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偉人のエピソード逸話集

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松下幸之助

松下幸之助(まつした・こうのすけ)略歴
1894年~1989年(明治27年~平成元年)松下電器(現・パナソニック)創業者。和歌山県生まれ。小学校4年で、家庭の事情で学業を断念し大阪の火鉢店で丁稚奉公。大正6年大阪電灯を退職し独立。昭和5年ラジオの生産・販売開始。昭和10年株式会社に改組。松下電器産業発足。一代で世界的な総合家電メーカーに育て上げ経営の神様と言われる。94歳没。

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松下幸之助の知られざる逸話

平成23年10月1日
題名:「松下電器は何故世界の松下になれたのか」全3話



昔日本に三井、三菱財閥に肩を並べるほどの企業群をたった一代で築き上げた怪物経営者が二人いた。スケールの大きさで彼らに敵う者は恐らくいないであろう。彼らとは日産、日立グループ(日産コンツェルン)の創業者、鮎川義介(あゆかわよしすけ)と神戸の総合商社鈴木商店の大番頭、金子直吉(かねこなおきち)の二人である。

鈴木商店は昭和2年の昭和恐慌のあおりを受けて倒産しているので、今、その名を知っている人はほとんどいないと思うが、神戸製鋼所、帝人、日商岩井(現双日)、豊年製油(現J-オイルミルズ)、石川島播磨(現IHI)、クロード式窒素工業(現三井化学)、帝国麦酒(現サッポロビール)等は元々鈴木商店の関連する会社であり、全て金子が種を蒔き手掛けた事業である。戦前の一時であるが、日産コンツェルンも鈴木商店も売り上げ規模で三井、三菱を抜いたことがあった。

鮎川も金子も一代でこれだけの企業群を築いたことは紛れもない事実であるが、何もないところからスタートしたかといえば必ずしもそうではない。鮎川は大叔父に明治の元勲井上馨(いのうえかおる)を持ち、「将来お前は技術畑に進み、エンジニアになれ」と勧められ、東京帝国大学(現東京大学)の機械工学科に進学した。一番初めに手掛けた事業が日立金属の前身となる戸畑鋳物(とばたいもの)の設立であったが、井上に資金的な面でも工面してもらっている。鮎川は創業者ではあるが血縁的には非常に恵まれていた。

金子は鈴木商店に丁稚奉公で入り、初代店主が没すると大番頭に抜擢され、鈴木商店を三井、三菱に並ぶ巨大企業グループへと発展させた。鮎川のように学歴や強力な血縁はなかったが、鈴木商店は既に神戸では地盤のある商店であったので、何もないところからのスタートではない。

では学歴も強力な血縁もなく文字通りゼロからのスタートで最も大きな企業を興した経営者は誰かといえば、やはり松下幸之助であろう。

幸之助は父親が米相場に手を出して失敗し、破産したため尋常小学校を4年で中退し9歳で丁稚奉公に出されることになった。20歳で、お見合いで結婚(妻むめの)し、大正6年22歳の時に勤めていた大阪電燈(現関西電力)を退職して独立した。この時には両親は既に亡くなっており、8人もいた兄姉のうち6人もが次々と病気を患い亡くしていた。幸之助にはもちろん田畑や土地など財産と名のつくものは皆無であった。

ソケットの製造販売をするために僅かな貯金で独立したのだが、工場などつくれるはずがない。夫婦二人で住んでいた借家の2畳と4畳半を、半分落として土間として工場へと変身させた。夜休むスペースも1畳しかない有り様であった。この状況を見て、後に世界の総合電気メーカーになるとは誰が想像できるであろうか。

学歴も血縁も財産も何もない文字通りゼロからのスタートである。幸之助が今もって人気があるのは正真正銘何もないところからスタートしたからではないかと思う。

では何故、幸之助は一代で世界的な大企業を創りあげることができたのか。私なりに次回3つの理由をあげてみたい。


第2話

松下幸之助は何故、裸一貫から世界に名だたる大企業を創りあげることができたのか、一つ目の理由は人を信じきったことだと思う。儲かるとは信じる者と書くが、このことは創業期から一貫していた。人を信じることは共存共栄の精神に通じ、そこには、自分だけ儲かればいい、自分だけ助かればいいという精神と対極に位置すると思う。このことをまず始めに他の人の体験談で説明してみよう。

戦後、流通革命で名を馳せたダイエーの創業者、中内功はフィリピンの戦場で九死に一生を得る経験をしている。戦場で雨水を飲み、ミミズやトカゲを食べ、飢えを凌ぐ日々が続いた。食糧を持っていると仲間に襲われる恐れがあり夜も寝むれない日が続く。仲間が自分を殺すのではないか、疲れ果てて眠っているうちに殺されるかもしれないという恐怖感に襲われたという。眠ったまま殺されるか、眠らずに発狂するかの選択肢しかない。そのどちらも避けるには、仲間を信頼して眠るしかない。殺されても食われてもいい。「人は一人では生きていけない。どんな状況でも生きるには人を信頼していくより方法がない」、そして中内は人を信じることにした。結果、中内は生きて帰国することが出来たが、生存者は部隊600人中、中内を含めてわずかに20人であった。人を信頼することが共存共栄の精神に通じ、自分だけ助かればいいということと対極にあるとはこういうことである。

