FC2ブログ

偉人のエピソード逸話集

創業者、名経営者、政治家、偉人のエピソード、逸話を大公開!

高橋是清

高橋是清(たかはし・これきよ)略歴(プロフィール)
1854年~1936年(安政元年~昭和11年)日銀総裁、大蔵大臣、第20代内閣総理大臣歴任。江戸生まれ。1875年、東京英語学校教師となる。1881年、農商務省工務局に入る。1892年、日銀に入る。1911年、日銀総裁となる。1913年、大蔵大臣、1921年、第20代内閣総理大臣。総理大臣辞職後も農商務相、大蔵大臣を歴任。1936年、2・26事件。赤坂の私邸で反乱軍の襲撃を受け、青年将校に射殺される。83歳で没。

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xlkcNu
高橋是清語録集(人生編) http://bit.ly/wLeH1b
高橋是清語録集(経済編) http://bit.ly/yzpYml
高橋是清語録集(仕事編) http://bit.ly/x82u3I
歴代総理大臣語録一覧    http://bit.ly/wBersx
高橋是清の知られざる逸話他
■ポストに執着しない男  http://bit.ly/w0vemP





高橋是清の知られざる逸話

平成24年2月7日
題名:「官僚に何故自殺者が多いのか」



「栄枯盛衰(えいこせいすい)は人生の常である。順境は、いつまでも続くものではなく、逆境も、心の持ちよう一つで、これを転じて順境たらしめることも出来る。逆境の順境は、心の構え方一つで、どうにでも変化するものである」高橋是清(たかはし・これきよ)

上の言葉を残した高橋是清(たかはし・これきよ)は金融の番人といわれる日本銀行の歴代の総裁で唯一その肖像が日本銀行券に使用された人物である(昭和25年~昭和32年にかけて発行された50円札の肖像が高橋是清)。

高橋は日本銀行総裁の他、大蔵大臣(現・財務大臣)を計7回歴任し、第20代内閣総理大臣も務めた人物である。これだけ聞くとずっと勝ち組みできた人物と思われるかもしれないが、決してそうではない。今まで日本は伊藤博文が初代の総理大臣になってから62人(現・野田総理まで)の総理大臣が誕生しているが、総理になった人で高橋ほど職を転々とし、波瀾万丈の人生をおくった人はいないであろう。

高橋は安政元年(1854年)に生まれ、昭和11年(1936年)に亡くなるまでのその83年の生涯で転職はゆうに20回を超えている。10代の時に留学生としてサンフランシスコに行ったのが、そこで奴隷として売られたり、芸者の箱屋(三味線運び)をしていたこともあれば、南米ペルーの銀山開発に誘われて行ったら、これまた騙され、結果高橋は負債を整理するために自宅の家屋敷をも売払い、女房と二人の息子をかかえ、どん底の生活まで落ちたこともあった。

しかし高橋はどんな逆境も乗り越えてついに総理大臣にまで昇り詰めた人物である。最初の言葉はそんな高橋だからこそ説得力があるといえるだろう。

高橋に限らず、古今東西、歴史に名を残した偉人をみてみると最初から最後まで順調だった人はまずいない。必ず逆境や不運に遭遇はしている。ただその時にお先真っ暗と思うか逆に飛躍のチャンスと捉えて頑張るかで大きく人生が変わるのだが、無論、偉人といわれる人は皆、後者の生き方をしている。

カーネギーの名言集に収められている言葉にもこのようなものがある。

「二人の囚人が鉄格子から外を眺めたとさ。一人は泥を見た。一人は星を見た」
フレデリック・ラングブリッジ(アイルランの作家)

「どのような教育も逆境には及ばない」
ディズレーリ(英国の政治家)

また、松下幸之助は
「人間の心というものは、孫悟空(そんごくう)の如意棒(にょいぼう)のように、まことに伸縮自在である。その自在な心で、困難なときにこそ、かえってみずからの夢を開拓するという力強い道を歩みたい」(参照:その他の幸之助語録集(逆境編)http://bit.ly/oO0kre)

という言葉を残してくれた。ようするに人は生きている限り、挫折することもあれば必ず不運も訪れる、しかしその時に自分がどう思うかで先々が大きく違ってくるということだ。

日本ではあまり表に出てこないが自殺者の多い職業に官僚がある。なかでも昔から一番自殺者が多いのが大蔵省(現・財務省)といわれる。大蔵省といえば官庁の中の官庁。ほとんどの人が東大を優秀な成績で卒業し優秀な成績で大蔵省に入りエリートの道を歩んでいく。

しかし問題は彼らに限らず、日本では失敗をしないことが善とされ、失敗することは人生の落伍者として扱われる。

特に大蔵官僚のようなエリートの道を歩んできた人ほど、失敗した時に立ち直ることが出来ない。ここで頑張ればまだ幾らでも道はあるだろうに、いやむしろこの逆境を克服してこそ初めて人間的にも大きくなれるはずなのに、そちらに目が向かず自ら命を絶ってしまうケースが多い。

失敗しないことを善(減点主義)とする日本の社会はどうかと思う。また私は先人達の逆境も順境も「心の構え方一つで変わる」という言葉に勇気づけられるし、こういうことを教えていくべきだと思う。

文責 田宮 卓
スポンサーサイト



  1. 2012/02/07(火) 12:14:15|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

岩崎弥太郎と扇子に小判

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xLH35E
岩崎弥太郎語録集(経営編) http://bit.ly/rngA6X
伊藤雅俊(イトーヨーカ堂創業者)語録 http://bit.ly/wrEHOc
鳥井信治郎(サントリー創業者)語録  http://bit.ly/z2gOGA





平成23年12月15日
題名:「三菱にみる商売の原点」



今年も残すところあと僅かになったが、本年は政治の停滞が叫ばれる中、一方で大企業の不祥事、問題が浮き彫りになった年ではないかと思う。東電に始まり、大王製紙前会長の子会社からの多額な借り入れ問題、オリンパスの損失隠し問題、読売新聞のお家騒動と次から次へと問題が噴出した。経営者はもとよりそこで働く人、一人一人が一層、襟を正していかなければいけないと思うが、人間が風邪をひくように大企業には必ず大企業病といわれる病気にかかる時期がある。これは一体何故であろうか?

私は大企業病の多くは商売の原点というべきものを忘れた時に起こるのではないかと思う。半官半民でスタートしたケースもあるが、今ある大企業のほとんどは創業者が命がけで多くの犠牲と苦労を重ねリスクを背負い土台を築いてきたものである。そのことに対する有り難さや、またどの企業にも創業期に商売の原点ともいうべき話がたいていあるものである。ところが、時が経つにつれ、世代が代わり、会社が大きくなるにつれていつの間にかその商売の原点というものが忘れさられていく。その時にたいてい大企業病という病気にかかると思う。逆に商売の原点というものをしっかり守っている企業は多少のことではビクともしないだろう。

では商売の原点とは何か、ここではイトーヨーカ堂と三菱の例で考えてみたいと思う。

イトーヨーカ堂の創業者、伊藤雅俊は戦後に母親と兄と3人で東京・北千住の中華ソバ屋「たぬき屋」の軒先から商売の再出発をした。お金もない、土地もない、信用もない、ないない尽くしのスタートである。しかし母親は「お客様は来ないもの」「取引をしたくとも取引先は簡単には応じてくれないもの」「銀行は簡単には貸してくれないもの」、そのような、ないないづくしから商いというものは出発するものと息子達に言い聞かせたという。この母親は明治から商売をしており、それまでに日露戦争と関東大震災で2度も店をを失うという経験をしている。いずれもそこから這い上がってきた気骨な母親であった。実に母親の教育が良かったといえるが、当時を振り返り伊藤は「全てが揃っていたり、揃う目処がついた時点から商売を始めた人はその感覚が乏しいのではないかと思う。全てがないことがあたりまえなんだ、あるようになることは本当に有難いことなんだという思いでスタートした人は、商売の形態、精神力、お客様との関係などを力強く推し進めていくことが出来ると思う」と語っている。

このイトーヨーカド堂のスタートに商売の原点というものを見出せる気がするが、会社が大きくなるほど忘れさられる感覚ではないかと思う。

そして日本を代表する財閥に三菱グループがあるが、三菱の創業期にも商売の原点ともいえる話がある。三菱は明治の動乱期に土佐の地下浪人の子であった岩崎弥太郎(いわさき・やたろう)が創設し財閥の基礎を築いた。明治10年の西南戦争の時には、船で政府軍の軍事輸送を全て請け負ったことから、莫大な利益を得たとされる。このことからも弥太郎は政商として成功し巨利を得た典型的な人物に思われるが、その見方は一方的である。商売に関しては実に厳しい面があったが、ここを見落としてはいけないと思う。

