会社の社長を引き受けることにした

苦境に陥っていた会社を立直すために杉山はまずは正金銀行に融資を頼むことにした。実情を一切隠さず、ずばり助けてもらいたいと語った。銀行側に担保となるものはあるかと聞かれたが、担保物件として提供出来るものは何もなかった。そこで杉山は私の首を担保におくから面倒を見てほしいと懇請した。

最初は融資を渋っていた銀行だが「杉山君の人格を信頼して融資をしてやろうじゃないか」という意見でまとまり融資に踏み切ることになった。

融資を受けることに成功した杉山は製油会社を見事に立直らせ大きく発展させていきました。この会社が旧豊年製油(現J-オイルミルズ)です。杉山は豊年製油中興の祖であり近代的製油工業の先駆者として世の中に貢献しましたが、杉山は若いころから「商売人は、ときとすると、駆け引きをし、嘘をつくことを商売の常道と考えがちであるがこれはとんでもないあやまちだ。世の中に立っていく以上は、士魂商才の精神を持って進まなくてはならない。」と考えこれを信念として実行してきたという。

この不況で経営者は生残るためとはいえ、苦し紛れに嘘をついたり、誤魔化したりしたくなる気持が出てくるかもしれないが、最後に杉山の言葉はもう一つ紹介したい。「嘘をつかなければならないような経営は心から慎め――と、企業の大小の問題ではない。長い間には、たとえ一時逃れとわかっていても、嘘をついて、その場をおさめたいときもあるだろう。しかし、それは所詮、一時しのぎの手段でしかない。いや、そのために、あとあとになって、思いがけない故障を招くかも知れない。逆に正直でさえあれば、よけいな“つくろい”をしなくてすむだけでも、いいではないか」

文責 田宮 卓
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  1. 2009/06/27(土) 02:34:35|
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西川政一(日商岩井初代社長)

西川政一(にしかわ・まさいち)略歴
1899年~1986年(明治32年~昭和61年)日商岩井初代社長(現・双日)。兵庫県出身。神戸高商卒。神戸の鈴木商店入社後、倒産により日商に入社。東京支社長などを歴任後、1958年、日商岩井社長に就任。日本バレーボール協会会長も務めた。86歳で没。

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西川政一語録 http://bit.ly/wQiMHt




西川政一の知られざる逸話

平成21年6月21日
題名:「創業の精神は時空を超えて活かされることもある」



私が東京駅丸ノ内駅舎の赤い煉瓦のステーションホテルの前を通る時に必ず思い出すのが幻の総合商社鈴木商店である。鈴木商店は神戸に本店があったが番頭の金子直吉が東京に出張すると常に泊まったのがこのステーションホテルであったからである。ステーションホテルに常宿し大物政治家の浜口雄幸や後藤新平とよく接触していたという。金子が神戸を留守にしている間に本店を守っていたのが西川文蔵という男で東京高商(現一橋大学)を中退して鈴木商店に入社したインテリで、学校出がいなかったなかで西川は稀有な存在であり主に実務能力にたけていたことから金子直吉の最も信頼する片腕となった。金子は自分の子供に文蔵という名前を付けたぐらいである。

実は前回とりあげた高畑誠一(後に日商を創業)が新人の頃、発注で大失敗をおかしてしょげかえっているところを「人間誰でも間違いはあるものだ。間違いをしてしまってから始めて、慎重さというものが身に付くものだ。君もこれを契機に成長してくれればそれでいいと」と言って励ましたという先輩がこの西川文蔵である。

西川文蔵という男は相当面倒見がいい男であったらしく、実の子供が6人いたうえに書生を一人抱えていたが、丹波山奥の尋常高等小学校を卒業して鈴木商店に小僧として働いていた男を自分の自宅(神戸市中山手7丁目)に住まわせた。しかも鈴木商店を一旦退職させ神戸高商(現神戸大学)に通わせるのであるからよほど見込みがある男と思ったのかもしれない。しかし西川文蔵は米騒動以降の鈴木商店の近代化を一人苦心し心痛が重なりかぞえ年47歳という若さで亡くなってしまう。

西川文蔵に神戸高商に通わせてもらった丹波出身のこの男は卒業して鈴木商店に復帰すると恩人に報いるため侵食を忘れて働きます。そして恩人の西川文蔵の次女と結婚することになるが結婚披露宴の直前に鈴木商店が破綻してしまいます。

そしてこの男は鈴木商店で中核的な存在であって神戸高商の先輩でもある高畑誠一、永井幸太郎(後に吉田内閣の貿易庁長官)に誘われ新会社日商の設立に参加します。この男が西川政一という男で若干29歳新婚ホヤホヤの青年であった。日商は昭和3年鈴木商店の残党39名程のスタートであったが高畑の経営手腕で日本を代表する総合商社に育っていきます。そして創立から30年後の昭和33年に日商の代表取締役に就任するのがこの男西川政一です。昭和43年には岩井産業との合併を成功させ初代日商岩井の代表取締役に就任します。

