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森永太一郎(森永製菓創業者)

森永太一郎(もりなが・たいちろう)略歴(プロフィール)
1865年~1937年(慶応元年~昭和12年)森永製菓創業者。佐賀県生まれ。明治21年、渡米して製菓技術を習得。明治32年に帰国し森永西洋菓子製造所(現・森永製菓)を創業。大正3年森永ミルクキャラメル発売。昭和10年、社長を退きキリスト教の布教活動開始。72歳で没。

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xLH35E
森永太一郎(森永製菓創業者)語録 http://bit.ly/xMMJCd 



題名:東洋の製菓王森永太一郎


「事業と公益との融合を以って一大指標とす」
「商売は正直でなければ栄えません」
森永太一郎(森永製菓創業者)


危機の時にこそその人の本質が現れるのだと思う。たとえば会社の経営をしている人であれば企業理念が本物であるかどうかは緊急事態の時にとる行動で分かるであろう。

関東大震災で被災しながらも被災者救済のために奔走した企業は沢山ある。しかし一社だけずば抜けて活躍した企業がある。それが森永製菓である。恐らく関東大震災で森永製菓以上に被災者救援に貢献した企業はないであろう。

森永製菓の創業者、森永太一郎(もりながたいちろう)は1865年(慶応元年)現在の佐賀県伊万里市で有田焼の陶器問屋の子として生まれた。6歳で父親が病没し母親とは生き別れとなり親戚の家を転々として孤児同然の少年期を過ごす。学校にも通えず12歳まで自分の名前すら書けず、仲間から侮辱されるようなありさまであった。

このような不遇な少年期を過ごした太一郎が何故、東洋の製菓王といわれるまでの活躍が出来たのか、私は大きな要因が3つあると思う。

1、 誰よりも商売道徳を重んじたこと
2、 信仰心があったこと
3、 良き片腕に恵まれたこと

この3つである。

親戚の家を転々とさせられた太一郎は伊万里の陶器問屋をしている山崎文左衛門商店に養われることになる。文左衛門は叔父にあたるがこの叔父に商売道徳を叩きこまれた。このことが後に太一郎が東洋の製菓王となれた大きな要因の一つであろう。
 
文左衛門は「これから商人の道を歩くお前が、絶対に守らなければならないことが4つある」と前置きして太一郎に語りかけた。

1、 どんな場合でも、正当な商品だけを扱い、不正直なものを売買しない。
2、 目先の利益に釣られて、粗末な品物を扱わない。
3、 正直と信じてつけた値段は、お客様から何と言われても下げない。
4、 仕事を急がず、10年を一区切りと決めて堅実にやる。

当たり前のことかもしれないが、この当たり前のことが守られず、偽装表示や嘘をつき不祥事を起こすのが食品業界の常である。経営が苦しくなると消費者にはどうせ分からないと誤魔化す行為があとをたたない。

しかし太一郎はこの文左衛門の4ヶ条を心に刻みつけ最後までぶれずに実践した。

太一郎は文左衛門のもとで商売のイロハを学びメキメキと成長していく。文左衛門が学問に理解があったことから、幸い勉強することも許された。負けん気だけは人一倍強かった太一郎は仕事に勉強にと一心不乱に頑張った。
 
1888年( 明治21年)、23歳の時、太一郎はもう一人前の商人になっていたがひょんなことから九谷焼きをアメリカに飛び込みで売ることを決意する。当時のアメリカは人種差別が激しく黄禍論が声高に叫ばれるなか無謀とも思える行動であったが、このアメリカ行きが一陶器商人にすぎなかった太一郎を東洋の製菓王へと導くことになる。

太一郎がアメリカに行き飛び込みで九谷焼きを売ることを決意したのには理由があった。昔お世話になったことのある九谷焼きの商店をしている店主が、問屋との関係が悪化して取引が中止となり困っていると泣きついてきたのだ。資金繰りも行き詰まり借金とりが押しかけてくる状態でどうにもならなくなり、若いがしっかりしている太一郎を頼ってきたのだ。

太一郎は今こそ店主に昔の恩を返すチャンスと思い何か打開策がないか必死に考えた。この商店は主に九谷焼きを外国商館に売っている。そこで太一郎が思いついたのが残った九谷焼きを直接アメリカで売れば手数料を払わずに済み、その分利益を見込めるというものであった。しかも欲を出し、どうせなら沢山九谷焼きをアメリカに持っていこうと思い、他で三千円分の借金をして九谷焼きを仕入れて多めに持っていくことにした。 