初期の三菱社員は土佐藩士が多数を占め、プライドが高く高飛車な連中が多かった。そこで弥太郎は、社員全員に和服・角帯と前垂れの着用を命じた。周知ように前たれは商人の格好そのものだ。これを全員に強用したのである。お客を神様のごとく丁重に対応するように周知徹底した。この姿勢が世間の人から好感を得て、三菱は信用を確実に築きあげていく。お客様第一を社員全員に徹底させたところに弥太郎の凄さがあると思う。

なかには重役の石川七財だけは、どうしても武士の気風が抜けきれず、顧客に頭を下げることが出来なかった。すると弥太郎は小判を描いた扇子を石川にプレゼントし、「得意先の番頭や小僧に頭を下げると思うから悔しくなるのだ。この扇子を開き小判に頭を下げると思え」とアドバイスした。以後、石川の態度も改まったという。

また、経費に関しても厳しかった。弟の弥之助が白紙に領収書を張り付けているのを見た弥太郎は激怒する。「貴様は立派な紙を使っているが、全国の支社が皆白紙を用いて貼ったならば、年間幾らの費用になると思うか。使い古しの反古紙を用いた場合と幾ら違うか、計算してみよ」と叱りつけた。そこで弥之助が計算してみると400円もの差が出たので驚いたという。

武士上がりの社員が多いなか、全社員に顧客第一主義を徹底できたところに三菱発展の秘訣があると思う、また無駄使いをしないという当たり前のことも徹底したところにも成功の要因があると思うが、いずれも会社が大きくなるにつれていつの間にか忘れさられることである。

イトーヨーカ堂と三菱を例にあげたが、私が調べた限りでは、たいていどの会社にも創業期に商売の原点となる話がある。それが家訓となっていたり、綱領となっていたり、社是となっていたり、企業理念として明文化されている。しかしその明文化されたものが絵に描いた餅になった時に大企業病にかかるといっていいだろう。

また。企業は財テクなど、時には本業と関係ないことに走ることがある。1980年代のバブル期に、特に大企業に財テクに走った企業が多く、バブルが弾けて会社の存続を揺るがすダメージを受けたところが少なからずあった。不正ではないがこういったことも、やはり商売の原点を忘れた時に起こるのではないかと思う。

サントリーの創業者、鳥井信治郎(とりい・しんじろう)が戦後、側近に焼け跡の買い占めを提案されたことがあったが、「そんな阿呆なことはやめなはれ。カネ儲けの方法はなんぼでもあるけど、そんなことで儲けたってしょうがない」と言い、土地買い上げの案を却下した。

やはり、叩き上げで一から商売をやってきた人である、商人道というか、商売に対する正しい感というものが働くのだろう。逆に商売の原点を忘れた時に、正しい判断が出来なくなる。良かれと思ってした決断が命取りになる。ということは常に謙虚に商売の原点を意識することが「転ばぬ先の杖」となるといえるだろう。

文責 田宮 卓
  1. 2011/12/15(木) 05:14:26|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

後藤新平

後藤新平(ごとう・しんぺい)略歴
1857年~1929年(安政4年~昭和4年)都市計画の先駆者。南満州鉄道総裁、外務大臣、東京市長歴任。陸中国胆沢郡塩釜村(現岩手県水沢市)生まれ。1874 年福島県須賀川医学校に入学。1881年愛知県医学校長兼病院長。1890年ドイツに留学。1892年帰国。内務省衛生局長に就任。1898年台湾総督府民政局長、後に民政長官に就任。1906年南満州鉄道初代総裁に就任。1908年逓信大臣に就任。初代の鉄道院総裁を兼務。1916年内務大臣兼鉄道院総裁。1918年外務大臣就任。1920年東京市長就任。1923年内務大臣兼帝都復興院総裁に就任。関東大震災から帝都をいち早く復興させてその名を歴史に残す。71歳で没。

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xLH35E
後藤新平語録 http://bit.ly/wDs74n
後藤新平の知られざる逸話他
■最大の経済対策は人を育てることである http://bit.ly/y0elfq
■ベンチャー企業を支援した政治家後藤新平 http://bit.ly/ACJzyp





後藤新平の知られざる逸話

平成23年7月1日
題名:「関東大震災から帝都を復興させた政治家」全7話



第1話

「人は日本の歴史に50ページ書いてもらうより、世界の歴史に1ページ書いてもらうことを心掛けねばならぬ」後藤新平(政治家)

今から100年ほど前に東京を世界に通用する偉大な都市に改造しようと見果てぬ夢を追いかけた政治家がいた。その男の名は後藤新平(ごとうしんぺい)である。

後藤新平は台湾総督府民政長官、南満州鉄道初代総裁、内務大臣、外務大臣、東京市長等を歴任し一般的には行革と都市政策の先駆者として知られる政治家であるが、打ち出す構想があまりにも大きいので「大風呂敷」と綽名されたことでも知られる。

関東大震災の時に内務大臣(帝都復興院総裁を兼務)に就任して帝都復興を指揮したのも後藤であるが、この時に打ち出した帝都復興計画もあまりにもスケールが大きいので、また「後藤の大風呂敷」が始まったと言われたが、結果的には帝都はいち早く復興させることが出来、後藤でなければあれだけ早い復興は出来なかったといわれる。この時の功績が後藤新平という政治家を後世に名を残したといってもいいかもしれない。

では何故、後藤は迅速に帝都復興が出来たのか、それは「下準備」があったからに他ならない。政治家は総理や大臣になることが目的であってはいけないと思う。要職に就く前に何を為すべきか明確な目的やビジョンを持ち、実行するための手段を考えておくべきである。こういった下準備がなくポストについた政治家でろくなやつはいない。

このことは何も政治家だけにいえることではなく、世の中に大きく貢献しようと思えば若いうちに下準備をしておくことが必要なのは古今東西、どの時代、国でも同じであろう。

「わが人生の成功のことごとくは、いかなる場合にもかならず15分前に到着したおかげである」ネルソン(英国海軍の英雄)

「私は機会の到来に備えて学び、いつでも仕事にかかれる態勢を整えている」エイブラハム・リンカーン(アメリカ合衆国第16代大統領)

「魚は招いて来るものではなく、来るときに向こうから勝手にやって来るものである。だから、魚を獲ろうと思えば、常日頃からちゃんと網の用意をしておかねばならない。人生すべての機会を補足するにも同じことがいえる」岩崎弥太郎(三菱財閥創始者)

古今東西の3人の偉人の名言を並べてみたが、下準備をしていなければチャンスが来ても通り過ぎていく。また下準備をした人のところにチャンスもやって来るということが伺いしることができるだろう。

後藤は徹底的な調査に基づいて積み上げた大胆な計画を持ちそれを実行する人材も確保していた。ところが東京市長時代に東京の大改革を行おうとしたが、この計画は帝国議会や大蔵省(現財務省)の反対で実現しなかった。しかし関東大震災の時に計画を実行(予算はかなり削られたが)する機会がやってきた。このことは国民にとっても幸福なことであったが、実現できたのは後藤に下準備があったからに他ならない。チャンスというものは思ってもみなかった時にやってくるものである。


第2話

後藤新平は1857年(安西5年)6月4日に陸中国胆沢郡塩釜村(現岩手県水沢市) で生まれた。父親は水沢城主の留守家(るすけ)の家臣であったが、水沢城主は独立の大名ではなく伊達家の家臣である。大叔父は江戸後期の医者、蘭学者で有名な高野長英(たかのちょうえい)であったが、新平は決して恵まれた環境で育ったわけではない。

高野長英は蘭学を修めた医者であったが、幕府の異国船打ち払い政策を批判して捕えられ、脱獄して逃亡し、結局は自殺している。そのことから新平は幼いときから近所の子に「謀叛人(むほんにん)の子」と罵られた。

そして1869年(明治2年)に鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いから始まった茂辰戦争(ぼしんせんそう)で仙台藩は薩長連合に敗れて降伏した。その家臣たる後藤家は北海道に移住して士籍を保つか、水沢に残って帰農するかの選択に迫られたがこの土地に留まって平民となる道を選んだ。