西川政一が社長時代に精神的な指針とした物が、生前、金子や岳父の西川文蔵がいつも語っていた、「工業立国日本の実現」、「資源のない日本は原料を仕入れて加工貿易をするしかない。」「国を栄えせるには貿易しかない。」「我々は世界を相手に戦うのだ、三井、三菱に匹敵する商社に発展させる」という言葉であったという。鈴木商店の破綻で二人の望みは折れてしまったが、西川政一は恩人である金子と岳父西川文蔵のこの言葉を一日たりとも忘れたことはないという。社長に就任するとこの二人の望みを実現させようという思いがより一層芽生えたという。

創業者の精神は時の流れとともに、または時代にともなう環境変化により消え失せてしまうことが多いが、西川政一は先代の志を引継ぐことで成功した稀なケースであるかもしれなません。

このことから学ぶべき教訓があるとすれば、それは経営者が会社の存在意義やどの方向に向かうのかを常に社員に語ることがとても大事であるということです。何故なら新人の時に経営者や幹部から聞いていた話が西川政一のように何十年も先になって活かされることがあるからです。 


文責 田宮 卓
  1. 2009/06/21(日) 23:07:17|
  2. 西川政一(日商岩井初代社長)
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高畑誠一(双日創業者)「失敗を肥やしに」

高畑誠一(たかはた・せいいち)経歴
1887年~1978年(明治20年~昭和53年)現双日の創業者。愛媛県生まれ。1909年神戸高商(現神戸大学)卒。鈴木商店に入社。20代後半でロンドン支店長。15年間ロンドン在勤のあと1926年帰国。一年後に鈴木商店倒産で日商設立。この日商が後の日商岩井、現双日となる。本国を介さない三国間貿易を日本人として最初に始めた商社マンとしても知られている。91歳で没。

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xLH35E
高畑誠一(双日創業者)語録  http://bit.ly/qMzDWZ
高畑誠一(双日創業者)の逸話他
■「苦境の時にも志を失わないのが本物の経営者」 http://bit.ly/yebmmL





高畑誠一の知られざる逸話

平成21年6月12日
題名:「失敗を肥やしに」



1909年神戸高商(現神戸大学)を首席で卒業した高畑誠一は得意の英語を活用出来る貿易商、中でも一流の三井物産への就職を希望したがこの年不景気で三井物産は採用を行っていなかった。結局、神戸高商の水島校長の勧めがあり神戸の新興ベンチャー鈴木商店に就職することになった。水島校長が鈴木商店の大番頭金子直吉と親しかったことがあり鈴木商店への就職を勧めたのでしょう。

小さな貿易商であった鈴木商店では「学校出」を採用したのは高畑が始めてであった。神戸、横浜などの外国商館あがりの番頭が店の働き手になっていたので、そんな中、学校出の高畑は「学校出」に何が出来るかと少々周りからは冷ややかな眼で見られていたようだ。

そのような状況の中懸命に働くが高畑は大失敗をやらかしてしまった。当時鈴木商店では取引をするとき電信暗号を使っていたが、暗号表が改定され改定後は従来の暗号が5倍の数量を示していたのである。このことを忘れて樟脳を5百箱だけ売ったつもりが、実際には25百箱売約してしまった。樟脳の相場がどんどん上がっていたときなので待っていて先に売ればそれだけ儲かっていたものを、みすみす儲けを少なくしてしまったのである。電文を打って契約をしてしまった以上間違いでは済まされない。それだけの製品を揃えて出荷してもらったが、輸出部からはさんざん文句を言われ、事務の若い女性にもばかにされるあり様であったという。

そんなミスをしてしょげかっているところ、一人の先輩から「人間誰でも間違いはあるものだ。間違いをしてしまってから始めて、慎重さというものが身に付くものだ。君もこれを契機に成長してくれればそれでいいと」と励ましてくれたという。この先輩の励ましがなければ恐らく辞めていただろうと高畑は後に述懐します。

それから高畑は奮起し一心腐乱に働き、また得意の英語をさらに磨いていき鈴木商店では一番の英語力を身に付けるまでになり一目置かれる存在になります。その後、英語力を買われ、当時世界の政治、経済、金融、商業の中心地であったロンドンのロンドン支店に配属されます。

ロンドン支店で高畑はメキメキと頭角を表します。金融、産業などの経済問題はもちろん、国際政治の動き、天候にいたるまで情報収集を活字だけではなく、得意の英語力を活かし、各国大使館の大公使、軍人、モルガン、ロスチャイルド、グレンフェル、その他多くのマーチャントバンカー筋に直接会い情報を仕入れていきました。