ところがいきこんでアメリカに乗り込んだが九谷焼きは全く売れなかった。かたことの英語ではコミュ二ケーションもまともにとれないのだから当然といえば当然の結果であった。しかたなく在庫品をオークション(競売)に掛けて処分したが、借金だけが残り全くの骨折り損であった。そもそも計画自体が無謀であったかもしれない。だがこのチャレンジ精神は太一郎の良さであり何もしなければ大きな成功もありえないものである。実際に太一郎はこの後、アメリカで生涯情熱を捧げる2つのことを手に入れることになる。

遠い異国での挫折は身にこたえた。借金だけかかえてこのまま日本に帰るわけにもいかない。呆然と街を彷徨い歩き、疲れ果てて公園のベンチに腰を落とした。時計を見ると午後2時に近いが、朝食も昼食も抜いていたので腹がグーと鳴る。

そんなとき60歳ぐらいの上品な顔立ちの婦人が話しかけてきた「グッド・アフタヌーン」、とっさに「グッド・アフタヌーン、マム」と太一郎は返したが心の中では「ちっともよい午後ではない」と思った。婦人は、ハンドバックからキャンデーを取り出した。

人の運命とは分からないものである。この婦人が差し出したたったひと欠片(かけら)のキャンデーが太一郎の人生を決定づけることになったからだ。

「プリーズ」「サンキュー、マム」と素直に婦人の好意を受け入れ太一郎は、キャンデーの美しい包装紙をむいて頬ばった。とろりとした甘味が口中に広がり「うまい!」と思わず叫ぶ。このような美味しい菓子を日本では食べたことはなかった。

そしてその瞬間に「洋菓子の職人になろう」という気持ちが沸き上がってきた。「洋菓子の製造技術を習得して帰国し、洋菓子を安い値段で日本人に提供したい。この分野のパイオニアになろう」と太一郎は決意する。
「サンキュー・マム」と婦人にお礼を述べると公園を後にし、日本人の私設職業紹介所を訪ねた。菓子工場で働くためであった。しかし「それは無理だと」にべもなく断られる。「俺達日本人は白人から劣等人種と見なされているので、白人がやっている菓子工場に入るなんてとんでもないことだ」というのである。「この国は人種差別が激しく、今のところ日本人がなれるのは、下男(男の召使)同然のスクールボーイか、農場や農園で働くガーデナー、それにホテルのコックくらいだよ」という。

太一郎は生きるために取りあえずスクールボーイになった。それをしながら菓子工場に入るチャンスを窺うことにした。「ジャップ」となじられカットなり主人とぶつかることもありアメリカ人の家を転々とするが、チャンスを掴むため気持ちを抑えて身を粉にして働いた。
 
するとある時、偶然にも公園でキャンデーをくれた婦人と再会することがあり、この婦人の家でスク-ルボーイとして働くことになったのだが、またもやこの婦人から太一郎にとって生涯情熱を捧げられるものを与えられた。この婦人は夫婦共々信心深いキリスト教徒であったことから、太一郎は神の道に導かれて洗礼を受ける。太一郎は「熱狂的情熱が猛然と沸き起こり、勇気100倍」になったという。

岩波書店の創業者、岩波茂雄は、文豪トルストイの「信仰なきところに人生なし」の言葉を発見した時に踊り上がるほど喜び、思想上の一大転機となったという
私(筆者)は特に何か宗教を信仰しているわけではないので分からないが、太一郎にとってクリスチャンになったことは生きていくうえでの大きな糧となったようだ。

その後はパン屋の下職からベーカリー、さらにキャンデー工場で働くことができるようになった。のべ12年間アメリカで修業した太一郎は洋菓子造りの技術を身につけることができたので帰国して独立開業することにした。
 
帰国して東京の赤坂溜池で僅か2坪の作業場兼店舗を開き、「森永西洋菓子製造所」の看板を揚げたのは明治32年8月、太一郎35歳の時であった。

そして最初に製造したのがマシュマロ(米国では天使の食料)であった。夜の明けないうちに起きてマシュマロを造り、それを風呂敷に包んで、東京中の菓子屋を訪ね歩いたが注文は全くとれなかった。「こんなフワフワしたものはとても売れんよ」「口に合わん」と断られる。次にキャラメルを造ってみるがこれまた売れず、販路開拓は苦難の連続であった。

「西洋菓子など日本では早かったか」と落胆するが、熱心なクリスチャンとなっていた太一郎は直ぐにマタイ伝の中の一節「天は空飛ぶ鳥さえ飢えさせぬ。ましてや万物の霊長たる人間の誠さえ踏んでいくならば、飢えることなどあるべきものではない。天は何人でも、働く者には必ず衣食の糧を与えられるものである」を思い出し、自身を奮い立たせる。