新平は被占領地域の没落層という肩身の狭い思いで少年期を過ごした。しかし不遇な境遇で育ったことで逆に 「今に見返してやる」という反骨精神が宿り、勤勉努力することで太刀打ちすることを覚えたのかもしれない。

新平は満12歳になると、水沢に胆沢県庁(いさわ)が置かれたので、とりあえずそこで給仕として働くことにした。給仕といっても役所の中でお茶汲みをするのではなく役人の自宅に勤務して玄関番や雑用をする仕事である。新平が給仕として最初に使えた人が安場保和(やすばやすかず)という肥後熊本藩出身の人であったが、この男が口癖に言っていたことを新平は生涯、難題にぶつかった時の判断基準としたと思われる節がある。安場が口癖にしていたのが同郷の横井小楠の教えである。横井小楠は幕末維新期の政治家で維新の10傑の一人に数えられるが、坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作が師と仰ぐほどの人物。勝海舟(かつかいしゅう)に至っては「氷川清和(ひかわせいわ)」の中で「おれは、今まで天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南州(隆盛)とだ」と語っているほどである。安場はこの横井の弟子であったのだ。

安場が新平に口癖にしていた横井の教えとは「政治は、万民のためを判断基準とする王道を歩むべきで、権謀術数による覇道を排すべきだ」つまり、つねに公の心をもって考えていれば判断は誤らないということである。実際にこの教えは新平の心に通って身にしみたと思われる。新平は生涯、藩閥、政党には属さなかったので公の心を持って判断が出来たといえる。しかし反面、藩閥、政党の後盾がないので政治基盤が軟弱であった。そのため、予算を削られたり、人事面で口出しされたりの横槍が入り、思うように政策が実行出来なかったのも事実である。

新平は3年ほど給仕として働いて、その仕事ぶりが認められたのか東京で太政官少吏の家で書生兼玄関番として住みこむことになった。この時はまだ政治家になることを志していたわけではないが、新平は若い頃に普通では会えない3人の大物政治家に接触する。人は大物の謦咳(けいがい)に接することで器が大きくなるものである。新平はこれらの大物に接することで政治家を意識するきっかけになったのではないかと思う。その大物政治家の一人にこの東京で出くわすことになる。

太政官少吏ともなれば色んな大物と接するので玄関番をしている新平も自然と見聞きすることになるが、そのうちの一人に他の人とは次元の違う風格を感じ、人間が大きいとはああいう人のことをゆうのかと思わせる人物を身近に見る機会があった。その人物は維新の豪傑「西郷隆盛」であった。西郷が「お暑うごわすな」の一言を発するのを、すれ違う時に聞いただけであったが新平には生涯忘れない思い出となった。

ここで少し話しはそれるが、私(筆者)は学生時代に衆議院宿舎で守衛のアルバイトをしていた。そこである代議士に秘書にならないかと声をかけられ、守衛のアルバイトから国会議員の秘書として国会で働くことになった。特に政治家を志望していたわけではないが、新平が西郷に接した時に「この人は凄い」と思ったような、そういう出会いがあることを期待したことは確かである。一瞬でもそう思える機会に恵まれたならば生涯の宝になると思ったからだ。守衛、秘書の仕事を通じて、管総理、鳩山前総理、小泉元首相、森元首相、羽田元首相などとも接する機会はあった。しかし凄い人達だなと思うところはあったが、心の底から「この人は凄い」と心酔するような人物にはついぞ出会うことがなかった。出会わなかったというよりも、そもそも維新の豪傑のような政治家などいないといった方が正しいかもしれない。

また国会で何十年と働いてきた大先輩が異口同音にいう言葉が「昔の政治家はもっと立派な人が多かった」であった。政界も財界も人物が小さくなったと嘆く。私は緒先輩方から昔の人はどう立派だったか散々聞かされた。

そこで、では昔の人はどう立派だったか自分が現代の人達に伝えていこうと思い書き始めたのがこの偉人ブログである。ただ一つだけ補足すると今政治は国民の期待に必ずしも応えられているとはいえないだろうが、真面目に頑張っている政治家も少なからずいる。自分が今の政治や政治家を変えていこうと真剣に取り組んでいる人がいることも事実である。こういう人達には頭が下がる思いで心から敬意を表したい。

新平が西郷の謦咳に接することが出来たことは東京に来ての大きな収穫であったが太政官少吏との関係はうまくいっていなかった。ある時新平は来客があり何時ものようにお茶を出すと「この書生さんはどこから来たのか」と聞いてきた。太政官少吏が「奥州の山奥から出てきた朝敵の子ですよ」と言った。これには新平は怒って喰ってかかった「朝敵とは何ですか。今は、そういうことをなくして新しい世の中をみんなでつくって行こうという時ではないですか。あなたのような方が太政官にいるから、お上に楯突く者が出るんです」これにはすっかり座が白けてしまった。それ以降、太政官とは論争ばかりで一ヶ月後には新平は飛び出して郷里に帰ってしまった。


第3話

太政官と喧嘩して飛び出し、東京から郷里に帰った新平は、しばらくふらふらしていたが、「君は血気盛んで上の者の言うことを聞かない。そういう人間ははじめから官吏になったらとんでもないことになる。いったん医者になり、人に膝を屈することを覚え、それから先のことを考えてはどうか」とアドバイスしてくれた人物がおり、この人が学費も出してくれるということで、まずは福島洋学校に入り、医学を勉強するために必要な英語を勉強しその後、県立須賀川医学校に入った。ここで新平は物理学、化学、解剖学、生物学を死に物狂いで勉強する。試験もどんどんマスターし進級していく。19歳の時にはもう立派な医師として通用するようになっていた。そして愛知県の病院に赴任することになり24歳で正式に愛知医学校長兼県立病院長にまで出生していた。そんな頃にまたもや大物政治家に出くわす。

1882年(明治15年)4月、自由民権運動を進める自由党総裁板垣退助(いたがきたいすけ)が岐阜で演説中、暴漢に刃物で襲われた。板垣はもうだめかと思い「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだのは有名な話であるが、実はこの時に板垣の治療をしたのが新平であった。名古屋の新平のところに知人から「直ちに岐阜に来て診察していただきたい」と電報が届く。ところが管轄外の往診は県庁の許可が必要だが許可はおりなかった。板垣の自由党は過激な反政府的な言動で有名であったから県庁は政府の意向を気にしたのだろう。しかし新平は「そもそも命の問題だ。自由党がどうの、許可がどうのという問題ではない」と考え許可を受けないまま人力車で岐阜まで駆け付けた。新平の看護により板垣の傷は快方に向かった。その後、板垣は「あの男を医者にしておくのは勿体ない。大政治家になる面相をもっている」と語ったとされる。後藤新平という人間は所詮、普通の人間の物差しでは測れないが、やはり見る人が見れば分かったのだろう。その後は日本という国が新平の能力を必要としたかのように、行政マン、政治家への道がトントン拍子に開けていく。

この頃、治療技術をマスターした新平の関心は、医療から予防、すなわち衛生行政へと向かっていた。そして愛知県令(知事)となっていた安場保和(やすばやすかず)に対して近代衛生行政の基本を書いた建白書を提出した。するとこの建白書が内務省衛生局長の長与専斎(ながよせんさい)の目にとまる。長与といえば緒方洪庵(おがたこうあん)が開いた適塾の出身で、この適塾は福沢諭吉が塾頭をしていたこともあり、この福沢の後任で塾頭になったのが長与であった。長与は後に近代日本の医学、医療制度を確立していく男であり衛生という言葉を初めて医学に使用した人物としても知られる。建白書を読んだこの長与から新平は内務省に来ないかと誘われる。そして1883年(明治16年)1月名古屋から上京し少壮官僚として新たなスタートをきることになった。

内務省衛生局に勤務し始めて直ぐに3人目の大物政治家に出くわすことになる。長与衛生局長に呼ばれて用件を伝えられる。
「熱海で病気療養中の岩倉具視(いわくらともみ)公が、現地における結核療養所建設計画について相談があるということだが、私は他に公務があっていけないから君に代わりに行ってほしい」という出張命令であった。


