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偉人のエピソード逸話集

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本田宗一郎

本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)略歴
1906年~1991年(明治39年~平成3年)本田技研工業創業者。静岡県磐田郡光明村(現・天竜市)生まれ。高等小学校卒業後、自動車修理工場の勤務。昭和3年浜松アート商会設立。昭和23年本田技研工業を設立して社長に就任、世界有数の自動車メーカーに育て上げた。昭和48年社長を退き取締役最高顧問。84歳で没。勲一等瑞宝章、ベルギー王冠勲章他。著書に「得手に帆をあげて」「私の手が語る」他。

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本田宗一郎の知られざる逸話

平成23年4月15日
題名:「惨状を肥やしに」



「人間の心というものは、孫悟空(そんごくう)の如意棒(にょいぼう)のように、まことに伸縮自在である。その自在な心で、困難なときにこそ、かえってみずからの夢を開拓するという力強い道を歩みたい」松下幸之助

東日本大震災は無情にも多くの尊い人命を奪った。命が助かった人も住む家を失い、社屋、工場などの働き場所も失い、これからどう生活していけばいいか途方に暮れている人も多いであろう。見渡す限り瓦礫の山の風景では仕事をしようにも遣りようがないと思うであろう。しかし現実問題、歩みをとめるわけにはいかない。国の仮払金や、支援金などは手元に届くまでに時間がかかるし限界がある。であるならば自力で立ち上がるしかない。特に若者はこういう時にこそ、夢と創意工夫を持って立ち上がっていただきたい。きっと将来、あの時の経験があったからこそ今があると言えるときが来るであろう。

1922年(大正11年)、高等学校を卒業した15歳の青年が上京し、好きな自動車をいじれると思い東京の文京区本郷にあるアート商会という自動車の修理屋に見習工として就職した。自動車の修理の仕事が出来ると思ったが、赤ん坊のお守りと雑巾がけしかさせてもらえない。現実は丁稚奉公でしかなかった。赤ん坊のお守をしていると一日何度も小便で背中が濡れる。その度に「畜生」と思う。この青年は失望のあまり何度も「荷物をまとめて郷里に帰ろう」と思うが、送りだしてくれた父親の「暖簾(のれん)をわけてもらうまでは辛抱しろ」という言葉が頭をよぎり思いとどまる。とにかく耐えることにした。

そして半年すると、突然の大雪で故障車が続出し修理工の手が足りなくなりこの青年も狩りだされることになる。喜んで修理の仕事をすると元々手先が器用だったこの青年は期待以上の成果をあげ主人に認められる。以後子守や雑用から解放された。

好きなこともあり修理の仕事をみるみる覚えていったが、翌年の9月1日の昼前、とつぜん遠い地鳴りが聞こえたかと思うと、立っていることもできないほど、大地がグラグラ揺れた。関東大震災である。アート商会の建物が大きく軋んだ。あちらこちらから火の手があがる。アート商会にもその火が近づいてきた。修理工場だから自動車を預かっている。預かった自動車を焼いたら弁償しなければならない。主人が「自動車を安全なところへ運転して運べ」と号令をかける。今まで修理はさせてもらっても運転はさせてもらえなかったので、人生で初めて自動車の運転をすることができ、惨状の中この青年は密かに感激した。

アート商会の類焼は免れることは出来ず、主人の家族と神田駅近くのガード下に移転することになった。一面焼け野原の惨状を見て15 人あまりいた修理工はみないなくなってしまった。残ったのはこの青年と兄弟子とあわせて2人だけであった。しかしこの焼け野原となった惨状の中この青年は勇敢に行動する。そしてこの時に培った頑張りがその後の人生に大きくプラスに働くことになった。

隣が食料品屋の倉庫だったので、焼け残りの缶詰を探しだしそれを食糧にして、一家とともに飢えをしのいだ。次に仕事を再開しなければならないが一面焼け野原で仕事などない。そこで神田川に落ちていたオートバイを拾いあげ修理をして焼け野原をかけまわる。避難民は、田舎に帰りたいが交通機関は麻痺して動けない。そこでこの青年は運搬するアルバイトを始めた。金があっても買うものがないので人々は気前よく10円、20円と運び賃を払ってくれた。帰りにはその金で農家から米を買ってきて主人一家の食糧にあてた。

今度は芝浦で焼け出された多数の自動車の修理を一手に引き受けることにした。主人はそんな車、エンジンがかかるわけがないと反対であったが、この青年は「何とかやります」と主人を強引に口説いたのだ。不眠不休で焼けた車の修繕にとりかかる。ボディーはもちろん、車台も焼けているが、なかには被害の少ないものもあり、そんなのを選びバラバラに分解し、使えそうな部分をとって組み立てていく。焼けてガタのきたスプリングなども焼きを入れ直す。車の塗装をすませ、エンジンをかけてみると不思議だと思うほど動く。主人は「お前は天才だ」と感嘆した。この修理した車は震災後の物価騰貴もありなんとフォードの2倍の値段で売れた。すっかり主人の信頼を得たこの青年はそれからも仕事を自ら探しだし何でもこなしていった。

そしてアート商会に来て6年目、21歳の時に念願だった暖簾わけをしてもらえることになった。21歳での暖簾わけは後にも先にもこの青年一人だけであった。郷里に帰り彼はこうして故郷に錦を飾った。父親が息子の独立を喜んだのはいうまでもない。 

この青年は後に世界の自動車メーカー、本田技研工業を創業する本田宗一郎である。
 
本田宗一郎は当時のことを振り返りこう述べている「関東大震災に深く感謝した。なぜなら震災がなかったら、自動車の初運転、オートバイの内職、修理の技術などマスターできなかっただろうからである」 

                                 以上 

文責 田宮 卓

参考文献
PHP研究所【編】「本田宗一郎 一日一話」 PHP文庫
城山三郎 「本田宗一郎の100時間」 講談社文庫
梶山季之 「実力経営者伝」徳間書店
松下幸之助「道を開く」PHP
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  1. 2011/04/15(金) 21:49:00|
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