そして西洋菓子を造ってから2ヶ月経ってようやくマシュマロが売れた。注文してくれたのは、青柳商店という店の夫人で太一郎の郷里の藩主であった鍋島家の御屋敷で奉公していたことがあるという人であった。肥前の鍋島家は、維新後は華族となって東京に住んでいた。この夫人は太一郎が佐賀出身と聞いて、昔、鍋島家の東京の御屋敷で奉公した経験があるから佐賀の人は身内のような気がするといい「もし売れなければ家族で食べるか、近所にお分けするなりします」と喜んで注文してくれた。それからは太一郎の地道な営業活動が少しずつ実りはじめたのか注文は徐々に取れ出した。そして神のご加護か正直に商売をしてきた結果か分からないが時勢も太一郎を味方するようになる。

開業した明治32年のクリスマスに、「アンパン」で有名な銀座の木村屋と風月堂がアメリカやヨーロッパから洋菓子を輸入し売り出したのだが、そのことが東京市民の間で大きな話題になりはじめたのである。

おのずと東京で洋菓子を造っている森永西洋菓子製造所の存在がクローズアップされた。注文が増え数名の職人を雇っても間に合わないので郷里の伊万里からも3人呼び寄せるほどの忙しさになった。

翌年明治33年4月には、2坪の作業場では間に合わなくなったので米国大使館通りに面した溜池の表通りに建つ20坪の家を借りてそこへ移ることにした。一年もしないうちに2坪の作業場から10倍のスペースに拡張できたのも太一郎の洋菓子がそれなりの評価を得たからに他ならない。

新しい工場と店には大きな看板をかかげ、英字表記もした。すると駐日アメリカ公使のバック公使夫人の目にとまり毎日のように太一郎の店のキャンデーやチョコレートを買いに来るようになった。バック夫人はよほど太一郎の洋菓子が気に入ったのか、森永西洋菓子製造所の存在を友達や知人にも宣伝してくれた。そのお陰で青木周蔵外務大臣夫人始め、各国の公使夫人が顧客になり口コミにより「森永の洋菓子」は上流社会にも受け入れられるようになっていく。

販路は順調に増えていったが、太一郎は文左衛門の教訓を深く心に刻み込んでいるので古い慣習にこだわる取引先と衝突することもしばしばあった。ボール箱入りの折詰をアメリカ式に「揚げ底」をなくした時に、問屋や小売店から「これでは見かけが小さくて売りにくいから揚け底にしてくれ」と要求されることがあった。しかしこれらの要求をすべて拒否する。「揚げ底にすると、余分な材料が要るばかりか運賃もかさみます。それに受け取った人は容れ物の大きさに比べて中身が少ないため、馬鹿にされたような気分にさせます」「そんなこと言っても、揚げ底は昔からの習慣だよ」「こういう習慣は百害あって一利もないので私は断じてやりません」といい問屋や小売店に妥協をしない。インチキまがいな方法はどうしても太一郎には受け入れることが出来ないのである。

またこんなこともあった。売行きの良いウイスキーボンボンとリキュールボンボンについて、近所のフレンド女学校の教師から「これらは少年少女の柔らかい頭脳に害を与えるので、本場のイギリスではもう造られていません」と指摘される。するとその日のうちに製造を中止してしまった。

そして予期出来ぬ不運な出来事がおきたこともあった。アメリカでは経験しなかった日本の高温多湿の風土に製品が傷み、返品の山を築き泣く泣く捨てる日が続いた。大変な損失であったが、返品のあった得意先へは直ぐに新品を無償で届けて信用回復に努めていくことをした。

太一郎のこうした商道徳は、彼の信用を高め「森永は商人道を心得た男だ」と評判が立ち太一郎と取引を望む小売店が続出していった。

また、太一郎は作業場の衛生にも細心の注意をはらった。当時は菓子屋の台所は、砂糖や飴や小豆の搾りかすなどが散乱して不潔きわまりないものと決まっていた。職人の衣服も汚かった。製菓業を近代的な産業に育てたいと思っていた太一郎は従業員には全員、白い作業服と帽子を着用させた。着用したがらない者には根気よく衛生の大切さを説明するが、それでも従わない者には容赦なく雷を落とす。そこはアメリカで、身一つで修羅場をくぐり抜けてきた太一郎である、従業員には厳しくワンマンになるのも当然であった。