でかけると熱海は雪が降っていた。岩倉が宿舎にしている相模屋につくと挨拶した。すると「宿はどこか?」と聞かれた。新平は宿をとらぬまま来ていたがそうともいえず、「鈴木屋です」と適当に答えた。岩倉は側近の者に「後藤は長与の名代で参ったのだ。鈴木屋では気毒だ。宿はこの相模屋で私の名で手配して上げなさい」と命じた。朝廷の人とは思えない気遣いである。それから本題に入る「熱海には多くの結核患者が療養している。それぞれが分散しているのは衛生上問題があるので一ヶ所に集めた療養所をつくりたい」すると新平は「療養所をつくるのであれば熱海における結核患者の衛生状態をきちんと調べて科学的に必要性を説く必要があります」と即座に返答した。「それは、もうベルツ博士がやった。立派な分析だ」「ベルツがどのような分析をしたか知りませんが、彼は日本人を手習草紙の如く心得ている不届きな人物です。彼の分析ではだめです」ベルツは天皇の指示で岩倉の主治医となっていたのだが、新平は知らなかった。しかし、岩倉は新平を咎めない「手習草紙か、ハハハ面白いことを言うな。分かった。再調査を許す。すぐにとりかかってくれ」

話しが終わり新平は席に出されたカステラをむしゃむしゃと食べた。紙に包んで頂いて帰るという習わしをあとで知るが、これも岩倉は咎めない。それどころかカステラの折が新平の部屋に届いた。「後藤はカステラが好物のようだから届けてやってくれ」と岩倉が届けさせたのだ。岩倉も大した人物である。維新の元勲であり事実上政府を支配している人間である、息子ほどの年下の人間になかなか出来る対応ではない。またこの時、新平は25歳。最高権力者にも物怖じしない気質はすでにこの頃に顕れていたといえる。岩倉はこのとき既に食道癌にかかっており半年後にベルツに見守られながら亡くなった。

岩倉との面会が終わり東京に帰った新平の初仕事は、日本の各地方における衛生状況の把握であった。後に新平は台湾総督府民政長官、南満州鉄道初代総裁、東京市長と歴任し大胆な都市計画を構想していくが全て入念な調査に基づいたものである。新平ほど調査に力を入れた政治家はいないであろう。徳富蘇峰(とくとみそほう)が後藤を「まるでカバンのように、調査を身にまとって歩く」と評した程である。この岩倉からの指示が行政マンとしての初めての調査となった。


第4話

熱海での岩倉具視との面会を終えて東京に帰った新平の初仕事は、日本の各地方における衛生行政の把握であった。新平はこれを、事前に綿密な調査項目を用意して行うがそのやり方は徹底していた。

その地方に住む人の飲食物、嗜好、衣服、夜具、家屋、清潔、運動、身体の大小、気力、体力の強弱、長寿家の増減、老後の強弱、結婚の遅早、子供の生育の良否、伝染病の増減、緒病の増減、草木菌類の有毒状況、売薬需要など必要と思われる項目はすべてあげて入念に調べた。

しかし役所内で異を唱えるものもいた「多大の経費と時間をかけてそのような詳細な調査項目を行わないとわが国の衛生制度は確立できないのか。海外諸国にはすでに各種の優れた衛生制度があるのだから、これらを応用してわが国に導入するほうが効率的ではないか」というのだ。それに対して新平は「各地方では、衛生という形できちんと制度化されていなくとも、人々の本能として必ず衛生の慣習が存在している。その現実を無視して画一的に欧米の制度を各地方に押し付けても失敗する。まず地方ごとの事情と事実を調査し、これを理想に照らして分析し、それから現実に合った衛生制度を全国に普及することが成功の道だ」と主張した。

欧米列強に伍して近代国家としての体裁を実際に備えようと躍起になっていた政府はこの調査を高く評価し、その報告書を官報に記載したほどであった。

その後も新平は調査を武器に衛生試験所の創設と拡張、医師開業試験における西洋医と漢方医の調整、全国の上下水道の改修など、次々に面倒な仕事を処理していく。次第に長与衛生局長の懐刀(ふところがたな)となっていった

1890年(明治32年)、新平が満32歳の時にドイツに留学するが、新平の調査の精度がいかに高いかを示す話がある。ドイツで国勢調査が行われた時、新平はその調査、集計、作業などの実態について詳細に研究し様式なども日本に持ち帰るが、その後ドイツ統計局長を訪問した日本人に対して「わが局を訪問した日本人は多数いるが、真の統計の理解者は後藤新平一人だ」と語ったとされる。

また、当時すでに政権から追われていたビスマルク(統一ドイツの初代帝国宰相兼プロイセン首相)と面会することも出来た。日本語版ではあるが自分の著者「衛生制度論」を贈呈ししばらく観談した。するとビスマルクは「お見受けしたところ、あなたは医者というより、政治に携わるべき人物だ。日本に帰ったら医学上はもちろん、政治上でも十分活躍してください」といわれた。欧米列強の狭間で国家を統一したビスマルクの強力なリーダーシップに以前から感銘を受け尊敬していた新平は、この言葉に大いに励まされたようだ。留学期間は2年2ヶ月であった。帰国すると新平は長与の後任として衛生局長に就任する。満36歳の時であった。それから数年後、今度は台湾に行くことになる。

児玉源太郎(こだまげんたろう)が第4代台湾総督に就任が決まった。すると児玉は新平を台湾へ真っ先に連れていくことを決める。新平の行政手腕を買ってのことである。台湾総督は初代、樺山資紀(かばやまのりすけ)、二代、桂太郎、三代、乃木希典(のぎまれすけ)と代わったが原住民の反発があり統治はうまくいっていなかった。

児玉が台湾統治について新平に意見をもとめると「生物学の原理を無視してはいけません。ヒラメの目が頭の一方に付いているのには理由があります。鯛のように両側に付け変えるわけにはいきません。現地の慣習を重んじることです」と進言する。新平は前総督の乃木希典らが原住民に反発され、阿片とゲリラに手を焼いていたのは、一方的に禁止と征伐で押したからだということを見抜いていた。

現地の慣習を重んじることは新平が岩倉具視にもとめられ日本各地の衛生状況を調べて以来、日本で政策を推し進めるうえでずっと行ってきた手法であるが、この方法が台湾統治を成功させる。

児玉は新平を民政局長から民政長官にし、台湾の経営を全面的に任せ後ろ盾となった。新平は実態調査を徹底的に行い、現地の慣習を重んじる。綿密な調査に基づき大胆な計画を立てて実行していったが新平が残したものは大きい。今に残る台北市内の広い道路や上下水道は、当時の東京よりも進んでいたといわれる。縦貫鉄道の敷設、製糖産業の振興、港湾、病院の建設などまさに国造りそのものであった。日露戦争のころには台湾は財政的に独立できるまでになっていた。今でも台湾人は「後藤がインフラを残し、台湾の発展の礎をつくった」と感謝している人が少なくない。

そして新平の比類ないものが調査能力ともう一つあった。それはリクルーターの名人であったことである。藩閥、学閥、門閥にかかわらず能力のある人、優秀な人材をどんどんスカウトしていった。結局のところどんなに立派な計画があっても実行できる人材がいなければ絵に描いた餅である。台湾統治の成功も優秀な人材を結集できたことにあった。また新平は人材育成の名人でもあった。実はこのことで専門家がまだ誰もふれていないことがあるが次回に書いてみたい。このこと抜きにして後藤新平を語るのは片手落ちであるからだ。


第5話

台湾統治の成功も官界、学界、医学界から優秀な人材を結集できたことにあった。

土木では長尾半平(ながおはんぺい)、鉄道では長谷川謹介(はせがわきんすけ)、医学では高木友枝(たかぎともえ)、調査では京都帝国大学教授で民法学者の草分けであった岡松参太郎(おかまつさんたろう)を口説き招き入れた。そして農業と経済の両方が分かる逸材ということで新渡戸稲造(にとべいなぞう)を口説き落としたのも新平であった。

何故、新平は天下有為の人材を口説き落とし台湾に結集できたのか、理由は色々あるであろうが新平のこのプロジェクトにかける情熱と今まで入念な調査に基づき計画を進めてきたことに対する信頼ではないかと思う。

私は政治家の資質の第一条件は歴史家であることだと思う。ドイツ帝国初代帝国宰相のビスマルクは「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言ったが、政治家が国の方向性を決める事案を決断するのに、自分の体験からだけで判断されたのではたまらない。

政治家は日本や世界の歴史をよく学び、深い歴史観や哲学に裏打ちされた洞察力を持ち、大局的観点から判断すべきである。そうでなければ国民に対する説得力がない。いくら思いつきでないと声高く叫んだところで軽く見られるのが落ちである。昨今は、いわば目先の、臨床的な措置しか語らない政治家が多いように思える。