話を幸之助に戻そう。松下電器(現パナソニック)は、創業時は幸之助と身内3人だけでスタートした。ソケットの製造販売で独立して、次に手がけたのがアタッチメントプラグという電気器具であったが、この製品がヒットした。製品をつくり始めてから非常に忙しくなり外の人を4、5人雇うことになったが、一つ問題がおこる。製品の原材料である煉物(ねりもの)の製法の秘密をどうするかということであった。当時の煉物の製法は、他のどの工場も秘密にしていた。工場の主人以外には、その主人の兄弟とか親戚など、限られた身内だけがその製法が知っていて、その製造作業を担当するのが当たりまえであった。

幸之助はいろいろ考えた結果、製法の秘密を新しく入った人にも適宜教えることにした。身内だけで製造作業をするのは限界がある。また外の人といっても同じ工場で働く仲間である。仲間同士でそういう姿を現して果たしてよいのか。同業者からは「そのやり方は非常に危険だ。今日入った者にまで製法の秘密を教えたのでは技術を他社にも公開するようなものだ」と言われた。しかし幸之助は「製法が秘密であることは従業員も知っているし、他にもらせば工場のマイナスになることも分かっている。だから、教えてもらってそれを他にもらすことはない」そう思い従業員を信頼し製法を教えて作業をやらせた。すると従業員はその信頼にこたえて秘密を守り、一生懸命働いてくれたという。この時に幸之助は、人は信頼されれば裏切らず期待にこたえようと一生懸命に働いてくれることを知ったという。この体験は幸之助の商売の原点ともなるものではないかと思う。この姿勢を幸之助は生涯変えることはなかった。人を信頼していなければ、個人商店の域を出ることもなかったかもしれないし、松下電器発展の歴史をみてもこの信頼する姿勢、共存共栄の精神が何度となく経営危機を乗り越え、さらなる発展の原動力になっていることが分かる。

昭和初期の金融恐慌は松下電器の経営も直撃した。幹部の多くがまわりの会社がそうするのと同じように、社員を半減して不況を乗り切る以外に方法はないと進言した。しかし幸之助は「一人たりとも、社員を解雇したらあかん。給与かて、全額支給や」との方針を示した。この決断には奥さんの「景気が悪いからといって、今まで住み込みで働いてくれた店員の首を切ることは絶対にいけません。それではあまりにも都合がよすぎます」(参孝下段http://t.co/aWvKaFL)という言葉があったともいわれる。これには社員はみな喜び感激した。そして、工場を半日勤務とし生産を半減させた。それでも給与は全額支給。その代わり土日、休日返上で、皆で在庫の販売を一丸となって行った。結果は2ヶ月で在庫の山は消え、それを契機に半日生産をフル生産に戻すことができた。やがてそれでも追いつかない程になった。この一件いらい幸之助への求心力は一気に高まった。また、幸之助は苦しくても仕入れ先を一方的に叩くことはしなかった。値下げをお願いする時は、仕入先の工場を見せてもらい、この点を改善すればもっと安く出来るのでないかと先方と一緒に検討し、十分得心してもらってから値下げをしてもらっている。ここでも共存共栄の精神があらわれている。

また共存共栄の精神で危機を乗りきった象徴的な話が昭和39年の不況時の、いわゆる熱海会談であろう。(熱海会談 http://bit.ly/mRZ7dJ)熱海会談をみても共存共栄の精神が創業以来の一貫した姿勢であることわかる。

そして人事面でも幸之助は人を信じて任せた。元より体が弱く病気がちだったので人に任せざるおえない状況があったことも事実であるが、任せることで会社は発展した。創業時は義理弟の井植歳男(後に三洋電機を創業)が幸之助の手足となって働いたことは知られている。松下電器の東京進出の土台をつくったのは井植であったが、井植が単身で東京に拠点を構えたのが若干19歳の時である。

また提携をする時も同じである。昭和27年、中川電機から提携の話が持ち込まれた、商談は僅か30分。中川社長を信頼に値する男と感じた幸之助は、工場も何も見ないで提携を承諾している。(中川電機との提携秘話http://bit.ly/pXLhZB

昭和28年、日本ビクターを引き受けた時に社長に据えたのが元海軍軍人の野村吉三郎である。幸之助は野村の人格を買って社長にしたが、世間は経営に素人の人間に何が出来るかと批判した。だが野村は日本ビクターを見事に再建した。(日本ビクター再建秘話 http://bit.ly/nytR5I)。