これで顧客や取引先から信用を得られないわけがない。森永の洋菓子の評判はどんどん高まっていき、注文も増える一方であった。開業して3年後には東京の菓子屋で森永太一郎の名を知らぬものはいないまでになった。

しかし注文は増える一方であるが、製造に営業にと太一郎は皆の先頭に立ち働いてきたが、製造に専念するとどうしても営業が疎かになる。結果お客様に迷惑がかかってしまうということが起きてきた。

自分一人ではこれ以上、事業を伸ばすことに限界を感じる。誰か片腕となる良き女房役がいなければこれ以上の発展は望めないと、真剣に人材を探しはじめる。

ここはとても大事なポイントである。現代も同じことで、業種にもよるが一般的に一から立ち上げた会社で年商10億円までの規模は社長一人の力量でなれるが、それ以上の規模は良き片腕やパートナーに恵まれないとなれないといわれる。

実際に年商10億円までの会社は社長一人だけが優秀というところが多い。それだけ良き片腕となるような人材がなかなかいないといえるが、実際にはいないのではない。人材はいるが自分の会社には来てくれないというケースがほとんどであろう。会社は何時どうなるか分からない、給与もその人が今もらっているだけのものはとても払えない。それでは来てくれなくて当然と諦めてしまっている経営者がほとんどであろう。

しかし会社をより発展させようと思えばパートナーの確保は必須である。ではどうすればいいのか、これはもう経営者が夢と情熱を持って口説き落とす以外に方法はないであろう。

森永商店(森永西洋菓子製造所の通称)は知名度こそある程度ついたとはいえ、個人商店の域は出ていなかった。製菓業を近代的な産業にするという壮大な夢を実現するには良き女房役がどうしても必要であった。

そこで太一郎は2年前に知り合った松崎半三郎(まつざきはんざぶろう)という男を女房役に招き入れる。後に「森永の松崎か、松崎の森永か。森永は二人にして一人である」といわれるが、この松崎とコンビを組むことにより森永商店の本当の発展が始まった。恐らく松崎がいなければ、太一郎が東洋の製菓王となることはなかったであろう。

しかし松崎は貿易商を営んでいたのだが、直ぐに森永商店に来てくれたわけではなかった。太一郎が夢と情熱を持って口説き落としたのだ。またこの口説き方が凄かった。

松崎は立教学院(立教大学の前身)を卒業すると貿易商に勤務した後、独立して自分で貿易商を営んでいた。その取扱う商品は、オルガン、ピアノの部品のほか菓子、チョコレートの原材料の輸入品などで、それらを森永商店に納入するようになり知り合った。

太一郎より年齢は9歳下だが、取引を通じて彼の能力を高く評価していた。特に営業面では極めて優れていた。

何よりも松崎も熱心なクリスチャンであったことから強い親近感を覚え、松崎が資金繰りに困っている時は、無利子無証人で融通したこともあった。5千円という大金を貸したこともあったが、松崎は返済期限を必ず守った。
「あの男なら間違いはない。女房役になってもらおう」そう心に決めると、即、松崎を料理屋に招いて、ずばり切り出した。「松崎さん、うちに来て私の片腕になってください」「え?」よほど意外だったのか松崎は眼をパチパチさせて驚きの表情をした。

「私はね、アメリカで12年間も菓子造りの修行を積み、この仕事には絶対の自信を持っています。でも営業の方は、なかなかうまくいかないのです。私は栄養の富む菓子を安い値段で日本人に提供したい。さらに海外に輸出したい。これが私の夢なのです。どうか、松崎さん、うちに来て営業をやってください」太一郎は熱心に自分の思いを打ち明けた。
しかし松崎は「森永さんの夢は、よく分かりました。でも私は貿易商で身を立てたいのです。せっかくの申し出ですが断らせていただきます。悪く思わないでください」「悪く思うなんて、とんでもない」太一郎は深い失望を隠しながら「どうかゆっくり検討されて、その気になったら、よろしく頼みます。私の方は、いつでも大歓迎です」と将来に含みを残してこの日は別れた。

それからも太一郎は折に触れ幾度も松崎を誘ってみるが、その度に丁重に断られた。松崎に初めて自分の思いを打ち明けてから2年半が経つが、断られても、断られても松崎を必要とする気持は強まるばかりであった。

そこで太一郎は奇襲戦法に出ることを決意する。今年こそは松崎を招き入れようと、1905年(明治38年)の1月1日の早朝4時である。夜明けを待たず築地にある松崎家へ人力車を走らせた。今度は松崎が承諾するまで粘るぞと腹を固めていた。