その点、新平は歴史や哲学ではないかもしれないが、米国の都市学の権威、ビーアド博士が「後藤は世界に例なき科学的政治家である」と言い切ったほど、入念な科学的な調査に基づいた計画を持っていた。このことが迫力、真実味があり優秀な人材に台湾のプロジェクトに参加してみようと思わせたのではないかと思う。

後藤新平というと官僚、学者、医者などの有為な人材を登用し育てたことが強調されるが、専門家は誰も指摘しないが新平の偉かったことがもう一つある。それは起業家を育てたことである。今も昔も大企業を優遇して見返りに政治資金を貰う政治家はいくらでもいるが、新平ほどベンチャー企業を育てた政治家はいないであろう。

新平が支援した起業家をあげればきりがない。軽井沢の沓掛(くつかけ)地区の開発を「今は経営者にしても気宇広大な奴がおらん。この軽井沢あたりも君のような若い者が50年ぐらいの計画で開発したらいい」と、30歳に満たない若者に勧めた。この若者が西武グループの創業者、堤康次郎(つつみやすじろう)である。西武王国を築くルーツとなる軽井沢地区の開発を入知恵したのは新平であった。

読売新聞の再建を頼まれた正力松太郎(しょうりきまつたろう)を支援したのも新平であった。正力に「10万円(今なら数億円)貸してほしい」とお願いされた新平は「新聞経営は難しいと聞いている。失敗しても未練を残すなよ。金は返す必要はない」と言い10万円をポンと貸したという。当時、正力は政治家のことだから、どこかから都合したのだろうと思った。しかし、新平の死後、実は新平が自宅を抵当に入れ、無理して借金をした金であることを遺族から聞かされて知ることになり、正力は号泣したという。後藤新平とはこういう政治家である。私腹を肥やそうと思えばいくらでも出来たであろうが亡くなった後、私有財産は一切残っていなかったという。

そして新平は医師でもあることから医薬産業に携わる起業家も育てた。星一(はじめ)が星製薬株式会社を設立するのを支援し、漢方薬の津村順天堂(現ツムラ)の創業者、津村重舎(つむらじゅうしゃ)を可愛がった。

また神戸のベンチャー企業、鈴木商店の番頭、金子直吉(かねこなおきち)の支援もした。新平が台湾総督府民政長官の時、台湾の樟脳油65%の販売権を与え、鈴木商店大飛躍のきっかけをつくった。鈴木商店は三井、三菱と肩を並べるほどの大商社に発展する。 

しかし鈴木商店は昭和2年の金融恐慌の煽りを受けて倒産してしまう。だが鈴木商店が関係した会社は今も健在しているものが多く、神戸製鋼所、帝人、日商岩井(現双日)、豊年製油(現J-オイルミルズ)、石川島播磨(現IHI)、クロード式窒素工業(現三井化学)、帝国麦酒(現サッポロビール)等、全て金子が種を蒔いた事業である。

新平が直接、間接に支援して今も残っている企業をあげると、西武グループ、読売グループ、ツムラ、神戸製鋼所、帝人、双日、J-オイルミルズ、IHI、三井化学、サッポロビール等だが、今もって日本の経済、雇用に貢献している大企業がこれだけあるのは驚きである。

新平は台湾の民政長官を務めた後、児玉の要請で南満州鉄道株式会社の総裁に就任し、ここでは調査部を創設する。そして逓信大臣、内務大臣、外務大臣を歴任し、汚職事件で疲弊しきった東京市に大物市長として乗り込むのだが、市長に就任する経緯が興味深い。

かつて日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)の名頭取で財界鞍馬天狗(くらまてんぐ)と異名をとった中山素平(なかやまそへい)は「トップとして望ましいのは、なりたい人よりも逃げまわる人」と言ったが、中山は後任の頭取に副頭取の正宗猪早夫(まさむねいさお)に譲ろうとするが「私は頭取の器ではないので嫌です」と頑なに断られる。結局、逃げ回る正宗を数年がかりで口説き頭取になってもらったのだが、中山も中山で頭取を辞めようとしても「貴方にはまだやってもらわなければ困る」と周りがなかなか辞めさせてくれない。会長職にとどまるという約束でようやく頭取を辞めることができ、後任の正宗に引き継ぐことができた。こういう人達がトップにいる時は会社もうまくいく。政治のトップも同じことがいえるのではなかろうか。

新平が東京市長になる時がまさに逃げ回るのを周囲から説得されてなるのだが、この説得のされ方が凄かった。


第6話

東京市政は、相次いで汚職などが発覚し、行き詰まっていた。市会議員20数人が検事局に拘引され、すでに市長の田尻稲治郎と3人の助役、そして市会議長も辞職をした。こんな状態の東京市政を刷新できるのは腕力のある後藤新平しかいないと東京市会では一致していた。

しかし新平は、これからは本格的に国際的な経済戦争が始まる。日本がこれに打ち勝つためには欧米に対抗できるだけの近代的国家にしなければならない。そのためには国内、海外の調査を徹底的に行い科学的に政治、経済、技術、産業を調査研究して長期的な戦略を立て、そのうえで確固とした国策を樹立しなければならない。そのためには大調査機関を創設することが必要と考え、これを一生の事業にしようと思っていたので東京市長の就任を固辞していた。

3人の市議会議員がなんとか新平に市長就任を承諾してもらおうと説得に行き「東京都民と帝都の自治のため、ぜひ市長になってほしい」お願いする。「われわれは辞表を懐にしている。あなたが市長就任を承諾しないなら、議員を辞職する覚悟です」と迫るが、新平は大調査機関の創設の仕事は自分にしかできないという理由で就任を断る。

しかたがないので3人の市議は財界の大御所、渋沢栄一に新平の説得をお願いする。渋沢も東京市の窮状を打開するには新平に市長に就任してもらうほかないと思い説得にあたるが新平は頑なに固辞する。逃げ回る新平であったが、最後は原敬(はらたかし)首相に説得される。夜の10時頃から会談がはじまり明け方4時半頃になってようやく、大調査機関創設に協力することを条件に東京市長就任を承諾した。

1920年(大正9年)12月19日午前11時、新平は東京市役所に初登庁した。満63歳の時である。

新平の初仕事は人事であった。助役はすべて市役所の外からつれて来た。永田秀治郎(ながたひでじろう)、池田宏、前田多門(まえだたもん)の3人である。永田は内務省警保局を経て貴族院議員、池田は内務省社会局長、前田は内務省都市計画局長であった。前田は戦後の初代文部大臣も務めるが、この前田の娘の結婚相手がソニーの創業者、井深大(いぶかまさる)である。

新平は、市政の実務はすべてこの3人に任せたといわれる。汚職紛れであった市政を刷新し直ぐに打ち出したのが東京改造の8億円計画であった。当時の東京はぬかるみ、土ぼこり、断水、下水の悪臭、学校不足と惨憺たる状態であった。新平はそれを欧米に負けない首都に改造しようと意見書をまとめた。当時の市予算が1億3千万円であったが、計画期間が10年~15年であるから無理難題な計画ではなかった。しかし帝国議会や大蔵省(現財務省)が8億円は過大だと強く反対し結局、新平が東京市長の時に実現しなかったが、この8億円計画は関東大震災の帝都復興事業で生きることになった。このことは最後に述べることにする。

市長就任前から構想していた大調査機関の創設の方は安田善治郎(安田財閥創業者、現みずほ銀行の創業者)の寄付により「東京市政調査会」として発足することが出来た。この時の経緯をみるといかに新平が財界人から信頼された政治家であったかが分かる。新平は東京市長就任直前に工業倶楽部で講演をした。「首府たる東京は帝国の縮図なり。したがって東京市の行き詰まりは、すなわち帝国の行き詰まりである。東京を救済することは帝国を救済することになる」この講演を聞いていた安田は趣旨に賛同し「私で協力できることがあれば協力する」と申し出てきた。そこで新平は大調査機関創設の必要性を安田に話すと「資金は私が提供しましょう」と約束してくれた。