昭和53年に末席の役員だった山下俊彦を社長に抜擢したこともあった。(山下秘話 http://bit.ly/zbQQy9)当時は「山下跳び」「25段跳び」とマスコミは大騒ぎしたが、山下も見事に職責をはたした。そして松下電器の代名詞ともなった「事業部制」がある。事業部ごとに独立採算制にして権限も全て事業部に移譲するというものであるが、それでも責任の一切は全て社長の幸之助にあるというものである。こんな制度は人を信頼していなければ成りたつはずのない制度である。

松下幸之助が何故成功したかという本は山ほど出ているが、創業以来一貫していることは人を信頼し任せ、共存共栄の精神でやってきたことである。
2つ目、3つ目の理由は次回に述べたい。


第3話

松下幸之助は何故、裸一貫から世界に名だたる大企業を創りあげることができたのか、二つ目の理由は絶対的に信頼出来るパートナーに恵まれたことである。会社を起業してある程度の規模までは社長一人の力量で大きくすることが出来るが、大企業にするのは絶対に社長一人の力量では無理である。自分の分身となるような、あるいは不得手なところを全て補ってくれるようなパートナーの存在が必要である。このことは実はこのブログの第一回目 (http://bit.ly/y0Mhy6)で取り上げたのだが、今もってこの考えはいささかも変わらない。ソニーの創業者、井深大(いぶかまさる)には盛田昭夫というパートナーがいた。本田技研工業の創業者、本田宗一郎には藤沢武夫がいた。また森永製菓の創業者、森永太一郎には松崎昭雄というパートナーがいた。(http://bit.ly/yn5N3s)お読みいただいた方には、松崎なくして森永製菓が大企業になることがなかったことをお分かりいただけたと思う。それもパートナー経営者となる人とは絶対的な信頼関係で結ばれていることが条件となる。

以前、盛田昭夫の秘書をやっていた人に「盛田さんはどんな方でしたか?」と唐突な質問をしたことがある。すると「盛田さんはね、自分が世界でどんなに有名になろうが、井深さんの悪口を言う人がいたら身内だろうが誰であろうが絶対に許さなかった」という言葉が返ってきた。

本田宗一郎にいたっては、藤沢をパートナー経営者にしてからは、自分は開発に専念し、苦手な資金繰りや販売といった経営全般は全て藤沢に任せ、社長を退任するまで、ついぞ社長印を見たことは一度もなかったという。

では松下幸之助にもパートナー経営者となる人物がいたかとなると、意外と直ぐに名前が出てくる人は少ないかもしれないが、ちゃんといた。創業時は義理弟の井植歳男(いうえとしお)である。幸之助は体が弱く病気がちでもあったこともあり、井植が幸之助の分身となり指揮をとることも少なくなかった。松下電器(現・パナソニック)の東京進出の土台をつくったのも井植である。また昭和恐慌の煽りで経営危機に直面した時、幸之助は病気で西宮の自宅で静養していた。「一人たりとも、社員を解雇したらあかん。給与かて、全額支給や」と決断こそ幸之助がくだしたが、実際に陣頭指揮をとり会社の危機を乗り越えたのは井植であった。井植は戦後に松下電器を辞職して三洋電機(現・パナソニック子会社)を創業するが、井植にもやはり後藤清一という大番頭的存在のパートナーがおり、三洋電機を大企業にすることができた。

井植が去った後に幸之助が絶対的に信頼したのが高橋荒太郎という人物である。高橋はもともと朝日乾電池の常務を務めていたが、昭和11年、松下電器に吸収合併されると高橋も松下入りすることになった。高橋は得意の複式簿記による組織づくりを目指し、独自の「経営経理制度」を確立。株式会社に生まれ変わった松下電器の経理システムの近代化に大きく貢献した。幸之助を心から心酔し寝食を忘れて奉公したことから、幸之助イズムの伝道師とまで言われた。高橋は女婿の松下正治が社長に就任すると副社長となり今度は正治を支えた。松下家2代にわたり名番頭として松下電器を支えたことになる。井植と高橋がいなければ、やはり松下電器も大企業にはならなかったのではないかと思う。

そして最後に世界的な大企業になった3つ目の理由は何かといえば、業種が良かったことである。幸之助が最初に奉公したのは火鉢屋であった。幸之助のことだから火鉢屋をやっていたとしても恐らく日本一の火鉢屋になっていたと思う。次の奉公先は自転車屋であったが、恐らく自転車屋をやっていたとしても日本一の自転車屋になっていたであろう。では何故、世界の松下になれたのか?それは家電を選んだからにほかならないと思う。

全3話 完


文責 田宮 卓
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  1. 2011/10/01(土) 14:31:56|
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