松崎の家のドアを叩いた。「どなたですか・・・」松崎の眠そうな声が聞こえた。「森永です」「森永さん?ちょっと待ってください」松崎が戸を開けると「明けましておめでとうございます」と紋付羽織袴姿で挨拶を述べた。松崎は驚いて「おめでとうございます。こんなに早く、一体どうなさったのですか。とにかく中に入ってください」太一郎は玄関脇の応接間に通され二人は対面した。

「私はね。新年に当たりあなたを迎えることに決めました。是非ともうちに来て片腕になってください」と太一郎は切り出す。「弱りましたね・・・」松崎は困惑の表情を浮かべる。
「お蔭さまで、森永の西洋菓子も少しは世間に知られるようになりました。しかし私一人の力では限界があります。これ以上の発展を望むならば、あなたの力が必要です。私の技術と、あなたの営業能力を合わせれば、それこそ鬼に金棒です。松崎さん、私と二人で日本の洋菓子業界をリードしましょう。どうしても貴方に承諾していただきたく、非礼を垣間見ず押しかけて来ました。お願いします」太一郎は畳に両手を突いて深々と頭を下げた。
「うーん」唸り声を漏らした松崎は「これほど熱心にお誘いいただいて、光栄に思います。しかしこのことは人生の一大事なので、妻とも相談しなければなりません。今夜まで考えさせてください」と言った。「分かりました。今夜の何時にお伺いしたらいいですか」「今夜7時に、私の方から森永さんのお宅へ参ります」「では、吉報をお待ちしております。朝早くから失礼しました」席を立ち、太一郎は松崎家を後にした。

松崎は独立精神旺盛な人物なだけに果たして自分の下で働いてくれるか不安と期待のうちに夜を迎えた。夜7時前に松崎が森永家に現れた。

「今朝ほどの件はどうでしょう」と太一郎は単刀直入に聞いた。「はい。その件ですが、私の出す3つの条件を受け入れてくだされば、喜んで働かせていただきます」「どんな条件ですか?」松崎は太一郎を直視したまま、淡々とした口調で述べる「第一に森永さんは製造に専念し、私は営業を担当する。第二に現在のような個人商店では、発展に限度があるので、なるべく早く株式組織にする。第三に必要な人は人物本位で採用する。森永さんの夢を実現させるためには、この3つが絶対に必要という結論に至りましたのであえて条件にさせていただきました」

無論これらの条件は森永にとって異論は全くなかった。一つ目の条件は自分が製造に専念して営業を松崎に任せることはもともとの希望である。二つ目の条件は個人商店の限界と弊害は、日々それを実感していたので直ぐにでも実現させたいことである。3つ目の条件もとりあえず郷里の人を中心に従業員となる人を呼び寄せていたが、人物本位の積極的な採用はしていなかった。

一呼吸おいてから太一郎は「松崎さん、あなたの3つの条件は全て受け入れますからうちに来て頑張ってください」「はい、ベストを尽くします」そして41歳の創業者と32歳の貿易商人は互いに眼を見つめ合ったまま固い握手を交わした。

この瞬間、史上最強のクリスチャンコンビが誕生する。太一郎は六尺(約181センチ)、松崎は5尺2寸(約157センチ)と凸凹コンビであったが、二人はとにかくウマがあった。この二人のコンビが日本の菓子業界の近代化をリードしていくことになるのだから、日本にとっても、二人がコンビを組んでくれたことは好運であったといえるだろう。

太一郎がしたくても出来なかっこと、不得手なことは全て松崎が実現していき、東洋の製菓王への階段を一気に駆け上がっていく。

ちなみに後に松崎は太一郎の後をついで森永製菓の2代目の社長となるが孫の昭雄も森永製菓に入社して5代目の社長となる。この松崎昭雄の娘、昭恵が安部晋三元総理の夫人である。

三顧の礼を尽くして森永商店の支配人に招き入れた松崎半三郎(まつざきはんざぶろう)の働きぶりは群を抜いていた。支配人として、営業と経理を担当する傍ら時間を見つけては製品の荷造りや発送の仕事にも加わった。業務の全てに通じるために現場で汗を流し、店員との人間関係にも気を配った。

そうしているうちにまず気付いたことが、原材料をアメリカから直輸入した方が安く製品コストを下げられるということであった。松崎は太一郎に「アメリカから直輸入しましょう」と提案する。「それは私も考えていたことであるが、そこまで手が回っていなかった。
万事あなたに任せますので進めてください」