まもなく8億円計画を打ち出すと安田は「8億円は金額が小さくないか」と新平に申し出る。さすがの新平も計画が大きすぎるから削れと言われることはあっても小さいと言われたのは初めてであったので度肝を抜かれた。「協力してくださるのですか」安田は「私は意義のある仕事なら家産を傾けることはいとわない」と言い協力を約束した。しかし間もなく安田は大磯の別邸で寄付を強要した暴漢の凶刀に倒れ亡くなる。8億円計画は実現しなかったが、大調査機関創設は安田が凶刀に倒れた後、遺族が安田の約束を引き継いで寄付を行い、大調査機関は東京市政調査会と形を変えて説立され、調査会の入る市政会館と合築して日比谷公会堂も建設された。これらは全額安田の寄付によるものである。

安田は一代で安田財閥(現みずほ銀行の創業者)を築きあげ金融王と言われたが、事業の成否を聞かれると「一にも人物、二にも人物、その首脳となる人物如何によって決まる。経営にあたる人物が満腔(マンコウ)の熱心さと誠実さとを捧げて、その事業と共に倒れる覚悟でかかれる人か、否かだ」と語ったとされるが、後藤新平という政治家を支援することにしたのもしっかりした計画とそれと共に倒れるだけの気概を感じたからであろう。

今も数十億円、100億円を寄付する太っ腹な経営者はいる。しかし貴方にお金を渡すからその政策を実現してくれといえるような政治家はなかなかいないのではなかろうか。

次回はいよいよ新平が関東大震災から帝都をいかに迅速に復興させたか書いてみたい。



第7話

新平が東京市長を辞任して5ヶ月後に関東大震災が起こるが、その直前、山本権兵衛首相は組閣に難航していた。新平を内務大臣として入閣させたいが、新平は入閣の意義は、日露の国交回復実現にあるので外務大臣でなければ入閣を拒否する構えだった。そんな時に関東大震災が起きた。

1923年(大正12年)9月1日午前11時58分のことである。新平は麻布の自宅にいて大勢の関係者や新聞記者に囲まれていた。「これは大きいぞ」皆の足が浮足立った。時間が経つにつれ「大きいぞ」どころの話ではないことが徐々に分かってきた。東京や横浜に火の手が上がり夜を徹して燃え上がった。この惨状を目の当たりにし「外務大臣だろうが内務大臣であろうが入閣するほかない」と新平の考えは変わり「無条件で入閣する」と山本首相に告げ、内務大臣で入閣した。

内務大臣として入閣した新平は直ぐに帝都復興の指揮をとることになった。関東大震災による東京の焼失は当時、世界最大であった。有名なロンドン大火、サンフランシスコと比較しても最大の都市大火である。その復興を僅か6年半でやり遂げたのだが、阪神・淡路大震災の復興事業はこれより小さい面積であったのに10年かかかったことを考えると6年半がいかに早いかがお分かりいただけるだろう。これだけ早い復興は後藤新平がいなければ出来なかったといわれる。

新平は9月6日の閣議で早くも「帝都復興の議」を提出。帝都復興院総裁も兼務し、東京を、これを機会に欧米に負けない都市に復興させようと走り出す。
しかし新平は当初の復興予算を30億円と考えていたが、帝国議会でそんな予算はないと賛意が得られず、4億円代まで削減されてしまった。復興計画はかなり骨抜きにされたが、それでもかなりの成果があった。では東京は復興計画でどう変わったのか、具体的に大きく4つのことが変わったといえる。

1、 交通網が発達 2、防災面が強化 3、環境衛生が向上 4、美観都市になった

まず復興事業の大きな成果は、道幅は狭められたが、幹線道路や補線道路を徹底的につくったことである。焼失地の人達に区画整理の必要性を説明、説得し理解を得られたことで、次々と道路がつくられた。昭和通り、日比谷通り、晴海通り、三ツ目通り、蔵前通り、浅草通り、国際通り、永代通りなどが復興事業で出来たものであるが、道路幅は予算をカットされたため大幅に縮小させられた。例えば昭和通りは当初の計画は72 mであったが実際は44mにつくられた。他の道路も道幅を縮小することを余議なくされた。これは今考えると、都心の幹線道路を用地買収して拡げるのは不可能なことであるので計画通りいかなかったことは残念である。

また表通りだけ整備しても意味はなく、幹線道路の裏の道路もつくり直した。当時の東京は水道も排水溝も満足にない劣悪な貸家や長屋が多かった。徹底的に裏道路と同時に上水道、下水道も整備したので環境衛生が悪い長屋は一つもなくなり、東京の衛生状態は飛躍的に改善された。これだけでも大きな成果である。

そして墨田公園、錦糸公園、浜松公園はじめ全部で52もの大公園、小公園をつくった。これらの公園もやはり予算カットにより縮小させられた。今の墨田公園も当初の計画の3分の1の大きさである。

道路や公園をつくったのは防災の役割も考えてのことであった。焼けたところと焼けなかったところの境をみると道路や公園が延焼を防いでいることがみてとれたからだ。公園は「平時においては行楽の地となり、非常の時には避難所とする」ことを目的とした。今もって東京に緑の公園が多いのはこのためである。

また、関東大震災当時は耐震橋梁が一つもなかった。木造の橋は全て焼け落ちて川べりで多くの人が亡くなった。その教訓から徹底的に耐震構造の橋を架けた。墨田川の相生、永代、清州、蔵前をはじめ全部で400以上の橋が架けられた。道路をつくり、橋を架けることで東京の交通網と防災機能は飛躍的に発達した。

復興事業が完成した時、東京は緑豊かな美しい都市に生まれ変わっていた。しかし戦後はこの道路や公園の緑地を潰し運河を埋めて高速道路を建設し景観を損ねてしまったのは残念なことである。今の昭和通りは都市の道路としてはとても醜い姿になっているが、完成当時は緑豊かな、きれいな並木道があった。

新平の帝都復興計画は縮小されたもののかなりの成果があったといえようが、そのまま計画が実効されていたらと嘆く人は少なくない。そのうちのお一人が昭和天皇である。昭和58年の記者会見で陛下は「後藤新平の計画通りなら戦災(東京大空襲)の被害も非常に軽かったと思うと残念でなりません」という趣旨のことを述べられた。

新平が帝都復興計画を迅速に立て進められたのは東京市長時代には実現出来なかった「8億円計画」という下地があったからに他ならない。

また、関東大震災時の東京市長が、新平が市長の時に腹心の助役であった永田秀治郎(ながたひでじろう)であったことも大きい。国と東京市がスムーズに連携がとれたのもこのためであった。内務省と東京市の復興事業の事務所も一緒にし、所長も同じ人にしている。各部署には新平の信頼のおける人物を置き復興事業を進めることができたが、これも新平が今まで優秀な部下との信頼関係を築いていたからである。

3月11日の東日本大震災で最も不幸であったのは天災と人災の両方が重なったことだと思う。原発以外にも人災がある。関東大震災の時のような斬新な復興計画が国からも地方からも出てこないことである。またそれを実行できるリーダーがいない。これは人災である。

二度とこのような人災を招かないために政府や政治家は未来に起こる天災に今から備えなければならない。また国民一人一人も備える必要があると思う。後藤新平が残した最大の遺産は東京の道路や公園よりもこの教訓ではないかと思う。

最後に、前半にあげた古今東西の世界の偉人の名言をもう一度紹介して終わりたい。

「わが人生の成功のことごとくは、いかなる場合にもかならず15分前に到着したおかげである」ネルソン(英国海軍の英雄)

「私は機会の到来に備えて学び、いつでも仕事にかかれる態勢を整えている」
エイブラハム・リンカーン(アメリカ合衆国第16代大統領)

「魚は招いて来るものではなく、来るときに向こうから勝手にやって来るものである。だから、魚を獲ろうと思えば、常日頃からちゃんと網の用意をしておかねばならない。人生すべての機会を補足するにも同じことがいえる」岩崎弥太郎(三菱財閥創始者)

「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」ビスマルク(ドイツ帝国初代帝国宰相)


全7話(完)

文責 田宮 卓
  1. 2011/07/01(金) 02:00:57|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

岡野喜太郎(スルガ銀行創業者)

岡野喜太郎(おかの・きたろう)略歴(プロフィール)
1864年~1965年(元治元年~昭和40年)現・スルガ銀行創業者。静岡県生まれ。豆陽中学師範科中退。1887年、貯蓄組合共同社設立。1895年、根方銀行を設立し頭取に就任。1912年、駿河銀行(現・スルガ銀行)頭取。93歳で長男に頭取の座を譲り渡して会長に退くまで銀行頭取在位62年間の大レコード記録をつくる。101歳で没。