この情報収集の成果は第一次世界大戦が勃発した時に発揮されます。第1次世界大戦前夜各国が食糧や鋼材を買い付ける前に大量に食糧や鋼材を買い付け大英帝国はじめヨーロッパ列強に売り付けました。大英帝国に売込んだ小麦粉は500万袋、満州小麦50万トンというケタ外れの取引を次々に成立させていきました。

この活躍が認められ高畑は29歳の若さでロンドン支店の支店長に就任します。その時にはほとんど無名に近かった鈴木商店は三井物産を抜き売上げ日本一の商社になっていました。その後、鈴木商店は昭和恐慌の時に投機的経営が仇となり倒産してしまいます。しかし高畑は鈴木商店の子会社であった日本商業 を日商と改め最出発させます。日商は鈴木商店の元従業員を中心に40名程でスタートしましたが高畑の経営手腕が発揮され大きな企業に発展していきました。この日商が現在の双日(旧日商岩井)です。

どんな偉業を成し遂げた人でも若い頃は人には言えないような失敗を必ずらしているものです。 そこで挫けるか、肥やしにして頑張るかで将来に大きく影響します。なので大きな失敗をしてもへこたれずに肥やしにして頑張ろう。



文責 田宮 卓
  1. 2009/06/12(金) 12:00:58|
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越後正一(伊藤忠商事元)

越後正一(えちご・まさかず)略歴
1901年~1991年(明治34年~平成3年)伊藤忠商事元社長。滋賀県彦根市生まれ。神戸高等商業(現・神戸大学)卒。昭和5年、伊藤忠商事に入社し繊維部門で活躍。昭和35年、59歳で伊藤忠商事第5代社長に就任。脱繊維戦略を推進して伊藤忠商事を総合商社へと育て上げた。昭和49年、会長。昭和57年、勲一等瑞宝章。89歳で没。著書に「私の履歴書」(日本経済新聞連載、昭和50年9月)

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越後正一(伊藤忠商事元社長)語録 http://bit.ly/zg2My6





越後正一の知られざる逸話


平成22年6月6日
題名:「真に人物を見抜き長い目で人を育てられるのが経営者の器」



1901年に琵琶湖の湖東で生まれた越後正一という男が15歳になった時、家庭の事情で上級学校進学を泣く泣く諦め、伊藤忠の入社試験を受けることになった。この時の面接官が2代目伊藤忠兵衛で「君は帰らず後でもう一度来たまえ」と忠兵衛に言われ、再面接となり結果合格となった。しかも「八幡商業を卒業してから入社せよ」と好条件を示してくれた。忠兵衛は越後を見所のある男と認め、自分の会社で働いてもらうには商業高校ぐらい出ていなくてはという思いがあったのだろう。忠兵衛、若干30歳の時であったが、父親である初代忠兵衛が亡くなって家督を継いでから10年余事業を営んでいた、どうどうたる実業家であった。

八幡商業の卒業が近づくと、越後は忠兵衛に神戸高商(現神戸大学)への進学を勧められます。ところが越後は神戸高商の受験に落ちてしまい忠兵衛に合わせる顔がない。しかし不合格になったことを忠兵衛に報告すると「ああそうか、今度頑張るんだな」と一言つぶやいただけだった。「さすがは大人物」と越後は思ったという。2度目の受験は見事に合格し、神戸の住吉にあった忠兵衛の本宅に書生として住込みをしながら神戸高商に通った。

卒業の日、越後は晴れて伊藤忠に入社出来ると思っていたが世界恐慌の煽りを受けて伊藤忠は人員整理をしたばかりということがあり、結局同僚の月給の半分の40円という条件での入社となった。しかし越後は忠兵衛の期待にこたえるために懸命に働きます。相場の神様と呼ばれるほどの手腕を発揮し、後に社長にまで登りつめます。14年間社長を務め、その間売上げを10倍にし、伊藤忠を繊維専門商社から総合商社に見事に転換させ、「中興の祖」となります。越後は忠兵衛の期待に見事にこたえる結果となった。

私は忠兵衛の人を見る眼と時間をかけて人を育てようというその度量、器の大きさに敬服します。これこそ経営者の器ではないかと思います。

企業は高学歴の新卒者を競うように採りたがりますが、学歴だけに拘るあまり思わぬ逸材を見逃してはいないか。学歴以外にも忠兵衛のように真に人物を見る眼、学力では測れない他の物差しを持つべきでしょう。そして人が育つには時間がかかります。長い目で人を育てられるかどうかが経営者の器ともいえるでしょう。


 文責 田宮 卓
  1. 2009/06/06(土) 21:53:21|
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