さっそく松崎は正金銀行東京支店(旧東京銀行の前身)を訪ねて5千円の信用状の開設を申し入れるが、何の実績もない森永商店は相手にされず冷たく断られる。

しかしそれで諦める松崎ではない。何度も通い続け森永商店の将来性を力説することでなんとか一割の積立金で5千円の信用状を開設することに成功する。

こうして砂糖や飴の輸入をはじめ、それが増えるにつれてクレジットも一万円、二万円と増額されたため、原材料は二割安で仕入れることが出来るようになった。太一郎が喜んだのはいうまでもない。

また、芝田町に新工場を建て最新鋭の機械、キャラメルの伸展機、切断機、乾燥物のデポジター、プリンターなどを据え付けた。太一郎が「この手動式は能率が悪いので、自動式に換えたい」といえば、貿易業務に精通している松崎は欧米の新鋭機械のカタログを取り寄せその中から選ばせるなどは朝飯まえで、太一郎の思っていることを松崎はどんどん形にしていく。
 
また、経営者以上の働きをすることもあった。 
1910年(明治43年)が明けてまもない日曜日の昼に芝田町の工場内の自宅でくつろいでいた太一郎のところに突如珍客が現れた。北浜銀行の岩下清周(いわしたせいしゅう)頭取である。何の前触れもなく馬車でかけつけてきた。岩下とは面識はなかったが当時、関西財界のドンであったので存在は知っていた。

岩下は信州松代藩士の家で生まれ、東京商法講習所(一橋大学の前身)を卒業後、三井物産に入社。のちに三井銀行に転じ、大阪支店長、横浜支店長を経て財界の有力者を募って北浜銀行を創立した。衆議院議員も兼ね金融界に絶大な影響力を持っていた。
三井銀行大阪支店長時代に行員に小林一三(阪急グループの創業者)がいたが、小林は銀行員時代はダメサラリーマン、万年平社員と揶揄され出来の悪い社員とみられていたが、唯一小林の才能を見抜いていたのが岩下で小林が独立する時に支援している。

また、岩下は小林以外にも豊田佐吉(トヨタグループの創業者)や大林芳五郎(大林組の創業者)などのベンチャー企業家を支援したことでも知られる。

そんな岩下は洋菓子の将来性に着目して太一郎のところへ来たのであったが、太一郎は先年、北浜銀行堀留支店から借り入れはしたが、交渉相手は支店長であったので、岩下頭取の突然の来訪に困惑しながらも応接間に案内をした。

岩下は菓子業界のことを幾つか質問した後「あなたなら間違いのない人だから、子供のために貯えた金が少しあるのでご入用ならそれをお貸ししてもいいですよ」と言って退席し森永家を後にした。

資金繰りに苦労していた太一郎にはまさに渡りに船であった。翌日、喜んで松崎と二人で紀尾井町の岩下邸を訪ねて早速融資のお願いをした。しかしここで一騒動が起きる。

「昨日の件ですがよろしくお願いします。」「よろしい。いかほど必要か」「差し当たり五万円ほど用立ててほしい」しかし岩下の返答は意にそぐわないものであった。「結構だが、利息は3割にしたい」意外な高利に、太一郎と松崎は顔を見合わせた。

岩下が冷酷に言い放った「森永商店に将来性はあるが、まだまだ危なっかしい。一割二分や一割五分の利息なら確実な担保を取って、森永商店より堅実な会社に貸すよ」

これには太一郎は激昂した「岩下さん、いつから貴方は高利貸しになったのですか」「生意気をいうな。菓子職人の分際で」「生意気で結構。私が菓子職人なら、あなたは高利貸しだ」と「黙れ」「黙りません」。二人は立ちあがり、岩下の右手が胸倉に伸びた。そこへ松崎が「まあ、まあお二人ともここは落ち着いてください」と間に入り掴み合いの喧嘩には至らなかった。

岩下も元々、太一郎以上の激情化で若い頃にこんなエピソードがある。三井物産の本社員に採用され、横浜支店に配属されたのは22歳の時であった。支店長の馬越恭平(まごしきょうへい)と大喧嘩をしたことがある。ある時、馬越支店長に為替業務を命じられたが、その内容に納得がいかず言い返し口論となった。馬越は「何を生意気申すか」とカットなり怒鳴りつけ手にしたソロバンで岩下の頭を 殴ってしまった。岩下は無念の形相でその場は我慢して命令に従った。