関連サイト
このブログのトップページ(目次) http://bit.ly/xLH35E
岡野喜太郎(スルガ銀行創業者)語録 http://bit.ly/oJNlB0



題名:「備えあれば憂いなし」

 
「銀行の甲乙は平常の時にはなかなかつきにくいが、非常の場合にはっきりその差が分かるものである」岡野喜太郎(スルガ銀行創業者)

地震や天災とは何時の時代も忘れた頃にやってくる。今回の東日本大震災の前にも都市部を襲った大地震だけでも、今から16年前の1995年(平成7年)は阪神淡路大震災(死者行方不明者6000名以上)、88年前の1923年(大正12年)は関東大震災(死者行方不明者14万人以上)、156年前の安政2年(1955年)は安政江戸大地震(死者行方不明者推定数万人)と150年の間に今回の東日本大震災も含めると4度も起きている。

今後も30年か40年の間に大都市を襲う大地震が来る可能性は大いにある、それも忘れた頃にやってくる。しかし大震災に遭遇 してから慌てふためいても手遅れである。特に会社を経営している人であれば従業員の生活も守らなければいけないので責任は重大である。

ではどうすればいいのか、それは何時遭遇するか分からい震災に対して普段から備えるより方法はない。これをしている企業は一早く復興することが出来る。その典型が静岡県沼津市に本社を置く地方銀行のスルガ銀行である。

スルガ銀行は静岡県と神奈川県を地盤とする地方銀行(本社沼津市)であるが、そのルーツは災害と大きくかかわりがある。

1884年(明治17年)9月15日、駿河地方を未曾有の暴風雨が襲った。鷹根村(現沼津市)は甚大な損害をうけ水田はまるで海水を被ったようになりたちまち枯れてしまった。収穫は皆無、折からの全国的な経済不況もあって、ただでさえ貧しい農村は飢饉地獄に追い込まれた。見渡す限り田畑にネズミ一匹いない惨状であった。いつ餓死してもおかしくない状況に村人達は絶望した。

しかしこの窮乏とした村を復興しようと一早く立ち上がった男がいた。それも若干20歳の青年であった。この青年の名は岡野喜太郎(おかのきたろう、元治元年~昭和40年)といい、後に現スルガ銀行(本社静岡県沼津市)を創業する男である。スルガ銀行の生い立ちは異色である。設立目的が「天災と民禍の克服」「貧しく荒んだ郷土の救済」であり郷土復興が目的であった。

被災当時師範学校に在籍していた岡野であったが村の惨状を目の当たりにし、学校を辞めて復興の先頭に立ち上がることを決意する。
その時の決意を岡野は「私の履歴書」でこう語っている「私はもう安閑として机にかじりついている気がしなかった。自ら乞うて学校を退き家事を手伝って、わが家の危機をのりこえるとともに、村の窮乏を救うために努力したいと決意した」
それから岡野は皆の先頭に立ち農業に励む。そして復興を手掛けるにあたり、まず頭に浮かんだのが、小田原の出身で、幕末に関東、東海など600余町村の財政を立て直した二宮金次郎(1787~1856年)であった。

金次郎は、天保の大飢饉に際して、静岡県の駿州御厨村(すんしゅうみくりやむら)(現静岡県御殿場市)と藤曲村(ふじまがりむら)(現静岡県駿東郡小山町)を見事に立ち直らせた実績があった。その仕法は一村の全農民に、縄一房(なわひとふさ)の代金5文を、毎日毎日欠かさずに積み立てさせて、個人を含めて村全体の財政再建をさせる「小を積んで大を致(いた)す」方法であった。金次郎の代名詞ともいえる積小為大(せきしょういだい)の実践である。

岡野は鷹根村もかつて金次郎が指導して見事に復興させた村も同じ駿東郡内の村なのだから金次郎の「小を積んで大を致す」方法でやってみようと思いついた。
天災は前触れなくやってくるのでその時に困らないようにするため金次郎の仕法をお手本に、日頃から少しずつお金を積み立てて蓄えておくことを実行した。それを自分一人で積み立てるのではなく村全体で積み立てた。村人たちに働きかけ一人月掛10銭(現在の3千円位)の貯蓄組合組織を作った。これがスルガ銀行の母体となり、1895年(明治28年)10月、正式に株式会社根方銀行(ねかたぎんこう)(スルガ銀行の前身)を岡野の手により開業、現在の静岡県沼津市の片田舎の農村に資本金一万円の日本で一番小さな銀行が誕生した。岡野は31歳で頭取に就任した。財閥でも豪商でも事業家でもない一農村の青年が銀行を設立したのは異色であった。

銀行というと「晴れの日に傘を差出し、雨が降る日に傘を貸さない」といわれるが岡野は違った。若い実業家が失敗しスルガ銀行に救済を求めてくると「事業家は、一度や二度は失敗しないと大きくならない。あなたはまだ失敗が足りないかもしれぬ。失敗すると、世の中の本当のことが分かる。それで初めて立派な成功ができる。失敗は恥ずかしいことではない。失敗に意気が挫(くじ)けることが恥ずかしいことだ」と言って事業家の肩を叩き親身になって再起方法を考え資金的支援をした。窮乏の状態から這い上がってきた自身の体験がそうさせたのであろう

スルガ銀行は順調に発展するが、その後も何度も災害に遭遇する。しかしその度に成長していくから不思議である。決してドサクサに紛れて焼き太りをしたのではない。何故、災害に遭遇する度に成長出来たのか、それは岡野が普段から万全な備えを怠らなかったからに他ならない。

1913年(大正2年)3月の沼津大火では、民家の1600戸以上が焼失した。焼け野原となった街中にスルガ銀行の本社屋だけが残った。前年の1912年(明治45年)本店を新築していたのだが、新社屋の設計の際、岡野は鉄扉の裏に漆喰を塗って裏白にするように強硬に主張した。赤レンガ三階建ての堂々たるビルであるが「そこまでやる必要があるのか。無駄なことだ」という声が多かったが、「高熱を持つと鉄板が反り返り、その隙間から火が入る恐れがある」とガンとして譲らなかった。この用意周到な備えがなかったならばビルの骨格は残っても重要な書類は焼けていたかもしれない。

そして岡野の用意周到さは1923年(大正12年)9月1日に起きたあの関東大震災の時にも大いに生きた。マグニチュード7.9のこの地震はスルガ銀行においても小田原支店ほか5店が焼失、3店が倒壊、5名の従業員が死亡するという大きな被害を受けた。それだけではなく関東大震災は岡野個人も大きな打撃を受けた。妻と三女は現JR東海道線根府川駅近くで地震に遭遇したが、列車もろとも相模湾に沈んでしまうという、不幸な出来事が発生した。後日、妻と三女の遺体が根府川と真鶴の海岸に別々に打ち上げられた。
公私両面で壊滅的な打撃で大きなショックを受けた岡野であったが直ぐに頭取としての使命感から立ち上がり陣頭指揮をとる。
「私はスルガ銀行の頭取だ。私ごとで、頭取としての使命を忘れてはいけない。銀行のこと、社員のこと、いや、いや、スルガ銀行を信用して、大事なお金を預けて下さる取引先をはじめ、日頃お世話になっている地域の皆さまに、お尽くしすることが先決だ」

震災直後、東京では全部の銀行が休業、政府は金融の混乱を避けるため被災地にモラトリアム(支払猶予令)を布いた。大蔵省(現財務省)は、東京、神奈川、埼玉、千葉、静岡の一府4県の銀行にモラトリアム(支払猶予令)を発動して、預金の払い戻しを猶予する応急処置をとり銀行業界の混乱を防いだ。
だが岡野は「非常災害時にこそ、人々は最もお金が必要」という思いが強く、預金の払い戻しを何とかしたいがそれには支払う現金が必要になる。どこの銀行も支払猶予令を楯に現金確保に応じてくれない。資金調達方法を必死に考えていると、幸い日本銀行の本店は焼失を免れていることが分かった。直ぐに取締役を派遣して日本銀行と交渉をした。その結果、日本銀行名古屋支店が融資に応じてくれることになった。
資金調達ができたので、預金の払い戻しを表明するが、今度は神奈川県下の銀行からクレームがきた「支払猶予令があるのだから、払い戻しはしないでくれ」というのだ。建前はそうであるが、どの銀行も事務処理不能で預金の払い戻しができないのである。

