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偉人のエピソード逸話集

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安藤百福(日清食品創業者)

安藤百福(あんどう・ももふく)略歴(プロフィール)
1910年~2007年(明治43年~平成19年)日清食品創業者。台湾・台南県生まれ。立命館大学専門部卒。昭和23年中交総社を設立して社長に就任。このあと、信用組合理事長等を兼任。昭和33年即席ラーメンの発売を機に日清食品に社名変更。昭和56年から会長。東証一部上場。著書に「自伝・奇想天外の発想」

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安藤百福(日清食品創業者)語録集(逆境編) http://bit.ly/y7esyk




安藤百福の知られざる逸話(チキンラーメン誕生秘話)


題名「どん底からの脱出」


伊藤忠の経営危機の時に2代目伊藤忠兵衛のもとに井上準之助(当時、日銀総裁)から一通の手紙が届いた。手紙には次のように記されていた。「名を成すは常に窮苦の日にあり、事の敗るるは多くは得意の時による」進退きわまる窮苦の今こそ、名を成す時である。死力を尽くして戦え━という激励の書であった。忠兵衛は目頭が熱くなりここが生涯の勝負どころと奮い立ち会社再建に命をかけ見事に難局を切り抜けた。その後会社は発展していった。

経営史を紐解いた時に危機の時にうった施策が功をそうして発展した例は数限りないが、日清食品の安藤百福(あんどうももふく)ほど苦境から脱出して短期間であれだけの成功をおさめた人はいないであろう。苦境になったからこそ初めて発揮される滞在能力というものがあるようだ。

安藤百福が世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」の開発に成功したのは昭和33年(1958年)であった。安藤が48歳の時であるが開発にとりかかった時は無一文に近い状態であった。不慣れな信用組合の理事長を引受けたところ倒産してしまったからである。整理を終え心身ともに疲れはて大阪府の池田の愚居に引き籠ったが、しばらくするとさばさばした気分になり、「失ったのは財産だけではないか。その分だけ、経験が血や肉となって身についている」そう開きなおると勇気が湧いてきたという。

それまで安藤は22歳の時にメリヤス(靴下)の販売を皮切りに機械、製塩、炭焼きと幅広く事業を展開してきたが、ラーメンの製造の経験は皆無であった。即席ラーメンの発想は戦中、戦後に飢えを凌ぐために人々が食糧を求めて争う姿を目当りにしたことと、戦後大阪梅田駅の裏手でラーメンの屋台に長い行列が出来ているのを見たことに起因する。人は一杯のラーメンのためにこれだけ努力するのかと感動を覚えたという。池田の愚居のどん底で食が全ての原点であるという思いが深まっていく。食のありさまが乱れていたら国は衰退する。食品会社はきわめて社会貢献度の高い仕事である、食が文化、芸術、社会のすべての原点であるという考えに至り、今までぼやっと考えていた「いつでもどこでも食べられるメン」を大量生産して、家庭の味にしてみようと一度企画して捨てられたテーマが再び浮上して、やがて頭脳の全部を占領してしまう。

腹が決まると自宅の裏庭に小屋のような作業場をつくり、開発の目標を「美味しい、保存性、便利、安価、安全」と5つに定め、ラーメンの開発に集中する。もちろん社員などいない。手伝ってくれるのは妻と子供だけである。朝の5時夜が明けると研究室にこもり夜中の1時、2時まで研究は続く。一日の休みもなく研究を続けついに安藤は「チキンラーメン」を完成させた。チキンラーメンは爆発的に売れ、即席メンの生産は、昭和33年に1千3百万食、34年には7千万食、35年に1億5千万食、36年に5億5千万食、そして37年には10億食、38年には20億食と倍増していく。「チキンラーメン」を開発してわずか5年で東京と大阪の両取引所に上場を果たす。現在世界で最も流通している食品が安藤が開発した即席メンであるが、無一文からの出発で、短期間でここまでの成功をおさめた人はいないであろう。

安藤は「事業と財産を失い裸一貫、絶対の窮地からの出発であったからこそ、並ではない滞在能力が発揮出来たのではなかろうか。逆説的に言えば、私に事業失敗がなければこれほどの充実した瞬間は持てなかっただろうし、即席メンを生み出すエネルギーも生まれなかっただろう」と述懐する。 

文責 田宮 卓

参考文献
安藤百福 「食欲礼賛」 PHP
安藤百福 「苦境からの脱出」 フーディアム・コミュニケーション
船井幸雄 監修「ビジネスマンが読んでおくべき一流のあの選択、この決断」三笠書房>
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  1. 2011/11/09(水) 15:16:52|
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