しかしその夜、岩下は馬越の自宅を訪ねた。信州松代藩の後裔というプライドがそうさせたのか、皆の前で、ソロバンで殴られたことが余程腹に据えかねたのだろう。懐には先祖伝来の短刀を忍ばせていた。

馬越に謝罪を迫った。岩下の殺気立った顔と短刀を見て、これはただならぬと思った馬越が謝罪することで岩下をなんとかおさめて一件落着となった。

ちなみにこの馬越は後に大阪麦酒(アサヒの前身)と日本麦酒(エビスビールの前身)と札幌麦酒(サッポロビールの前身)を合併させて社長に就任しビール王といわれる人物である。
 
松崎が間に入り掴み合いの喧嘩にはならなかったものの太一郎は「私は帰る。こんな人と同席していたら、この身が汚れてしまいます」と捨て台詞を吐いて退席してしまった。
その後もどうにも太一郎は岩下邸を訪ねて和解する気にはなれなかった。

正後過ぎに松崎が工場に戻ってきたので「あれから、どうなった?」と聞いてみた。すると「はい。岩下さんから融資をしていただくことになりました」「えっ、本当ですか」太一郎は半信半疑でさらに話しを聞いた。太一郎が辞去した後、松崎は丁重に岩下に詫びを入れ、なんとか岩下もご機嫌を直してくれて和やかな雰囲気になった。その結果、岩下個人が森永商店に一割二分の利息で五万円を貸してくれることになって、その額面の小切手も受け取った。

「そりゃ、御苦労様でした」太一郎は松崎の労をねぎらいながら改めて支配人に迎えたことは間違いなかったと確信した。ここでも松崎に助けられることになるが、実質的な経営者といえるほどの活躍である。ここが「「森永の松崎か、松崎の森永か。森永は二人にして一人である」といわれる所以であろう。

次の日曜日に太一郎は岩下邸を訪ねて謝罪と感謝を述べた。二人とも爆発した後はカラリとするタイプで「私が悪かった。貴方が怒るのは当然だ。お互いにこないだのことは水に流しましょう」そして二人は固い握手を交わした。

すると岩下頭取が切り出した「ところで、森永さん、そろそろ森永商店を株式組織にすべきですな」「はい、そのことでも是非とも、相談に乗っていただきたいと思います」株式組織にすることは、松崎を支配人に迎えるにあたっての条件の一つで太一郎に異存はなかった。

そして明治43年2月23日に、岩下清周議長の下に創立総会が開かれ株式会社森永商店が誕生する。松崎を支配人に迎えた頃は20人若だった従業員は150人を超えていた。太一郎は白い作業着姿で、粉まみれになって働くことには変わりなかったが、これを機に「人物本位」の大卒者の採用も積極的に行っていく。 

1921年大正元年11月には株式会社森永商店を森永製菓株式会社に改称する。大量生産によるコストダウンが可能となり既に菓子業界では初めての輸出は行っていたが、さらに太一郎は外国販売部を新設して、輸出に本腰を入れる。自ら朝鮮(韓国)、満州(中国北東部)、中国へ行き丹念に市場調査を行った。京城では露店商人らに伍して戸板の上に森永の菓子を並べて売りさばき、若い社員にお手本を示し下地を作っていく。太一郎はアジアへの輸出も軌道に乗せ、森永製菓は世界に羽ばたいていく。

1915年(大正4年)に太一郎はアメリカに視察旅行に出かけた。そこで開催中の全米菓子業者大会に出席することになった。かつてはこの国の家庭や工場で「ジャップ」と侮辱され続けた太一郎であったが、今や「東洋の製菓王」と紹介され挨拶する機会を与えられるまでになっていた。設立してからわずか16年目のことであった。

1920年(大正9年)には従業員も1300人を超える。1921年(大正10年)には本社を田町の工場内から「東洋一のオフィスビル」と銘打たれ、完成したばかりの丸ノ内ビルヂンングへ移転させ本社機構を移した。
 
本社を丸の内に移して2年後の1923年(大正12年)9月1日正午前に関東大震災に遭遇する。この時の森永、松崎のクリスチャンコンビの活躍が凄かった。

太一郎は丸ビルで重役会を終え、雑談をしているときであった。壁時計が正午を指そうとした時に突然、床が大きく揺れた。「地震だ」向かいの郵船ビルが波打つように揺れるのが見える。天井の電灯がぶつかり合い、砕けたガラスが降ってくる。一同はみなデスクの下に潜り込んだ。しばらくして揺れが収まると太一郎は社長室を出た「これはただごとではない」。そのまま車を芝田町の工場へ走らせた。工場には女子社員が多いが彼女らの安否が気になった。幸いなことに、工場長の報告によると、建物と機械に軽い損傷の被害はあるが従業員は無事だという。そして従業員は直ぐに帰るように指示を出した。