ところがスルガ銀行だけは事務処理が可能であった。岡野が毎日の全ての取引を本店に報告する「取引日報」を義務づけ、手形、証書など重要書類も全部、その副本を作成し本店に送るようにしていたからだ。コピー機も、パソコンも自動車でさえ一般的ではなかった時代である。全てが手作業による転記、運搬であった。膨大な手間と時間がかかるので「百年に一回起こるかどうか分からない天災時のために、毎日膨大な取引日報を作るのは大変だからやめてほしい」という声が行内にはあったが岡野は手作業によるバックアップをずっとさせていた。このバックアップシステムのお陰で、店舗が焼失して元帳が無くなった支店でも日々の預金取引を日報で本店に報告していたので、その日報に基づいて元帳を復元して預金の払い戻しに応じることが出来るのである。

「スルガ銀行は幸い預金の払い戻しが可能である。払い戻しができるのにやらないのは、銀行の使命を果たさないということで、預金者の信頼を裏切ることになる。このような非常時にこそ地域の復興を支援し、日頃のご愛顧に報いる奉仕の心を忘れてはいけない」と預金者の預金引き出しにて応じた。「スルガ銀行は、たいしたものだ。支払猶予令が出ていても、預金の払い戻しをしてくれた。これで家族ともども死なずに済む。有難いことだ」と涙を流して喜ぶ人もいた。これでスルガ銀行の信用が結果的に高まることになり、逆にこの災害時に現金を持っているのはかえって物騒だというので預ける人も出てきた。
このとき威力を発揮した日報制度は顧客からの信用をさらに高めたが、太平洋戦争の時も、空襲により本店はじめ16店舗を焼失したがスムーズに業務を再開することができた。

そして預金の支払いだけでなく、同時に打撃を受けた企業に対して復興融資を行い次々と救済していくこともした。東京の銀行が政府に保護されながら機能が停止していたのに対して、民の力だけで見事に銀行家の使命を果たしたのであるから驚きである。

この関東大震災のときの営業報告書には「壊滅的な被害をこうむるも、銀行の使命を果たして、地方経済の復興に、人心の安定に貢献すること大であった。よって、神奈川県下の営業店は、震災前に比べて進展した。これは実に予想外の結果として、当社として不幸中の幸いであった」と記されてあるが、岡野が独自のバックアップシステムを奨励し万全な備えをしていた結果に他ならない。

岡野は93歳で長男の豪夫に頭取の座を譲り渡して会長に退くまで銀行頭取在位62年間の大レコード記録をつくる。そして1965年(昭和40年)老衰のため101歳で静かに息を引き取った。 

つまり岡野が創業したスルガ銀行は明治、大正、昭和、平成と一世紀以上に渡り静岡県と神奈川県の経済を支えたことになる。その間、沼津大火、関東大震災、戦争と何度も危機があったが万全な備えをしていたためいずれも見事に乗り越えた。

そして最後に岡野の現代の私達に対する遺言ともいえる言葉を紹介しよう。
 「嵐は人々に災害をもたらすばかりとは限りません。時としては、その凄まじい猛威が逆に人々を目覚めさせ、暗い貧困の歴史から脱却する決意を促すこともある」

また、創設者の岡野喜太郎の精神は今もスルガ銀行に脈々と受け継がれている。嫡男で第2代頭取の岡野豪夫は、篤実な人柄で、創業者の喜太郎が提唱した「勤倹貯蓄」と「社会貢献」の創業の精神にしたがって銀行の発展に尽くした。嫡孫で、文化人であった第3代頭取の岡野喜一郎は、1975年(昭和50年)創立80周年を記念して、創業の精神に基づく5つの「駿河精神」を制定したが、第一番目が「奉仕の心をもち、無駄を省いて、有用なものに財を使う(勤倹貯蓄の精神)であった。そして嫡曹孫で、現社長の岡野光喜は創業の精神を実現し、常に地元のお客様のお役に立てるコンシェルジュバンクを目指して21世紀を進んでいる。
 
                                      以上

文責 田宮 卓 

参考文献
村橋勝子 「カイシャ意外史」 日本経済新聞社
日本経済新聞社 「私の履歴書 経済人2」日本経済新聞社
谷沢永一 「危機を好機にかえた名経営者の言葉」 PHP
日本経済新聞社 「経済人の名言・上」 堺屋太一 監修
三戸岡道夫「二宮金次郎から学んだ情熱の経営」栄光出版社
  1. 2011/06/07(火) 15:39:48|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

堤康次郎(西武グループ創業者)

堤康次郎(つつみ・やすじろう)略歴
1889年~1964年(明治22年~昭和39年)西武グループ創業者。滋賀県愛知郡(えちぐん)八木荘(やぎしょう)村生まれ。早稲田大学政経学部卒。各種の事業を始めて失敗したのち、大正7年軽井沢開発に着手。大正9年箱根土地㈱設立。昭和3年多摩湖鉄道創立。昭和20年西武鉄道設立。昭和27年衆議院議員。昭和28年衆議院議員議長。75歳で没。著書に「私の履歴書」(日本経済新聞連載、昭和31年7月)他。

関連サイト
このブログのトップページ(目次)http://bit.ly/xLH35E
堤康次郎(西武グループ創業者)語録 http://bit.ly/o4yNzo
堤康次郎と後藤新平(大物政治家)http://bit.ly/ABMKsi
 




平成23年2月27日
題名:「会社や仕事を選ぶな(就職が決まっていない学生に向けて)」



大学生の内定率が約7割で4月から就職出来ない人が約3割もいるとテレビや新聞で報道されている。大手企業は採用枠が少なく倍率が物凄く高くなるためなかなか内定をもらうのが至難のようだ。しかし中堅企業やベンチャー企業では逆に採用枠があるのに学生の応募が少なく採用出来ずに困っているという。テレビのインタビューでまだ内定をもらえていない学生が答えていた。大手企業ばかりを受けて結局内定をもらえなかった。今年もう一度大手企業を受けるが、中小企業を受けることは考えていないという。何故大手企業なのかの問いに「大手の方が安定しているから」と何とも漠然とした答えである。私は職があるのであれば就職浪人などせずにまずは働くことを勧める。何故なら働かないといつまでたってもスタートラインに立てないからである。もう一年頑張って希望の会社に行ければいいが、可能性は低くなんの保障もない。就職浪人は社会にとっても本人にとっても大変なロスでもったいないことである。

私自身、守衛のアルバイトから国会議員の秘書になった経験があるが、思わぬ人との出会いや仕事の出会いは働くことでチャンスが来るのであり、働かなければ何も起こらない。希望の会社や仕事ではなくとも一生懸命働くことで道を切り開いていった人達は過去に幾らでもいる。

敗戦から2年後、就職しようにも新たに採用などする会社などない時代である。「便所掃除と風呂番ぐらいはできます」といって軽井沢のホテルに雇ってもらった男がいた。

彼は仕事にありつけたことに喜び、来る日も来る日も早朝は便所掃除、夜は風呂の掃除と与えられた仕事に没頭した。

朝の5時便所掃除をしていると、そんな時決まって顔を合わせる客がいた。その客は常連客のように来ており、そのうち客から声をかけられるようになる。「早くから御苦労だな」、「なんという名前かね」「はい駒村と申します」実は、この声をかけた客こそ西武グループの創業者、堤康次郎(つつみ・やすじろう)その人であった。当時はみな「大将」と呼んでいた。

それから風呂場でもこの大将と顔を合わすようになり、頼まれて背中を流すようになる。「どうして三助(さんすけ)ができるのか?」「はい奉公をしていた時に覚えました」「どう教えられたか?」「はい、アカを落とそうとせず、心臓に向かってこすってやると気持がいいからそうしろと教えられました」「ほう、なかなかいい勉強をしているな」とこの大将は駒村のその実直ぶりと勉強の仕方に感心したようだった。

それから数年後のある日、駒村はグリーンホテルの支配人から呼び出された。何事だろうと支配人室に出向くと、支配人に「駒村君、君が僕の後任だ」駒村は最初何を言われているのか分からずキョトンとていると、「これは大将じきじきの人事だ、有り難くお受けして粗相のないように、まあ頑張れ」

清掃員が支配人に抜擢されたのであるからホテルじゅうが大騒ぎとなったことは言うまでもない。

最後に阪急グループの創業者、小林一三(いちぞう)の言葉を紹介しよう。
「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」
 
文責 田宮 卓 

参考文献
上之郷利昭 「堤 義明の人を活かす!」 三笠書房
  1. 2011/02/27(日) 17:37:55|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