まもなく松崎も芝工場にかけつけて来て二人で無事を喜びあった。「松崎さん、ご苦労ですが、あなたは大崎工場とお得意さんの様子を見てください」「分かりました」そしてその次に出た太一郎の言葉が「この地震の被害は甚大になるはずです。私たちは全力を挙げて、被災者を救わねばなりません。」「おっしゃる通りです」。

私は企業理念が本物であるかどうかは緊急事態時でとるときの行動で分かると書き出しで述べたが、森永製菓は「事業と公益との融合を以って一大指標とす」を企業理念に設立されたが、二人にはこの震災被害にこれからどう行動すべきかなど確認する必要などなかった。キリスト教的精神からも普段から実践している企業理念からもきているのだろう。この二人に頭の中には「被災者を救う」ことで一致しておりそれ以外のことは考えていなかった。

森永製菓は本社、工場とも無傷に近かった。森永、松崎のクリスチャンコンビはそのことを神に感謝した。そしてその夜は工場に泊まり込みで被災者救済の方法を検討する。まずは、ビスケットとコンデンスミルクを寄付することを決めた。

翌日、招集された女子社員は流れ作業で、ビスケットをキャンデーの袋に詰めて6万袋を作り、ミルクキャラメル10万箱をトラック8台に積んで、芝公園と日比谷公園へ運び、そこで避難してきたに人達に配った。

深川の清澄公園では、ドーナッツを配った。また、工場の前に竹の矢来を作って、一人ずつ通れるようにして、井戸水でコンデンスミルクを溶かし通行人に一杯ずつ配った。これは一日で5万人分にもなった。

そして太一郎は、被災者の母親たちにドライミルクを配る陣頭指揮をとる。ある社員が配るミルクの量を減らしたのを見て「どうして減らすんだ」と詰問する。その社員は長蛇の列を指して「これだけ大勢の人を定量通りに差し上げると、足りないと判断したからです」と答えた。その瞬間、太一郎の雷が落ちた「何を言うか。発表した定量を減らしたら、皆さんは、森永は嘘をついたと思われる。なによりもがっかりさせるだろう。足りなくなったら、私に報告するんだ。どんなことをしても都合するから、小賢しいソロバンを弾かずに、どんどん差し上げるんだ」
 
3日には、太一郎と松崎は後藤新平内務大臣を訪れ、「5万円を寄付しますので、その分だけ政府の米を出してください。私達の方で被災者に配りますので」と申し出ると即座に快諾を得た。社員を街頭に派遣し5合マスで計らせて被災者に配らせた。8日まで続けられその量は76石8斗にもなった。

これだけでは終わらない。7日の東京日日新聞と報知新聞には広告も出した。内容は「乳呑子(ちのみご)または病人でお困りのお方へ 森永ミルクを差し上げますから、ご遠慮なくおいでください」である。また、三島の煉乳工場では、徒歩で関西方面へ向かう被災者にミルクを無償で配った。

その間、太一郎と松崎は玄米の握り飯に梅干し、たくあんという粗末な食事で陣頭指揮をとり続けた。森永製菓では神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨の5県に計2万円寄付している。
太一郎、松崎コンビの関東大震災時の行動にはあっぱれである

太一郎は昭和10年に社長を松崎に譲り昭和12年9月24日、73歳で波乱万丈な人生に幕を閉じた。

幼い頃に父親と死に分かれ、母親とは生き別れとなり少年期は親戚の家を転々とさせられてろくに学校も通えなかった太一郎であったが、日本の菓子業界では初の輸出を成功させ、菓子業の近代化のパイオニアとしてその名を歴史に残した立志伝中の人物である。太一郎が死ぬ間際に息子を病室の枕元に呼んで語った最後の言葉が「困っている人がいたら助けてあげなさい」であった。何か彼の人生、生きざまを象徴するような言葉である。


文責 田宮 卓


参考文献
加来耕三 「日本経営者列伝」 人物文庫 学陽書房
小島直記 「鬼才縦横 小林一三の生涯上巻」PHP文庫
吉田伊佐夫「われ、官を恃まず」産経新聞社
日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人Ⅱ」 日経ビジネス文庫
若山三郎 「菓商 小説森永太一郎」徳間文庫 
青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社
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  1. 2011/11/01(火) 16:04:36|
  2. 森永太一郎(森永製菓創業者)
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